人生に無駄なことは、ない。
確かに、「あれも、これも、無駄じゃん。無駄だった」と思う人には、効果的であったりする。
例えば、分かりやすく言うと、
ある時、人の肩揉みを頑張ったとする。
ある時、人の肩揉みの技術の発想が役立ったりする。
ある時、ゲームばかりしていた。
ある時、ゲームはがりしていたことを嘆く。
その後、3つのパターン。
①ゲームばかりしていたから、ゲーム会社に入って、役に立った。
②ゲームばかりしていたけど、何にも役に立たなかった。
後悔ばかりだ。と10年。後悔。死んだ後も後悔。
③ゲームばかりしていたけど、何にも役に立たなかった。と10年。と思っていたら、、、。
勿論、その時々の幸せというものがある。
本当の後悔は、バネにできる。反省になる。
「後悔が足りないんじゃないか?」「反省が足りないんじゃないか?」
後悔に対する「何かが足りないのかもしれない。まだ見つかるタイミングじゃないのかもしれない」
「本当に諦めたものは、頭にも浮かばない」「諦めきれてない何かがある。」
ってことは、本当の後悔してないんじゃないか。ってことは、後悔してないんじゃないか。
勿論、かなりいりくんだ場合は、なかなか、その打開策と、真実と、を思い付かない。
無駄だという思い込みがある。
自分や、自分達が無駄や有益だと思っているのである。
有益主義がいきすぎると、無駄がなくなり、無駄がないことに困る。
私は、頭の中で、「効率化、有益化」とばかり考えていた時期があった。
効率と考えていたことは、有益ではなかったということもいえる。
有益だと思っていたことは、有益ではなかったともいえる。
「超効率」病と主義がある。
「超有益」病と主義がある。
「超無駄」病と主義がある
「超無益」病と主義がある。
超効率主義と思っていた人は、超非効率視点も必要であったりする。
この資本主義社会で、「無駄なことが好きなんだ」という超無駄病や超無益主義は、見かけづらい。
私は、中庸主義である。
いや、事なかれ主義である。
いや、非中庸主義である。