verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

人生論 人生に無駄なことはない。

人生に無駄なことは、ない。

確かに、「あれも、これも、無駄じゃん。無駄だった」と思う人には、効果的であったりする。

例えば、分かりやすく言うと、
ある時、人の肩揉みを頑張ったとする。
ある時、人の肩揉みの技術の発想が役立ったりする。
ある時、ゲームばかりしていた。
ある時、ゲームはがりしていたことを嘆く。
その後、3つのパターン。
①ゲームばかりしていたから、ゲーム会社に入って、役に立った。
②ゲームばかりしていたけど、何にも役に立たなかった。
後悔ばかりだ。と10年。後悔。死んだ後も後悔。
③ゲームばかりしていたけど、何にも役に立たなかった。と10年。と思っていたら、、、。
勿論、その時々の幸せというものがある。

本当の後悔は、バネにできる。反省になる。
「後悔が足りないんじゃないか?」「反省が足りないんじゃないか?」
後悔に対する「何かが足りないのかもしれない。まだ見つかるタイミングじゃないのかもしれない」
「本当に諦めたものは、頭にも浮かばない」「諦めきれてない何かがある。」
ってことは、本当の後悔してないんじゃないか。ってことは、後悔してないんじゃないか。
勿論、かなりいりくんだ場合は、なかなか、その打開策と、真実と、を思い付かない。


無駄だという思い込みがある。
自分や、自分達が無駄や有益だと思っているのである。

有益主義がいきすぎると、無駄がなくなり、無駄がないことに困る。

私は、頭の中で、「効率化、有益化」とばかり考えていた時期があった。

効率と考えていたことは、有益ではなかったということもいえる。
有益だと思っていたことは、有益ではなかったともいえる。

「超効率」病と主義がある。
「超有益」病と主義がある。
「超無駄」病と主義がある
「超無益」病と主義がある。

超効率主義と思っていた人は、超非効率視点も必要であったりする。
この資本主義社会で、「無駄なことが好きなんだ」という超無駄病や超無益主義は、見かけづらい。

私は、中庸主義である。
いや、事なかれ主義である。
いや、非中庸主義である。