verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

神仏からの命令により、私からの物理的な善意行為や好意行為に対して、既読スルーするやつには、呪詛をする必要もたまにあるが、神仏メッセージを受け取れないやつなんだなと思うし、それが分かるような試練を与えるべきなのだ。というか、与えられるから、別にどうでもいいし、呪詛をする必要もないとも言えるのだが、舐められてる場合には、行う事を公言するし、舐めてる人には、痛い目を合わせる必要があるのだ。深追いはしないけれども

神仏からの命令により、私からの物理的な善意行為や好意行為に対して、既読スルーするやつには、呪詛をする必要もたまにあるが、神仏メッセージを受け取れないやつなんだなと思うし、それが分かるような試練を与えるべきなのだ。というか、与えられるから、別にどうでもいいし、呪詛をする必要もないとも言えるのだが、舐められてる場合には、行う事を公言するし、舐めてる人には、痛い目を合わせる必要があるのだ。深追いはしないけれども。ああ、たいして同じくらいの歳なのに、成長してないんだなと、分かるのだ。どうせ無駄な不幸や苦労をしてるだろうし、将来的に不幸や苦労が顕在化するだろうし、いい歳して、そのレベルかよとも言える。

ちなみに、神仏の意志に従って、既読スルーする場合もあるので、別に既読スルーが、100%悪いわけではないのだ。既読スルーの選択が間違ってるか、合ってるかだけだ。善意と好意の違いは、なんだろうか?

俺が既読スルーするのは、心を痛めながら、相手のために、既読スルーが適切な場合なのだ。

宗教を信じてるかどうかではなく、選択が最適解をしてる割合が高いか低いかだけだ。

こんな事を書きながらだが、自分が本当に間違ってるかもという視点はいつでも、謙虚に持ち続ける必要がある。自分は間違ってないと観点固定をするのは、馬鹿にされるきっかけになるのだ。