verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

目に見えないものの呼称について

人によって、団体によって、目に見えないものの呼称が違うのが気になったことはないだろうか。私は、結構あるのだ。

結論として、目に見えないものに対して、何と呼ぶかは、どちらでも構わないのだ。様々な呼び名をする人がいる「グレーとサムシング」「神」「神様」「究極の実在」「仏」「主」などである。
が、そこが問題ではないのだ。

どういう気持ちでいるかなのだ。尊重し合う気持ちかどうかなのだ。
だから、呼び名はどれでも構わないのだ。気持ちというのは、波長が違うのだ。
例えば、同じ「ごめんなさい」でもしっかり謝っている場合と、適当にごめんなさいと言っている場合がある。それは、波長が違うのだ。
波長の法則だ。
魂は、愛を求めているのだ。
だから、掃除をする時は、ごめんなさいと思いながら、言える場面では言って、掃除をするのだ。そうすると、良いことが続くのだ。これは、小学校では教えてくれない次元の話だ。小学校で、しっかり掃除をするということは教えてくれる。が、どういう気持ちでやるのがいいかまでは、わからないだろう。ごめんなさいを思うのだ。そうすると、波長が高くなり、気分も良くなるのだ。じゃあ「ありがとう」の方がいいんじゃないかというのは、あると想うが、ありがとうより、ごめんなさいの方が、良いことが続くようになっているのだ。だから、ごめんなさい。なのだ。自然と、神の気持ちがわかるようになるのだ。「いつも、適当にやってごめんなさい」という風に。とにかく謝るのだ。人に対してだと、謝ってばかりだと、変な人と思われて、嫌な気持ちになるが、独りでにする行動に対しては、ごめんなさい。なのだ。それが、結局は、自分を助ける行為に繋がるのだ。私は、母にその事を伝えたが、わからないだろう。だが、諦めたわけではない。
団体によって、呼称が違うのは、どちらでも構わないのだ。郷に入れば郷に従えでもいい。そこが大切ではないのだ。
「主」という単語を使うのは短いのと、キリスト系の人のためだ。
「仏」という単語を使うのは、短いのと、仏教系の人のためだ。
「神」という単語を使うのは、短いのと、神道系の人のためだ。
「究極の実在」という単語を使うのは、長いのだが、無宗教の人のためだ。
「オリジナルスピリッツ」という単語を使うのは、その他の人のためだ。

呼称に関して、統合が進めば良いだろう。脳内イメージの共有だ。

目に見えないもの | 臥竜
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2014/02/%E7%9B%AE%E3%81%AB%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE.html

