verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

超能力 メリット デメリット

超能力のメリットとデメリットがある。
下記は、めちゃくちゃショボいのだが、一応載せてる。削除したくなるのだが、中級者用~初級者用に。上級者用は、追記で、書くかもしれない。

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デメリットとしては、
①周囲に知れてしまうというのも怖いのだ。自分への悪口や迫害というものが、知れてしまうのも、また頭が痛いものなのだ。
全ての周囲の人の陰口が認識したら、ビクビクしながら、生きないといけないのだ。そのような幻聴の体験をしてる人もいるのだ。→すいません、これはレベルが低い人の見解です。周囲にバレません、バレないように生活できるように何かと導かれています。

私は、目に見えないものを扱っている人に対して、悪いように思われるかもしれないという強烈な思い込みがあった。
これは、やはり良くないのだ。だから、自分が必要な悪口を聞ければいいのだと思ったのだ。
また、魔に対して、「今日朝寝坊しちゃった」「えー、私も」というのは、甘えあいだが、「あ、こういう強い思い込みした」という新しい気付きまで、深められれば、いいのだ。
普通の日常の会話の循環というのも、必要なのだ。
「電車が、人身事故起きちゃった」「行けねーじゃん」というのも、また、気軽に話すのも重要なのだ。
アインシュタインは、ある実験の失敗について、「この方法でうまくいかないことがわかったのだから、この実験は成功です」と言ったという。このように、失敗を考え方と行動で、プラスに変えられるのだ。
②相手の氏名等がわかっても意味ないものだ。昼飯のおかずがわかっても仕方ないものだ

□追記
デメリット面も考慮すると超能力はなくてもいいのだ。
超能力が発現しないと、この世の真理はわからないのかもしれないが、発現してもわからない分野もあるものだ。
論理的に、どうしたら輪廻転生があるのかわかるかと考えたが、なかなかこの難問はとけないものだ。
実際に、霊が移動する事はあるだろうが、霊が歩くか?と言われたらわからないと言えるし、なんともいえないものだ。
デメリットは、後遺症や合併症が出てくる事だろう。
合併症が意外と知られていない。私もこれで苦労したものだ。

sekawara.hatenablog.com


□追記
超能力が発現したら、霊が、乗り移ってくるケースもある。霊の嘆きを聞いたりする事もある。

□追記
事故現場に関して、痕跡を残さないようにする。痕跡を残す人は、本物ではない。一般人には、わからないのだ。派手な動きは必要ない。音もなく、静かにするのだ。
監視カメラに映ってもいいように、後ろで、印を結んだり。パンフレットの中で、したり。ナルトでも、現代社会版が出ると、分かりやすい。

もうちょい書ける日が来ると良い。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。このご縁に感謝です。

究極の実在と神と悪魔 検証の余地

究極の実在は、善悪を超越している。
ただ、これはまだ完全には、俺は悟ってないので、最終結論にはできない、無意識マップなのだ、何でもかんでも、最終結論にすると、やはり信用を失うのだ、。無意識マップを検知して、ああ、ここは進んでないというのは、適切に伝えていく必要がある。

が、人格神と人格悪魔は、魂に扇動させるのだ。ここが違いなのだ。むしろ、人格神と人格悪魔が、協力していると言える。どうやって、この者達に、私達の存在を知ってもらうようにするかというものである。だが、人間には知る必要があるのだ。それは、人間に生まれたから、必然なのだ。色々な方法で知ってもらおうとするのだ。それは、人間のためでもあるのだ。
私は、魔ということは使っているが、悪魔という表現は、あまり好きではないのだ。それは、苦を悪魔と捉えると、頭が痛くなるように作られているのだ。この神というのは、どのような表現になっているか、人というのは違うのだ。
①この世界の全てのものを神と呼んでいるのか、②人間にとって都合が良い動きを神と呼ぶのか、人によって違うのだ。
ここは、だいぶ統一が取れていない箇所なのだ。自分の頭が痛くなるのは、誰もが嫌だが、それがその人のためになってもいるのだ。人間は、頭でっかちだ。私も、とても頭でっかちだ。
だから、色々と、自分を見失うのだ。心がなぜ、大事かというのを、考えるのだ。そうすれば、頭でっかちが解消されるのだ。自分で作った頭でっかちで、自分を苦しめているのだ。魂は、頭にある。頭が頭が頭が魂なのだ。心と、魂は頭で一緒に連動しているのだ。

