verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

布教をする人 利益と代償

布教をする人にも、利益と代償がある。

ある日、私は、母に、聖書を復習するように、問い詰めた。が、母は横になりたいと言っていたが、横になれずに、イライラしていた。私は、更に続けた。母は、長年の怒りに、プッツンして、私を殴りかかった。私は、顔を差し出した。殴りたいだけ、殴らせた。私は、神のお陰で、それを愛せる境地にさせてくれた。私は、いつ死んでも良いから、身体を差し出せる。私は、いつ死んでも良い。世界には、もっと痛い思いをしている人がいる。私は、自業自得だ。自分が、罪を犯した分のカルマの解消になるからだ。私は、罪を犯している。知らず知らずにも、犯している。それが、痛い思いになっているだけだ。私は、最後まで、諦めない。私は、ただ、自分が恋しいのだろう。ごめんなさい。ありがとう。と伝えたい。このような表現を続けると、頭がおかしい人と思われるかもしれないが、勉強は大事だ。

ただ、いくら、脳が無意識の器に固定されても、肉体付随の痛みというのは、少なからず、存在する。通常より、大幅に減少することはできたとしても。釈迦も、最初の修行の段階では、殴られたら、痛かっただろう。が、徐々に肉体強化と無意識の深い器と洞察に入って、痛さを感じなくなったと考えられる。
また、カルマがある人は、何かカルマを乗り越える時に、圧迫を感じる。乗り越えると、緊張がほどける。どうしようもなくやりたくないことは、カルマになっている事が多い。このどうしようもなくやりたくないことを、どうするかである。①無理矢理切り替えて、即座にやる②落ち着いて考える③やらない。④二番目にやりたくないことをやる⑤観念してやる
仕事は、①④⑤を繰り返しているだろう。②をとれる職場は少ない。③は、ないだろう。
私は、②をやりたかったんだと思うが、そんな時間はなかったのである。
学生の時は、実体験が少ないが、あらゆる視点の洞察が深められる。
社会人の時は、タスクに追われて、あらゆる視点の洞察が深められない。
私は、一度社会からドロップアウトして、この世とあの世の本質を知りたかったのだろう。勿論、代償は大きかった。
が、全体から、俯瞰してみることが、できただろう。

追記
布教も、言葉を変えて話す時がある。良霊を、内なる存在と言ったりする。ニュアンスが伝われば、良いのだ。簡単な文章に直す作業で、布教したい事を話すのだ。ある程度布教すると、布教慣れというのも存在する。伝わりやすい文章がわかったりする。