目に見えないもの | 臥竜塾

うまくいかなかった時の人への魔

うまくいかなかった時期に会った人に、その当時、迷惑をかけたとしよう。
期間が空くと、相手に対して、何か良いメッセージを送れなくなる魔がある。
頭では、送った方がいいと思っても、なかなか送るのには勇気がいる。送って良いのかも悩むからだ。たまたま見かけたということは、何かしら意味があるのだ。私は、何とか魂に従えたのだった。少しだけ頭頭から抜け出せたようだった。ごめんなさい。魂にありがとう。甘えてばかりでした。ごめんなさい。ありがとう。またまた自分を甘やかすのだった。
何か当時を思い浮かべると、嫌な気持ちになる過去の記憶層を取り出す脳の仕組みと魔なのだ。
今は、もう違う自分なのに、昔のイメージに操られているという事だ。ただ、それは水に流せれば良いのだ。お互い様なのだ。
勿論、人は過去の記憶層に操られている人が大半だが、頭で考え、違う選択肢を取れる存在なのだ。
人間は、大自由なのだ。一つでも一日に勇気を出せれば、一年間でとても変わるのだ。この状況を作ってくれた全てのモノ、、、に感謝したい。感動なのだ。人間は、分かり合えるのだ。ごめんなさい。ありがとう。「ともちゃんありがとう。」貴方が夢に出てきてくれたおかげだ。色々な魔に勝ってほしいのだ。昔の人に会う魔には、どうも頭で考えても難しいものだ。何も情報がないと、迷惑かもしれないと思うからだ。だから、頭で考えるよりも、魂で頭を変えるのだ。頭でっかちを変えるのは、魂を強くするのだ。明日は、朝五時に必ず起きよう。頭で考えても頭で考えても、頭で考えてもわからないものはあるのだ。だから、魂があるのだ。まだまだこれからなのだ。病魔に負けた経験というのも大きい財産なのだと教えてくれた。どんな人にも一生に一回は病魔がくるのだ。受け入れることだ。当時のお世話してくれた人に愛のエネルギーを送りたい。
魂は、万能か?という質問に。私は、まだ何とも言えないのだ。万能か万能じゃないかは、見方によるからだ。万能という見方で言えば、魂は純粋フラットな機能を擁している。これは、この世界の仕組みと同じなのだ。
が、万能でないという見方で言えば、やはり人間にとって、嫌なことは起こるのだ。ただ、どれだけ忠実かによって、頭だけの生活より、幸せになれるのだ。幸せというのは、感動の事なのだ。感動が起きたということは、幸せなのだ。物理的現象に対して、魂が守ってくれるわけではないのだ。頭で考える事も必要なのだ。仮に戦争になったら、魂が守ってくれるわけではないのだ。ここを、私は、間違えていたかもしれない。魂は、幸せには直結しているが、物理的現象には直結していないのだ。だから、自分の身は、頭で防ぐ必要があるのだ。電通の若手社員が過労死したが、それは、魂では防げないのだ。魂は、大きな役割を果たしてくれるだけなのだ。だからこそ、人間同士で、世の中を純粋フラットにしていく必要があるのだ。私は、過去に過労だった時期があったが、やはりそれは、魂では防げないのだ。頭で防ぐ必要があるのだ。神も、魂も、一緒なのだ。認識している世界を変えているのだ。神も、頭が痛いところなのだ。どうも人間は、頭頭とばかり考えるのだ。魂の声も、しっかり聞く必要があるのだ。やはり、物理的に当たり前の状況は、魂では、どうしようもないのだ。まだあまり教えたくない事ではある。なかなか頭だけで捉えるから、ヒントを教えよう。頭が魂だ。
純粋な人だからといって、神が、それ以外の人のお札をテレポートすることはないのだ。されたことがある人はいないだろう。が、何かしらお金が振ってくる事があるという事なのだ。臨時収入のようなものである。これが、進むと宝くじも当たるのだが、そこまで行けている人は皆無に近い。何かしら、不純な思いがあるからだ。例えば、その金で楽をしようとしたりだ。それがあると、当たらないのだ。神は、そのようなことを望んでいない。あたる必要がないとも言える。そうしなくても、いくらでもお金というのは、作れるからだ。成長に繋がる事をするのだ。むしろ、ご神徳で、宝くじがあたると、しきりに言う人には注意が必要なのだ。
昔の人にも、メッセージを送ってみると、また変わるのだ。自分の感謝状態で、取り出す記憶層のイメージは、善悪変わるのだろう。

所属欲求の魔 どこかにいないといけない自分

どこかに所属してないといけないと思い込んでないだろうか?

私は、所属欲求の魔に関しては、ほぼ長い期間をかけて、克服してきた。
が、たまに猛烈に集団に属していないことの魔がくるのだ。これは、いかんせん、自分を苦しめて、全部の活動をストップしたくなる魔にも繋がるのだ。
孤独という魔もある。
ただ、一人でいるのは、悪いことではない。勿論、みんなでいるのも、悪いことではない。
が、この所属欲求が人を弱くするのだ。
純粋な気持ちで、良い事をしてるのに、所属している権力者達に、やめるような圧力に屈する魔にも繋がるのだ。
私は、過去生で、闇の勢力に挑んだ経験があるようだ。そして、その後潰されて死んでしまった。そして、次は闇の勢力側にいたようだ。まあ、昔は死ぬのもあったから、仕方ない。が、やはり、そのトラウマは強いようだ。今、治療中だ。だから、準備が大切なのだ。こじんまりとやっていく甘えもある。やはり、怖いのだ。この精神的な怖さを乗り越える時がくると信じたい。
勿論、細胞から働きかける方法というのもあるのだ。私は、細胞への認識が甘かった。細胞を活性化させるのがいいのだ。
つまり、体験を増やすということだ。私は、魂の扉を開いたのだ。そうすると、そこの記憶層もより、自分に影響するのだ。私は、甘えていた。だから、甘えを取り除くために、甘いレメディを飲んでいる。ごめんなさい。ありがとう。
ただ、所属欲求の魔に対しては、まだ完封するのは、かかるようだ。絶対に誰かと一緒にいないといけないという分厚い固定観念
これが、人を苦しめる。私を苦しめているのは、自分なのだ。だが、自分が変わればいいのだ。細胞へのアプローチは、万能なのだ。それだけ長い期間をかけて、形成したものを結合させるからだ。
だが、心霊的なアプローチも、条件が整えば、できるのだ。だが、それには次元が高くなければ、働いていただけないのだ。今は、私に働いていただけるのは、風を起こすこと、電気を操ること、離れた物の物音を鳴らすこと、相手がどの魔に負けたか見極めること、、、。等だ。
やはり、自分の次元と、そのような新しい現象というのは、リンクするのだ。邪な念は、邪霊を呼ぶだけだ。イタズラするのが好きなのだ。
とにかく、どの人も高い波長をキープすることだ。