挫折の魔 利害関係の魔

やはり、利害関係の魔がある。
純粋に相手を思うと、利害関係を超えられる。自分で、こんなにしちゃダメだろうと思ってしまいがちだ。それも魔なのだ。
利害関係モードから、純粋モードに変えていくのだ。利害関係の魔に勝てば、どの人にも、神の座で、祈ることができる。
色々な喧騒に負けずに、純粋な気持ちで居続けられるのだ。やはり、場にいると、どうしても利害関係を意識してしまう。
私は、今どの人も、利害関係を気にせず、魂に祈る事ができる環境にいる。うだうだ利害関係を気にして、ごめんなさい。ありがとう。感謝したい。

挫折の魔というのは、今までの自分の挫折したシーンばかり思うことだ。
が、この挫折というのは、魂の最短ルートを通らすために、必要なことなのだと神が教えてくれた。
魂は、多角的な経験をしたいのだ。そのためには、挫折させるのだ。挫折すると、バツが悪い。が、挫折を、顕在意識で無理矢理変えようとするのは、魂に毒なのだ
ルート変更をさせないと、魂の最短の悟りにならないのだ。
悟りとは、利害関係を全く考慮に入れずに、どの人に対しても、恒久平和を祈る気持ちそのものだ。
私が最短で悟ったのは、挫折と葛藤が、人のうん倍も多かったからだ。
私の魂は偉大なので、目の前に起きている現象が、やけに葛藤が起きるのだ。
魂のステージが違うと、そうなるようだ。だから、私は挫折も愛する視点を手に入れた。確かに最短だった。
自分に起きた葛藤量が、悟りに繋がるのだ
見た目で判断する人には、わからないのだ。名実ともに○○、というのは、人間界での視点なのだ。ごめんなさい。
ありがとう。挫折に勝ってもいいのだ。という事も伝えたい。
私は、挫折に勝った時が多かった。トロフィーもゲットした。
それは、挫折が多かったからだ。甘やかす事も時には、必要である。うまくいかない事もあると愛する事だ。
私は、もう少しで自動書記ができるようになるだろう。
今は、魂に集中して、書いているだけだ。挫折すると、無意識マップが拡がるのだ。私は、同級生を、神の視座で祈るように心がけるのだ。全てのものは、繋がっているからだ。この繋がっているという体感を得ることが、一つの悟りであろう。
私は、人前では祈らない。神は、どこでもいるからだ。現象界の成功が、悟りではないのだ。ごめんなさい。ありがとう。
ついつい、私もそうはいっても、現象界のために働きたくなるし、現象界での「成功」というものに、囚われる魔にやられる。

やはり、神だけじゃなく、人にも、認めてほしいからだ。やはり、真理に認められたいのだろう。
ただ、人というのは、ずいぶん身勝手な評価しかしてないのだ。私も、昔の授業を思うと、沢山身勝手な認識しかしてなかったのだ。ごめんなさい。何も、人間について知らないのに、わかったような口を聞くのだった。そのために、社会というものがあるのだろう。ついつい人は、身勝手な○×をつけている。それが、お互いを苦しめているのだ。
私が今抱えているテーマとして、どこまで人は、心と頭脳により、相手に最適なものを提供しているかというものだ
ここが、まだ解け切れていないのだ。自分の心というのは、自分の行くべき所を知っている。脳の認識の器が、魂だ。どこにセットしているかというものがある。魂が、どの無意識層に、セットされているかによって、情報処理が違うのだ。深いところにいけば、より次元が高いインスピレーションを得られるのだ。
どの人も、得られるということだ。
自分だけで情報を抱えようとする魔もある。
深い話を伝達するのも、また人間には必要なのだ。意外と、ありがたいのだ。自分の話は、そんなに役に立たないだろうという魔がある。私は、この魔にやられることが多かった。また、相手の言い分をジャッジする資格はないという謙虚さがあった。
が、これ以上ない情報を無料で大多数の人に公開している
究極の実在について、沢山の魔について、日常生活の活かし方について、、、だ。
究極の実在の動きのイメージを、作ってほしいなら、作ろう。
確かに、纏めきっているわけではないのが目下の課題だ。が、一部分でも、相当のヒントを出している。ここに辿り着く人は、幸いだろう。一人の人間が、ずっと探求したものを、タダで見られるからだ。何事も、ごめんなさい。ありがとう。なのだ。どなたかは、その正体を教えてもらうのに、何百万払う人もいるからだ。どの人も、魂次元の働きを関知できる世界が来るのだ。そうすると、有り難いだけなのだ。ただ、愛し合いたいだけなのだ。だから、自分が損したという魔に負けないことだ。魂次元の働きをする事に、損したとは思わないように心掛けている。

