verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

お供えもの 無意識マップの完成

「お供え物は、いらない。」
「お供え物は、いる。」
この二つの視点がある。
究極的には、「お供え物はいるともいえるし、いらないともいえる。どちらもある。どちらもない、、、、、、、」なのだ。
これが、この世界を文章で表現する最適な表現だ。何の事か、さっぱりわからないだろう。どうすればいいか、私も困っている。自分の視た世界を言葉で表現するのは、非常に難しい。あんな感じというのが、見つからないのだ。映画にでも、あればいいのだが。私には、まだ見つけられていない。不立文字のようだ。誰かと共有したのだが、私には、なんと説明していいか、皆目見当がつかない。よく、説明できるなと、感心感心。イメージ文字なのか。どうなのか。
3D技術で、何となくあんな感じというのは、できるかもしれない。探せば見つかるだろう。探してみよう。
そこまで感謝行ができていない人は、お供え物もいると思って、毎日行う気持ちを持ち続ける。
いらないと思って、毎日祈りを捧げる気持ちを持ち続ける。どちらがいいのか葛藤する。どちらも必要ないと葛藤する。こういう連続なのだ。
人間には、無意識マップの教育段階があるので、どれもありえるのだ。
この人には、「お供え物をしなさい」。この人には、「祈りを捧げなさい」。というものなのだ。
無意識マップを完成させてほしい、完成させたいという気持ちがあるのだ。
表現が違うだけで、真意は同じなのだという気持ちに気付くことなのだ。
私は、今お供え物をした。ごめんなさい。いつもしなくて。今までしなくて。ごめんなさい。代わりに、お婆ちゃんがやってくれて有り難う。気付かなくて、ごめんなさい。食べ物をしっかり噛まないで、ごめんなさい。それでもなお、食べさせてくれてありがとう。紛争地帯の子供は、食べられないのに、しっかり食べててごめんなさい。ありがとう。と毎回思う動作をするかどうかなのだ。この反復動作をきっちり、やれるかどうかなのだ。つい、パッと食べてしまうが、しっかり感謝することである。それは、自分のためなのだ。お互いのためなのだ。そうすると、澄んだ心になっている事に気付くだろう。
やることは多いが、一つ一つの動作をきっちりやることだ。そうすると、ごめんなさいと念じると、内面の声からありがとう。と発してくれるのだ。これが、感謝ができている人なのだ。
私も、ついサボってしまうが、きっちりやっていくのは、自分のためなのだ。私は、毎朝ごめんなさい。と念じる事は約束できる。約束できることから、取り組んでいくのだ。約束を守らなくて、ごめんなさい。魂に謝りたい。ごめんなさい。ありがとう。