哲学をとことん追究すると、なぜ、キチガイになるのか?
本質的にいままでわからなかった。ハーバード大学の哲学者のマイケルサンデル教授が、哲学の是非功罪を語っていた。哲学は、人間を強制的に二度と前のステージには戻れず、次のステージに突入させ、物事の精緻な見方を獲得させる。つまり、悪い面として、人間は考えてしまうと、頭がおかしくなるように仕組まれてる部分があるのだ。例えば、近親相姦は一般的に禁忌である。私は、近親相姦系のAVは、見たくないし、吐き気がする。近親を兄弟を犯すつもりは全くないが、それを見てしまうと、何かが崩れる気がしていたからだ。生物学的に、DNAがおかしくなるのは、よく言われている。だが、実態はそれだけではない。近親相姦のテーマに関して、本質的に考察したくなかった。
だが、私は、悪魔から過激な近親相姦の夢を見させられた。対抗力が足りてなかった。そして、起きた時に、このテーマを考える事に否定的だった。だが、読者の全ての人に警告する。純度99%以上の悪なのだ。物事を「考えすぎ、考えない方がいい」というのも、物凄く重要な事なのだ。哲学は、人を悪魔に変えてしまう可能性が高い。哲学なんてもうしない!という決意をしようと一瞬思ったが、もうここまで来てしまうと、無理ゲーになってしまい、キチガイから抜け出せない蟻地獄に嵌まってしまっている。単に頭で少し考えるぐらいなら、可愛いものだ。だが、このように紙に纏めてしまうと、考察をしてしまうと、思考の留め具になるが、非常に強い危険性を孕んでいる。人間、「生理的に無理なものは、無理。感情的に無理なものは無理」と、バッサリ切り捨て、考えなくていいのだ。私は、また考えてしまった。考えたくないテーマは、どれくらい残されているのだろうか?本物の哲学者になれるか、人生の負け組として地べたを這う落伍者になるか、今後が楽しみである。ちなみに何かを的確に考察できない場合、例えば、近親相姦について考えると、近親相姦のエネルギーが幾ばくか溜まってしまい、近親相姦をするリスクが上がってしまうのだ。なので、感情に従って、嫌なものは嫌という扱いだけで良いのだ。なぜ、タブーなのか考えるのが哲学だ。タブーを考える美味に酔いしれて、バカな行いをしている。
人間というのは、本当にバカな生き物であり、欲にまみれ、失敗してる事を自覚しない。そして、何か自分以外に、矛先を向け、責任転嫁する悪癖がある。悪癖を自覚し、反省しよう。