間違った方向 神

神は、間違った方向に行っても、助けてくれない。いや、猛烈に助けてくれているのだが、自分達で、より間違った方向に向かってしまうのだ。
これを、自戒の意味で、「神は、間違った方向に行っても、助けてくれない」のだ。これが、真実なのだ。
残念ながら、そうなのだ。「気付かない貴方が悪いのです」
気付かなくて、ごめんなさい。気付かせてくれて、ありがとう。
「助けてクレー」は、おかしいのだ。十二分に神は助けているのだ。だから、悔い改めないあんたが悪いのだ。自業自得なのだ。神を責めるのは、やってはいけない行為なのだ。
自分が全て悪いのだ。私は、メッセージをしっかり受け取らなかった。だから、間違った道にいった。だが、全ての存在からすれば、それも愛してくれているのだ。どれも、勉強なのだ。自分が嫌な道も受け入れるのだ
嫌な道になりたくないなら、その分そうならないように努めれば良い。が、どうせ嫌なことは起こるのだ。それが、人間の宿命だ。
私は、神を責めた過去がある。
が、私は、神を責めることはしない。
ごめんなさい。ありがとう。
私は、高校生の時に、バイトをしたかった。だが、母は、反対した。自分の思い込みが激しい人なのだ。私は、そこでカルマを作った。人というのは、最低限の事をしていればいいというわけではないのだ。私は、学校に通うだけだった。だが、それではダメだった。間違いに気付かないまま、親の言いなりになっていた。そして、浪人している時に、アルバイトを始めた。こんなに働くのは楽しいのかと、思ったものだ。ごめんなさい。ありがとう。確かに人生は、自由に生きて良いのだが、生きても、自分を不幸にする生き方があるのだ。それは、自分のためにならない。同級生に、ごめんなさい。神に気付かせてくれて、ありがとう。
どの人も、自分の魂の声に、素直に純粋に従えば良いのだ。
私の母は、いつまでも傲慢だ。性懲りもなく、罪を犯し続けている。自分が支配した事が、相手にとって、不幸にさせていることに、気付いていない。だから、私は、仕事で嫌な目に遭った。それは、因果応報なのだ。ごめんなさい。ありがとう。
ただ、私が甘えていた。自分で分別すればいいだけだったのだ。
と人を責める前に自分を律することである。神が間違った方向に進ませる場合も時にはあるのだ。それは、人間にとって修行の嫌なことなのだ。