私の魔に負けまくった沢山の記事を見て、日常生活の魔と戦ってほしい。
その一心で金にならないblogを書いている。

貴方が、所属欲求の魔にやられているのだ。私ではないのだ。

夢に友達が出てくるケース 深層心理 活用法

夢で、昔の友人が出てくる場合は、ないだろうか?
何かしらのメッセージである。
そして、何やら嫌な夢の場合は、おそらく自分が過去にした相手への活動量と過去に相手が自分にした活動量が、釣り合ってない場合が多い。
相手は、私を意識してくれていたのに、私は相手をあまり意識していなかった場合だ。
例えば、「とも、ごめんなさい。ありがとう。」と愛を与えるのだ。

やはり、私は、やるせない魔になる。そんな昔の事に対してと。切り替えようとする。食べ物で解消しようとする魔があった。書くことで少し落ち着けた。
正直そこまでしなきゃいけないの?という疑問が、俺にはあるからだ。
だが、やはり過去というのは、厳然と自分に影響しているのだ。
まだまだ自分を甘やかしてしまうのだった。
私は、無生物への感謝は、ばっちりだ。が、どうも人への感謝が足りないのだ。今目の前にいる人には感謝する。
が、疎遠になった人に対しては、感謝しないのだ。
この弱点を、神から指摘された。昔の自分は、今考えれば、そうとうだらしなく感謝知らずであった。
そうすると、昔の自分に戻る感じが嫌なのだ。今の自分の状況とは、とても安心するのは難しい状況で、過去の人に対して、愛を振り撒くというのは、ハードルが高いのだ。ただ、このやるせない魔に勝つのだ。
私は、とても不安定だ。当たり前にしがみつかなかったからだ。見える景色は、壮大だが、徐々に、そういう人に対しても、愛を与える修行になってきた。
ただ、やはり過去に自分がした行為のカルマは、解消したいところだ。
相手は、どこかに存在しているからだ。正直かなり気分的にしんどいのだ。
なんというか、今の自分がやっている活動は、とても当たり前から外れているからだ。
魂の世界を研究した分、そのような活動もしていく必要があるのだ。
私は、あまり見たこともない人に対しては、魂に愛を注げる、これは、クリアしている。
が、昔の知人というのは、過去の記憶イメージがあるので、葛藤があるのだ。何やら、ぬくもりや甘えや魂とは無縁のやりとりをした記憶があるからだ脳は、昔の対人関係の記憶を引っ張る癖があるからだ。今とは、別物なのに、昔の関係を引っ張るのだ。だから、葛藤が起こるのだ。脳と意識を勉強した人は、わかるだろう。

