「人生とは、地球そのものである。」
私の場合は、今までルーレット論や、山登り論が主流の指針であった。
ルーレット論とは、人生で起こる事が、ルーレットのように、ある時ふと、ピコっと表れる。
例えば、友達との喧嘩。これは、いつか出てくる。その人の生き方によって、確率は変わるが、ふと出てくる。自分の傲慢さが原因だったりする。
自分の中で、わだかまりを残したとしよう。
乗り越えられなかったものは、また違う友達で出てくる。
会社でも、ある個人のクレームを真摯に向き合わなかったら、また違う個人から更に大きなクレームが出てくる。真摯さが原因だったりする。
向き合う事が肝要だ。しかし向き合えない事もあると認めることも肝要だ。
山登り論とは、とにかく色んな所を周りながら、上に上っていくということだ。
これは、わかりやすい。例えば、会社生活も、色んな事を経験すると、どんどん景色が変わってくる。
人生とは、地球そのものである。
例えると、時には、自分の価値観や見方の反対側になる必要がある、
地球の反対側に行く必要もある。
自分の価値観と正反対な人と、接することもある。
風のように、吹いて、循環している。
川のように、流れ、循環している。
山のように、積もり、循環している。
その時のイメージがこれだ。
こうやって絵のイメージを出すのは、初めてだ。
「プロでもない、そう素人の私。下手くそな絵」
こうやって、自分が表現したものを、自分で否定する。
なぜ、いきなりプロや、金の稼ぎ方や、キャリアの構築を考えるのか
やってみないと、わからない
「ちょっとやってみて下手だったし。昔やって、あんまりだったし」
昔と今では状況が違う。過去にダメだったことが、現在でもダメとは限らない。
内心や本心ではやりたいと思っているのに、遠慮する。自己否定をする。
ドリームキラーという言葉もあるが、自分の可能性を消しているのは、いつも自分である。
この思考の呪縛は、とても難儀なものだ。
いつしか、人は、遠い将来の雲の上を見て、自分達の等身大の体や、足下を見なくなった。
神にとっては、どんな人も豆粒である。ドングリの背比べであるという見方もある。
まず、「やってみたらどうだろうか」
できると思ったら、できる。勿論、できないこともあるが、そんな事はやってからいいたまえ。
と自分を責める。
なかなか自責の思考が頭をよぎる。
「自責の思考」が悪いのか
じゃあ自責の思考をどうすればいいのだろうか。そうすると、絵の表現は、忘却の彼方になる。
そして、自責があれば、他責もあるなと考える。他責型は、どんなタイプだ。
、、、。
妄想思考は、どんどん進んでいく。
今日は、ここまでにしよう。
ここまでにしていいのか。と考える。
、、、。
「誰か思考を止めてくれ」
、、、。
思考とは、どのように止めるのだろうか。
誰かが、止められるものだろうか。
、、、。