バカな親 感謝

バカな親に付き合うと、身を滅ぼすのだ。
私は、子供達に言いたい。バカな親に付き合うなと。バカな親は、お互いを不幸にする行動をいつもしている。
その事に気付きもしない。いや、薄々気付いていても、バカな行動を悔い改めようとしない。
だから、バカな親と一緒にいるべきではないのだ。
「では、なぜその親から、生まれたの?」 となる。確かに、その親から生まれたのは事実で、魂が望んだことだ。
が、別にバカな親と同じバカな行動をしろというわけではないのだ。
魂は、使命を発揮したい。
その一心で生まれた。
が、それは、一事象に過ぎない。
未来は、決まっているわけではなく、今の連続なのだ。つまり、生まれた時は、そこが良かったのかもしれないが、あまりにバカな親の家に居続けると、自分までバカになるのだ。つまり今の連続により、
例えば13歳では、もう親といると腐るので、家から出た方がいいのだ。そうしないと、外部の情報と触れる機会が少なくなり、自然と何が良いか分別がつかないのだ。分別が付かない親といると、自分もバカになってしまうのだ。
結局自業自得だ。
神は、バカな行為には、バカな結果しか生まない。助けてくれと思うのは、バカなのだ。親がバカだとしても、子供は、バカな行為をしていいわけではないのだ。
だから、一緒になって、バカになることはする必要がないのだ。私は、恨まない。自分が、自分の魂を信じなかったから、起こったことだ。祈ることと謝ることだ。
ごめんなさい。ありがとう。これが、最終結論だ。
時は変わっているのだ。
感謝が大切だ。生まれたことには感謝をするのだ。

咄嗟に何か落ちる 割れる 意味

咄嗟に、何か落ちるというのはメッセージなのだ。
自分が何かタイミングをズらしたり、魔に負けたということなのだ。
私は、タバコが落ちた。マッチが落ちた。
これは、タイミングをズラして、しまったのだ。これに例外はないのだ。ごめんなさい。こういう時ほど、自分を顧みるのだ。ありがとうございます。
お皿が欠けたり、割れたりするのも、何かしらメッセージなのだ。お皿に感謝することだ。魯山人のお皿を、新宿伊勢丹で見た450万した。本当の金持ちは、キャッシュで買えるのだ。が、成約済みは、嘘も入っていると、私は見抜いた。それは、金持ちは、服装も金持ちなのだ。お金と純粋どちらも取ろうとすると、神の世界は、難しいのだ。私は、一旦お金は捨てた。こういう決断ができるかどうかだ。別にずっと、金無しでいろというわけではないのだ。一旦執着を捨てられるかどうかなのだ。綺麗なCDも捨てる。こういう決断が、自分を救うのだ。

究極の実在まで辿り着く方法 即身成仏

ある意味このblogの総決算のテーマである。長らくお待たせした部分である。
究極の実在まで辿りつく方法である。
究極の実在とは、この世界の超越した俯瞰した存在を知れるということだ。
追記


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究極の実在は、この三つの画像が両立するイメージ言語なのだが、3dにするには、少し時間がかかるので、これぐらいにしとこう。


今後は、より精密に辿り着けるマップを作成できるだろう。

究極の実在(別名、オリジナルスピリッツとでも呼ぼう)まで、
どのような最低条件があるのか?整理整頓してみた。

①神仏等の見えない存在を信じ切ること
量子力学等の科学現象を考察すること
③深い瞑想状態ができるトレーニングをすること(意識をシャットダウンする必要がある)
④純粋な気持ちで、ありとあらゆるものに感謝の気持ちを持つこと
⑤思いこみをトコトン外すこと
⑥自分でも、究極の実在に辿り着けると信じ抜くこと
⑦自身のカルマをできるだけ刈り取ること(自身のカルマが邪魔して、一番最深部に到達できないため。)
この7つの項目を長くやっていくと、どうやら辿り着けるようだ。

私も、辿り着くまでに、相当の時間を費やした。
起きている状態、深い瞑想状態、睡眠時の状態で、見せていただけるのだ。ありがたい事である。
究極の実在の動きとは、何かというのは、「ある3Dイメージ」としか表現しづらいのだ。
お釈迦様が見たイメージもおそらく、同じだろう。
ピカソの絵を、全体で捉えられないのと同じなのだ。一部分、一部分捉え直して、全体像を再構築していく行為と同じなのだ。

ちなみに、②の量子力学に関しては、「全貌を理解しろ」という訳ではない。量子力学をお釈迦様が見たわけではないのだ。だが、現代人は、一定の量子力学も勉強する必要があるのだ。また、人は、そのイメージを動画で見ても、結局意味が繋がらないのだ。
仮に、色々理屈をつけて、そのイメージはこれと、
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あったとしても、意味がわからないと、あまり意味がないのだ。
「あー、これなのか」という腑に落ちなければ意味がないのだ。論理的に辻褄を、合わせていく必要があるのだ。イメージも必要なのだ。