この魂とは無縁のやりとりをした人に対して、祈るというのが、何とも苦手なところなのだ。
私は、自分が調べたものを信じたい。それは、何が言われようが、、、。
ただ、甘えたくなるのだ。
つい、どうせ相手は知らないわけだしと。会うこともないわけだし、他の事を優先した方がいいのではないかと、、、。この魔が強くあるのだ。
誰しも、そう想うはずだ。
だから、あまり人間は、色々な関わりを持つ人と持たない人に二極化するのだろう。これは、損得勘定の魔もクリアする必要がある。
誰しも、今目の前の人間関係を、より大事にしようとする魔があるからだ。
目の前の人だけを大切にすればいいわけではないのだ。バランスは大切だ。
私は、食べ物や土地への感謝は済んだ。勿論、続けていく。が、当たり前だが、人間には様々な無意識マップを完成させる試練があるのだ。
私は、全てのモノ、、、愛すとした。そうすると、相手の魂に直接愛を送り、細胞の方に浸透させる必要がある。
漠然と、全てのモノに愛を、というのは、やはり力が弱くなるのだ。
ある特定の人物に対して、祈りを捧げた方が、強い
のだ。
どうせ会わない人という魔に負けないことだ。
大事なのは、物凄く相手が幸せになっていることをイメージすることだ。
勿論、基本的には、自分に対して使ってくれた命の時間というのが、魂では、わかっているはずだ。
が、どの人も、全て必要な人なのだ。帰ってくるのだ。
どの人も幸せになれば、地球もより幸せになるのだ。相手には個性がある。魂は、繋がっているからだ。
特に、自分が嫌なイメージがある人や嫌な分野に関して、相手が最高に幸せになる姿をイメージして送ることだ。例えば、私は、仕事がうまくいっていないが、相手が最高の職場で最高に生き生きと働いている姿をイメージで、愛を注ぐのだ。例えば、誰でも直接相談を受ければ、親切にはする。
が、このような魂の次元では、したくなくなるのだ。それが、魔なのだ。
必ず、自分には返ってくるのだ。
それを、教えて頂いたことに感謝したい。ごめんなさい。ありがとう。私は、甘えを取り除いていきたい。やはり、自分が関知できないからといって、魂は動いているからだ。ごめんなさい。お返ししていなかった。ごめんなさい。ありがとう。やはり、この生活をしているということは、それなりに人よりもそのような活動をする必要があるのだ。教えていただいて、ありがとうございました。

連絡の魔 スーパー編 金銭感覚の落とし方

私は、連絡する魔によく負けている。
例えば、何か購入するか、誰かに聞いた方がいいとインスピレーションが沸いても、やめようかと思う魔だ。
独りでに購入する魔だ。
これに負けた彼をきつく叱った時があった。今必要な物品は、それじゃないと。
しかし、叱られた彼は、素直だったので、それに気付けたのだ。
ばつが悪い魔に勝ったのだ。
それは、彼の徳になるのだ。
叱られるのを、素直に受け入れるのは、とても良いことなのだ。私は、叱られたい。叱られた時に、自分の怒りが発生しているかどうかが素直かどうかだ。
純粋な怒りと、感情的な怒りを、分別するのだ。
純粋な怒りというのは、お互いのために、怒った方がいいというものだ
確かに、端から見ると、同じ怒りに見えるのだが、魂のカルマのカウントとしては、違うのだ。
ただ、いつまでも感謝する事なのだ。
私は、今まで叱ってくれた人に感謝したい。子供の時に、「いい加減生活観変えなさいと物理の先生と英語の先生に注意されたが、変えなかった。その時は、なんだかなーぐらいにしか思ってなかった。ちょっとマズいかな」ぐらいだ。警告はいつも来ているのだ。ドキッとする自分だった笑
だが、カルマ研究をして、痛い目にあって、わかったのだ。先生、ごめんなさい。
感謝していれば、そのメッセージを素直に受け取れるのだ。
全て自業自得なのだ。
私は、魔という存在を、全ての子供達に知ってもらいたいのだ

