神仏からの命令により、私からの物理的な善意行為や好意行為に対して、既読スルーするやつには、呪詛をする必要もたまにあるが、神仏メッセージを受け取れないやつなんだなと思うし、それが分かるような試練を与えるべきなのだ。というか、与えられるから、別にどうでもいいし、呪詛をする必要もないとも言えるのだが、舐められてる場合には、行う事を公言するし、舐めてる人には、痛い目を合わせる必要があるのだ。深追いはしないけれども。ああ、たいして同じくらいの歳なのに、成長してないんだなと、分かるのだ。どうせ無駄な不幸や苦労をしてるだろうし、将来的に不幸や苦労が顕在化するだろうし、いい歳して、そのレベルかよとも言える。
ちなみに、神仏の意志に従って、既読スルーする場合もあるので、別に既読スルーが、100%悪いわけではないのだ。既読スルーの選択が間違ってるか、合ってるかだけだ。善意と好意の違いは、なんだろうか?
俺が既読スルーするのは、心を痛めながら、相手のために、既読スルーが適切な場合なのだ。
宗教を信じてるかどうかではなく、選択が最適解をしてる割合が高いか低いかだけだ。
こんな事を書きながらだが、自分が本当に間違ってるかもという視点はいつでも、謙虚に持ち続ける必要がある。自分は間違ってないと観点固定をするのは、馬鹿にされるきっかけになるのだ。