究極の実在に繋がる何かを探そうという気持ちで、物理現象を見ることを一定量すればいいのである。
例えば、「もし究極の実在が止まっているのであれば、細胞が分裂するのは、おかしいのではないか」という疑問や、「なぜ宇宙は膨張しているのか」という疑問や、「何かが増幅するのは、なぜか」という疑問などである。
そのような疑問を持つと、目の前の世界に、それらしいヒントがたくさん出されてくるのだ。例えば、水を浸した鍋に火をつけると、泡が沸騰する。そうすると、何かしら力が働かないと、何かが動くというものはない事に気が付かされる。また、水の鍋を上下に移動させると、泡が増幅するのがわかるだろう。このようにして、究極の実在が、何らかの「動きでなければおかしい」という視点を手に入れられる。

次に、①に関しては、「なぜ神等の見えない世界を信じ抜く必要があるか」というと、オリジナルスピリッツが別次元の存在であるからである。また、「最初からそんなのありえない」と決め込むと、それから先の無意識マップが進まないのだ。目の前の物理現象のみに、フォーカスすると、見えないのだ。

次に、③に関しては、深い瞑想状態にならないと、普段の記憶層が入り乱れて、その一番深いイメージを呼び起こせないのだ。私は、瞑想のトレーニングを受けたわけではないが、なんとなく目を瞑る癖をつけていたから、自然とそれが瞑想になっていた。よく寝ていたのも功を奏した。家族に、ごめんなさいありがとう。

次に、④に関しては、やはりそのような世界を引き寄せるには、普段から感謝をしている必要があるのだ。そうすると、自然と味方をしてくれるのだ。

次に、⑤に関しては、自分勝手な思いこみにより、イメージが固定されてしまうのだ。だから、すべての思いこみを解除する必要があるのだ。このすべてというのは、その人自身にとって、すべてという意味である。例えば、時間があるという思いこみも外す必要がある。
例えば、「究極の実在って、こんな精霊のイメージかな?」という思い込みだ。だいたい過去にどこかやネットで見た何かの絵のイメージだろう。これが、邪魔するのだ。見えない存在は、その人が信奉するイメージを脳内に見せてくれる働きかけがあるからだ。「イエス・キリストも、こういうイケメんだろう」とかである。思い込みが邪魔をするのだ。イエスに怒られてしまう、ごめんなさい。使わせていただいて、ありがとう。

次に、⑥に関しては、やはり長らくやっていく必要があるからだ。時間を投資しなければ、見ることはできないのだ。脇目もふらずにすると、目処が自然と立つのだ。

次に、⑦に関しては、やはり自分のカルマが邪魔をして、精神の最深まで、たどり着けないからだ。だから、刈り取りをする必要がある。

以上の事をすれば、自然と見えるようにしていただけるのだ。
神とは、意識体や情報体のようなものなのだ。あるものを認識した瞬間に、何かが変わるのだ。魂次元のやりとりが関知できると、今何かが動いているのをキャッチできるのだ。また、ピカソの絵のようなものを、どの意識層から取り出すと、このようなインスピレーションになるというのもあるのだ。
同じインスピレーションは、同じところからひっぱているのだ。このようなものを意図的に作り出すのを、イメージ言語と呼ぶのだろう。
このイメージとこのイメージとこのイメージが合わさると、こんなイメージを呼び起こせるというものだ。
絵画というのは、多量のイメージの結集体なのだ。
必ず、その書いている人は、あるイメージとあるイメージを結集しているのだ。それで、作品が出来上がる。出来上がったものを見ると、イメージの結集の構造がわからないから、「なんか、すごい。こんなの描けない」となるのだ。無意識マップというのは、ある意味イメージの結集体なのだ。