例えば、これは、聞いた方が良いかもと浮かんだ時は、必ずするといいのだ。お互いにとってだ。
これは、実は連絡した方が、お互いにとって良い展開なのだ。
相手がでなかったとしても。
が、場合によっては、やっぱり止めた方がいいかもという魔もあるのだ。
どちらがいいかは、魂が知っているのだ。
私は、エコバックで、卵一個と焼きそばだけを買うのだった。
いつも来る場所でも、初心者のようにどこですか?と聞く魔もあるのだ。
そして、自分が必要なものだけを買うかという魔があるのだ。レジに並んでも、やっぱり戻すというのもあるのだ。「レジ並んじゃったし、いっか」というのは、その魔に負けているのだ。私は、何度も返すことも、場合によっては、あるのだ。
勿論、窃盗はしない。これは、教育を受けたお陰だ。
見栄を張ると、余計に購入するのだ。そして、お金がなくなるのだ。
大人になっても、子供の頃に食べたうまい棒売り場に行く魔もあるのだ。
いつまでも、その金銭感覚を持ち続けるのと、感謝するためだ。
食欲と見栄を克服すると、そんなにいらないのだ。
スーパーの店員にも、しっかりお礼を言う魔もある。
晩御飯のやきそばを作るのだった。
やはり、「初心忘れべからず」、なのだ。
自分が会得したモノは、いつまでも続けるのだ。
明日は、5時15分に起きよう。
魂に合わせるだけで、物事は全てうまくいくようになっている。
どれだけ合わせられたかが、幸せを決めるのだ。
その事を気付かせてくれた事に感謝したい。いつも、魂と逆の選択をして、ごめんなさい。それでも気遣ってくれて、ありがとう。
食事を作らないという魔もあるのだ。「今日の晩御飯は抜きよ!」というのも、お互いにとって、必要なときもあるのだ。
ごめんなさい。ありがとう。
まただ、愛だあ愛だあ叫ぶのは、早いようだ。甘えてばかりいて、ごめんなさい。
自分が暗くても、楽しく振る舞う魔というのもあるのだ。 その積み重ねなのだ。
今から少しずつ変わっていくだけなのだ。ごめんなさい、たくさん疑う魔に負けて。
誰かに何かを作ったあげたいという意識は、とても大切なのだ。意識が、愛なのだ。 いつも、意識してくれて、ありがとう。キャッチできずに、ごめんなさい。
が、しっかり感謝していないと、脳でキャッチできないのだ。ごめんなさい。ありがとう。
私は、誤字と脱字を訂正する魔には、ほぼ間違いなく勝てる、
それは、母校のお陰なのだ。
ここにも、自分がいた空間を表現する魔というのもあるのだ。私は、よく負けていた。圧倒的に。だが、それは自分を苦しめるのだ。なぜなら、自分の人生そのものなのだからだ。そこにどれだけの時間いたかということだ。色々な葛藤があったはずだ。
それは、全て魂のためになるのだ。

さて、文字を間違えている事はあるのだが、発見した時に、必ず訂正するのだ。その学校は、文字や学習というのを大切にしているからだろう。
どこの学校も、大切にしている文化があるのだ。そこに感謝するのだ。
私は、寄り道が好きだったが、普通に誰かが好意で作った道というのは、ありがたいのだった。ごめんなさい。
進学校なのに、適当な勉強しかしなくて、と家族に謝りたいのだった。どの学校も、自分を磨いてくれるためにあるのだ。どの場所も自分を磨いてくれるためにあるのだ。人間は、ダイヤモンドのように、磨き続けるために、生まれてきたのだ。それは、才能の発揮というだけではないのだ。才能探しをし続けるのではなく、自分磨きをしていくのだ
この事を、神から教えていただいた。

