verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

なぜ、私が、物理的な近くにいる人を増やさないのか?というのは、かなり沢山の人が、物理的に近しい人にだけ、親切にしたり、囚われて、見知らぬ人や遠い人を無視してるからだろう。分かりやすく伝えるためにこんな傲慢な態度を取り申し訳ないです。

分かりやすく伝えるためにこんな傲慢な態度を取り申し訳ないです。

なぜ、私が、物理的な近くにいる人を増やさないのか?というのは、かなり沢山の人が、物理的に近しい人にだけ、親切にしたり、囚われて、見知らぬ人や遠い人を無視してるからだろう。例えば、配達員の人が、夏場は重い荷物を持って、汗水垂らして、配達して頂いているが、それに感謝しない輩も多いだろう。私は、夏場は、配達員の方に、冷やしたペットボトルのお茶は、渡せるように用意している。渡さない方がいい場合は渡さない事もあるが、心に従っている。金を払っているから、感謝しなくていいなんてことはないし、カルマになるのだ。確かに、自分が責任を取れる家族を優先するのは、仕方がないとも言えるが、遠い人に対して、物凄く悪態をついてる人が少なくない。西洋のビジネス本の優先順位付けの悪い取り入れ方の見本だろう。この例は、キリスト教の一回限りの人生という悪い見本だろうし、勿論、一回限りの人生という考えも有効な場面も多々あるが、悪い取り入れ方はやめた方がいいのは間違いないだろう。簡単に言うと、キリスト教の一回限りの人生観と仏教の輪廻転生の人生観の融合で、どちらにも対応できるように、日々の生活改善をしていくべきなのだ。具体的な行動を知らない人が、こういうアホな行いをしてしまうのだ。キリスト教の考え方で、日々の生活力に落とし込んでいる場合は、良いだろうが、なかなかそこまで手が回らない人が少なくないだろうが、そんなに甘くないのだ。

そして、人生の終末期に、名前も知らない配達員に対しての悪態を悔いることはないだろうし、家族や自分に対しての想いが一番最大だろうが、実を言うと、閻魔様の審判には、悪態をついた事は、必ず恐怖の内外反転の体験をされることになる。人生の終末期と、死んだ後まで、書いてある記事は、あまり見受けられないだろう。最近の日本人が思うより、実は、死後の世界は、物凄い怖いのだ。「こんなに怖いなら、あの時少しだけ改心して改善行動をすればよかった」というのは、後の祭りなのだ。無論、仏教の輪廻転生の人生観の話をしているし、正しい知識がある人は、分かるものだが、「輪廻転生あるなら、別に殺人しても、また生まれ変われるってことなら、殺人してもいいんじゃない?」とか、「輪廻転生あるなら、適当に生きてても、良いんじゃない?」とか、「輪廻転生あるなら、自殺しても良いんじゃない?」とか、仏教の輪廻転生の人生観の非常に悪い取り入れ方の曲解をしている人もいるだろう。こういう人に対しては、仏法的な輪廻転生観より、キリスト教的な一回生限りの観念での説法の方が、有効な場合もありえるのだ。「輪廻転生は信じているけど、悪い行いによるカルマは信じてない」というような、馬鹿な価値観を持っている人が、少なからずいるからだ。「一度きりの人生を殺人を犯して、刑務所にずっといるのは、嫌じゃない?」とかである。説法するときは、短めな言葉にならざるを得ないから、「一度きりの人生」という文脈にするか、「生まれ変わる人生」という文脈にするか、選ばざるを得ないのだ。時間があるなら、融合文脈を使えるが、なかなか難しいケースもあるだろうから、ケースによって使い分けるのだ。