7.”究極の実在”との合一 : ☆ 月月・日日につより給へ ☆
http://blog.livedoor.jp/koko0310-kensan/archives/1022184132.html

http://blog.livedoor.jp/koko0310-kensan/archives/1022184132.html


究極の実在(主の働き)を、相手にイメージ化させるには、とても高いハードルがありそうだ。
が、もう3Dアニメーションで作って見せるのもありだなと思ってきたところだ
どうせ人は信用しないので、調べる人は、他の科学現象のイメージを調べるからだ。結論から知っても、やはり序論が欲しくなるのだ。 数学で証明されたものを、また魂で見たいのだ。どうやら、203○後半辺りに、目に見えない存在が、数学的に証明されるようだ。が、これは、信じなくて良いものだ。私には、数学的に証明できる頭脳はないと教えていただいているので、他の人が完成してくれる事を切に願うのだ。どの人も、そのイメージを獲得してほしいからだ。

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イメージ図として、この目玉焼きにも、その究極の実在が、増幅するイメージがある。この目玉焼きは、固定の数だが、実際は、剰余が発生し続けているのだ。気泡のような、剰余発生だ。


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「②量子力学等の科学現象を考察すること」に繋がるものだ。
この水が滴れるイメージにも、究極の実在が、動いているイメージがある。
「ただの水が落ちている」というのが、普通の意識の器で見た場合なのだ。全てが繋がってくると、そこにも、究極の実在の働きを意味付けることができて、感謝が絶えないのだ。やはり、膨大なイメージを見せる必要があるのかもしれない。
いったいどうすれば、主の働きを、魂で見抜けるようになるのだろうか。沢山のイメージを怒濤に見せることなのかもしれない。それがいつか、一つに纏まるのかもしれない。みんなで、力を合わせればできるはずだ。
やはり、私の意識がスイッチしている事は、ああああ、なかなか気付かれないのだった。だが、まだまだ始まったばかりだ。小学生にも、わかるイメージにするにはどうすればいいかと考える。
イナズマイレブンの必殺技も鍵になるのだ。が、やはり一瞬で掴めるには、魂が高められていないと、難しいようだ。ごんなさい。ありがとう。やはり、すべてのもの、、、有り難いのだった。主は、「呼んでいるのだ」。愛し合いたいのだ。

究極の実在は、動きなのだ。
人間の脳は、ずっと反復している超スピードの動きを捉えられないのだ。
つまり、ビデオも、写真が連続的に反映しているのだが、写真とは思えないのと一緒だ。これが、脳の錯覚芸術なのだ。そこまで、発達させてないのだ。
無意識言語を、しっかり頭で考えることも必要そうなのだ。
また、究極の実在の動きは、どんどん増幅している。火をつけた鍋を手で上下に振動させたときの、泡の力動の動きなのである。

【宇宙の法則】真理が現れた時に業が消える | 佐藤康行公式ブログ|人の心と宇宙意識~真我の覚醒

http://satoyasuyuki.com/blog/?p=341

http://satoyasuyuki.com/blog/?p=341

「⑦自身のカルマをできるだけ刈り取ること」に繋がるものだ。


何やら、究極の実在の動きを作っている人が他にもいるそうだ。
私の存在意義は、と落ち込むのだった。最近は、また、究極の実在の動きを、何度も見せてくれるのだった。
究極の実在の動きイメージというのは、何というか、複雑と言えば、複雑なのだが、シンプルと言えば、シンプルなのだ。
が、やはり、科学現象や日常生活とリンクさせるのが、いいのだ。 これからは、より顕著にそのような時代になるだろう。
本人が、見つけるのが一番良いのかもしれない。

追記
究極の実在の対になる可能性がある絶対無の世界も可能性も噴出したが、便宜上は、究極の実在と呼ぼう。
また、究極の実在に関して、深い瞑想修行を他の人に指導したが、なかなか難易度が高いことが可能性としてはある。
創造の外側がどうなつっているかは不明である。絶対無があるのかもしれないが、法則的にはないだろう。


