布教をする人 利益と代償

布教をする人にも、利益と代償がある。

ある日、私は、母に、聖書を復習するように、問い詰めた。が、母は横になりたいと言っていたが、横になれずに、イライラしていた。私は、更に続けた。母は、長年の怒りに、プッツンして、私を殴りかかった。私は、顔を差し出した。殴りたいだけ、殴らせた。私は、神のお陰で、それを愛せる境地にさせてくれた。私は、いつ死んでも良いから、身体を差し出せる。私は、いつ死んでも良い。世界には、もっと痛い思いをしている人がいる。私は、自業自得だ。自分が、罪を犯した分のカルマの解消になるからだ。私は、罪を犯している。知らず知らずにも、犯している。それが、痛い思いになっているだけだ。私は、最後まで、諦めない。私は、ただ、自分が恋しいのだろう。ごめんなさい。ありがとう。と伝えたい。このような表現を続けると、頭がおかしい人と思われるかもしれないが、勉強は大事だ。

ただ、いくら、脳が無意識の器に固定されても、肉体付随の痛みというのは、少なからず、存在する。通常より、大幅に減少することはできたとしても。釈迦も、最初の修行の段階では、殴られたら、痛かっただろう。が、徐々に肉体強化と無意識の深い器と洞察に入って、痛さを感じなくなったと考えられる。
また、カルマがある人は、何かカルマを乗り越える時に、圧迫を感じる。乗り越えると、緊張がほどける。どうしようもなくやりたくないことは、カルマになっている事が多い。このどうしようもなくやりたくないことを、どうするかである。①無理矢理切り替えて、即座にやる②落ち着いて考える③やらない。④二番目にやりたくないことをやる⑤観念してやる
仕事は、①④⑤を繰り返しているだろう。②をとれる職場は少ない。③は、ないだろう。
私は、②をやりたかったんだと思うが、そんな時間はなかったのである。
学生の時は、実体験が少ないが、あらゆる視点の洞察が深められる。
社会人の時は、タスクに追われて、あらゆる視点の洞察が深められない。
私は、一度社会からドロップアウトして、この世とあの世の本質を知りたかったのだろう。勿論、代償は大きかった。
が、全体から、俯瞰してみることが、できただろう。