verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

〔超特ダネ②〕なぜ支援事業や教育事業というのは、成果報酬型ではなく、完全に成果をあげる事だけに力点は置かず、不完全な弱い適度な適当な支援の範囲に収めるべきなのか?それは、完全な洗脳でしか、完全成果達成や完全成果報酬型は、不可能だからだ。つまり、宗教を除外した場合には、成果報酬型は、不可能だからだ。なぜ受験産業が、志望校に受からない場合に、返金するところがないのか?私は、完治完全成果報酬型のオールラウンドの人格教育活動を達成しようとしたが、結局は、社会の歯車になるように教育する事が、教育の本懐なのだろう。

〔超特ダネ②〕なぜ支援事業や教育事業というのは、成果報酬型ではなく、完全に成果をあげる事だけに力点は置かず、不完全な弱い適度な適当な支援の範囲に収めるべきなのか?

それは、完全な洗脳でしか、完全成果達成や完全成果報酬型は、不可能だからだ。つまり、宗教を除外した場合には、成果報酬型は、あらかた不可能だからだ。そして、洗脳というのは、本当の核心の教育と紛い物の洗脳の見分けが付けられない人が少なくないからだ。見分けがつけられない人が、SNSで、悪く言うので、現代社会では、不可能なのだろう。そして、本当の核心の教育的指導ができる宗教的な指導者というのは、実は存在しないのだ。理想からは、数段階落ちるカリスマ的宗教的指導者というのが、現代社会の最高レベルなのだろう。貴方は、その現代社会の最高レベルを数段超える理想的な宗教的な指導者の道というのは、一億分の一の可能性の大器晩成ルートを選ぶか、一億分の99999999の可能性の死ぬまで没落ルートを選ぶか、そんなギャンブルを張れる人がいると思うだろうか?会社員では、100%なれないのだ。また、他の属性の人でもなれないのだ。

話題は変わって、受験に受からなかったら、返金しますというのは、学習塾産業では、ありえないのは、このあたりが関係している。私は、「なぜ受験産業が、志望校に受からない場合に、返金するところがないのか?」、高校生の時に気になっていたが、やっと悟った。無論、物理的な経営上不可能なのは、分かっていた。志望校に受からなかったといって、100万円、200万円、、、と取る塾代を返金していたら、スタッフにお金を払えないからだ。社長のポケットマネーで負担なんかしてたら、借金地獄になってしまう。また志望校に受かったら、1000万ボーナスとして、払う親御さんというのは、いないから、経営上不可能だ。そして、志望校第一主義の弊害や、生徒自身の問題や家族の問題や一部の地域の問題等があり、教育的に無理な話なのだ。

簡単に言えば、一日24時間、365日を、監視して、教育することは、不可能だからだ。それができれば、達成できるという指導者はいるかもしれない。だが、やはりドラゴン桜のような指導が、読み物としての人権制限の限界ラインだし、現実にあんな学校はないわけだ。そして、まあ結局は、普通のインテリ学校やインテリ塾等しか、現代社会では、無理なのだ。インテリ学校やインテリ塾は、優越的地位の濫用や優越感があるかもしれないし、お金儲けには、一定のラインでなっているが、デメリットも少なくない。まあ、私は、御三家のようなインテリ学校の先生になりたいと思う事もなかったし、なれる学習もしていないし、そんな頭もない。また、インテリ塾には、オリジナルメソッド的な関心は少しばかりはあるから、転職してもいいかもしれないが、おそらくわりとすぐ、全体像が内部で把握したら、飽きるだろう。単純にオリジナルメソッドのコアな内部資料を見たいだけなのと、教室でどんな感じなのか把握したいだけだ。野次馬的な授業参観程度だろう。まあ、別に見なくても、把握可能なことかもしれない。まあでも、密室で何が起きてるか、教育的な観点で、見てみたいだけだろう。ユーチューブとかにあがってれば、それで十分だ。ユーチューブにあがってない場合は、少し気になるだけだが、そんなにたいした刺激はないだろう。なので、結局どうでもいいという結論になり、このブログを書いている。私は、この記事に酔える自己満足感があるわけだし、長年の謎が納得感がある答えが出れば、それで人生で、十分なのだ。

パワハラ防止法もあるわけだし、パワハラになるだろう。なので、完全成果報酬型の支援や教育事業というのは、小説の中だけのものなのだろう。昔に成果報酬型については、このブログに書いた気がするが、だいぶこの記事で最終的な結論が出た。

私は、完治完全成果報酬型のオールラウンドの人格教育活動を達成しようとしたが、不可能な事に気付かされた。リターンが見合わないものは、事業としては、不適格だ。なので、普通がやはり一番適度な適当な範囲なのだ。社会では、やはりいつまでたっても、中道が、何事も大切なのだろう。なので、結局、社会の歯車になるように教育することが、教育の本懐なのだろう。社会の歯車にも、身体的もしくは精神的要因でなれない方もいるのだ。その方々を、社会の歯車になれるように再教育することは、意義深い事であるが、長年に及ぶ弛緩的甘々優しげ教育手法しか不可能だろう。

大いなる愛がある熱血スパルタ教育の方が、個人的には好きだが、それだけでは限界があるかもしれないし、ゆとり教育も大切なのかもしれない。ゆとり教育で、コミュ力が上がったという話も聞いたことがある。「は?やれよ?一時間以内にやれよ。一時間後にここまでの学習範囲が終わってなかったら、ぶっ飛ばす」等の愛がない冷徹スパルタ教育や「この人だめだ。縁を切ろう。まあ利用価値が上がったら、縁が繋がるかもしれない」というような愛がない冷徹教育も今後の目標かもしれない。誰かが、リストラ等の冷徹教育というのをしているから、社会がうまく循環しているのだ。冷徹教育というのは、真相や本音を伝えず、本人の頭の中で、ぐるぐる回らせ、反省を促す面もあるし、就活で言うお祈りメール等のようなものである。「お前は、私達にとって、価値がない価値が薄いから、落としました」とだけだ。なぜ、落ちたか分からないから、理由が全く分からない世界というのが存在している事を改めて把握できる良い機会だろう。

私には、愛がないのも、冷徹も、性格的に無理があるが、すごく大事な開拓だ。

そして、私は一部の領域の専門的な指導というのは、飽きっぽいので、極力したくない。だが、いつか飽きが来ない専門的な指導の領域が発見できたら嬉しいが、まあないかもしれないが、見つけようとする努力は続けよう。結局、知見をブログで書くぐらいに留める形が、ベストなのかもしれない。