数学的な宇宙 究極の実在の姿を求めて | マックス・テグマーク, 谷本 真幸 |本 | 通販 | Amazon

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宇宙論を数学から追っている。



究極の実在まで辿りつく方法
究極の実在まで、
どのような最低条件があるのか?
①神等の見えない存在を信じ切ること
量子力学等の科学現象を考察すること
③深い瞑想状態ができるトレーニングをすること
④純粋な気持ちで、ありとあらゆるものに感謝の気持ちを持つこと
⑤思いこみをトコトン外すこと
⑥自分でも、辿り着けると信じ抜くこと
⑦自身のカルマをできるだけ刈り取ること
この⑦点を長くやっていくと、どうやら辿り着けるようだ。私も、辿り着くまでに、相当の時間を費やした。起きている状態、深い瞑想状態、睡眠時の状態で、見せていただけるのだ。ありがたい事である。
②の量子力学に関しては、「全貌を理解しろ」という訳ではない。究極の実在に繋がる何かを探そうという気持ちで、物理現象を見ることを一定量すればいいのである。例えば、「もし究極の実在が止まっているのであれば、細胞が分裂するのは、おかしいのではないか」という疑問や、「なぜ宇宙は膨張しているのか」という疑問や、「何かが増幅するのは、なぜか」という疑問などである。そのような疑問を持つと、目の前の世界にそれらしいヒントがたくさん出されてくるのだ。例えば、水を浸した鍋に火をつけると、泡が沸騰する。そうすると、何かしら力が働かないと、何かが動くというものはない事に気が付かされる。また、水の鍋を上下に移動させると、泡が増幅するのがわかるだろう。このようにして、究極の実在が、何らかの「動きでなければおかしい」という視点を手に入れられる。
次に、①に関しては、「なぜ神等の見えない世界を信じ抜く必要があるか」というと、究極の実在が別次元の存在であるからである。また、「最初からそんなのありえない」と決め込むと、それから先の無意識マップが進まないのだ。目の前の物理現象のみに、フォーカスすると、見えないのだ。
次に、③に関しては、深い瞑想状態にならないと、普段の記憶層が入り乱れて、その一番深いイメージを呼び起こせないのだ。私は、瞑想のトレーニングを受けたわけではないが、なんとなく目を瞑る癖をつけていたから、自然とそれが瞑想になっていた。
次に、④に関しては、やはりそのような世界を引き寄せるには、普段から感謝をしている必要があるのだ。そうすると、自然と味方をしてくれるのだ。
次に、⑤に関しては、自分勝手な思いこみにより、イメージが固定されてしまうのだ。だから、すべての思いこみを解除する必要があるのだ。このすべてというのは、その人自身にとって、すべてという意味である。時間があるという思いこみも外す必要がある。
次に、⑥に関しては、やはり長らくやっていく必要があるからだ。時間を投資しなければ、見ることはできないのだ。脇目もふらずにすると、目処が自然と立つのだ。
次に、⑦に関しては、やはり自分のカルマが邪魔をして、最深まで、たどり着けないからだ。だから、刈り取りをする必要がある。
以上の事をすれば、自然と見えるようにしていただけるのだ。神とは、意識体や情報体のようなものなのだ。あるものを認識した瞬間に、何かが変わるのだ。魂次元のやりとりが関知できると、今何かが動いているのをキャッチできるのだ。また、ピカソの絵のようなものを、どの意識層から取り出すと、このようなインスピレーションになるというのもあるのだ。同じインスピレーションは、同じところからひっぱているのだ。このようなものを意図的に作り出すのを、イメージ言語と呼ぶのだろう。このイメージとこのイメージとこのイメージが合わさると、こんなイメージを呼び起こせるというものだ。絵画というのは、多量のイメージの結集体なのだ。必ず、その書いている人は、あるイメージとあるイメージを結集しているのだ。それで、作品が出来上がる。出来上がったものを見ると、イメージの結集の構造がわからないから、「なんか、すごい。こんなの描けない」となるのだ。無意識マップというのは、ある意味イメージの結集体なのだ。

□追記
究極の実在に関して、あまりにも重要な事なので、封印されてしまった。これをどうしたらいいか?追っていきたい。