やはり、夢というのは、うまく活用すれば、カルマの発見になるのだ。
私は、今日初めて幽体離脱ができたのだ。俯瞰している自分を見れたのだ。前にしていたと思っていたのは、違っていたのだ。途中で怖くなったので、ビビって戻ったのだった。明日から、また面白いものが見れるかもしれない。ありがとう。ごめんなさい。
やはり、しっかりと認めることは、自分を助けるのだった。ああ、エミール君。あなたは、いつまでこの生活を続けるのだ。と問いかけたいのだった。
「窓を拭いて」という相手に対して、「嫌だ」という事をいう魔というのもあるのだ。
そして、「ごめんね。blog見てくれたら」と交換条件を叩きつける魔もあるのだ。優しい彼は、それができなかったのだ。だが、私は、そんな彼も認めたい。なぜなら、私もそうだったからだ。なかなか交換条件を叩きつけるのが、苦手だったのだ。どの人も、交換条件を叩きつけて良いのだ。人間は、お互い様なのだ。私は、「 その代わりに、これやって」と言える人が羨ましかった。「ああ、そうやって言うんだな」と感心したものだ。ありがとう。ごめん。彼のお陰で、私は、「人に交換条件を叩きつけていい」という事を知ったのだった。交換条件を叩きつける魔に負けている相手に対して、「ごめんね、交換条件叩けないよね」と寄り添うのも、大切なのだ。商売でも、交換条件を叩けない人もいる。ごめんねから、入るのだ。
いつも、湯タンポを作ってくれて、代わりにやってくれて、ありがとう。
自分からやらなくて、ごめんなさい。と謝るのだった。
相手の言っていることがわからない場合、素直に聞くという魔があるのだ。
「お母さんの、一番わかってほしい気持ちわかる?」というのに、素直に「わからないです。教えてください」と頭を下げられるかなのだ。つまり、「自分が悪くないと思っている」から、相手の真意を掴めなくて、無意識マップを完成させられないのだ。
つまり、相手の真意がわからない場合は、どんなに自分が間違っていないと思っても、頭を下げられるかどうかなのだ。それができないという事は、頭が固いのだ。できない自分をごめんなさい。ありがとう。なのだ。
どの人もお互い様なのだ。
ここまで謝りのマップを進めている人は、皆無に近いのだ。と神が教えてくれた。だから、それができないということは、そこまで謝りの愛がないのだ。できない場合は、祈りをすることなのだ。そこまで、勇気や愛がなくて、ごめんなさい。ありがとう。なのだ。
これは、感謝と考察が進まないと、わからないのだ。
この人に変わって欲しいという愛があるなら、まず自分から、頭を下げるのだ。それをしないなら、ごめんなさいなのだ。私は、ごめんなさい。と祈り続ける。明日の朝5時15分に謝るのだ。それを有言実行するのだった。どの世界も繋がっているのだ。どの人も、自分が誤っているとは、思わないからだ。
怒る時も、相手に対して、純粋な気持ちで怒るのだ。理性的な自分を俯瞰しながら、怒る自分を演じられるのだ。これは、しっかり教育を受けた人にしかわからないのだ。教育を受けさせてくれて、ありがとうございます。ごめんなさい。
例えば、自分が優位な立場で、相手が、説得できていないという時は、できる限り、下手に出る行為もするのだ。やってくれている事に気付かされるのだ。それが、視点転移なのだ。やはり、素晴らしい人だった。
ごめんなさい。ありがとう。自分の無意識マップが進んでいる箇所があろうが、相手の無意識マップが進んでいない箇所を見つけたとしても、ごめんなさい。ありがとうなのだ。うまく伝えられなくてごめんなさい。いつまでも、感謝すれば、色々と悟れるのだ。
ここまで、教えてくれて、ありがとうございます。ある人に対して、何かインスピレーションが浮かぶというのは、有り難いことなのだ。
私は、誰よりも謙虚だった、自虐だった、だから応援してくれるのだ。ただ、いつまでもごめんなさい。ありがとう。と思いたいのだ。魂は繋がっているからだ。魂魂、言うなら、神神言うなら、お互い信じていくのが、純粋なのではないだろうか。ごめんなさい。ありがとう。
やはり、全ては全てのために、全ては一人のために、一人は全てのために、あるのだと思うのだった。ごめんなさい。
自分が文字を書けるというのは、有り難いのだ。「世界には、文字が書けない人もいるのだ。」というのが、浮かんでくるのが、無意識マップに王手がかかっている感謝状態なのだ。それが、多種多様なモノに対して思えるかどうかなのだ。私は、きれいに文字を書く魔に負け続けている。少しきれいに書いていこう。何度も注意してくれた沢山の人にごめんなさい。ありがとう。なのだ。
一つの動きのイメージから、感謝するのもいいが、普段目に見えるものから感謝するのも、また素晴らしいのだ。私は、昔から意固地で、「感謝って何だよ」と思っていた。だからこそ、どういう状態か伝えたい。あまり、寄り道して、苦しんでほしくないからだ。自分が、多数の人の共感を得たとしても、「やっぱり自分が間違っていたかも」とインスピレーションが浮かぶのが、純粋な感謝状態なのだ。ごめんなさい。彼女は、そんな状態だったのだ。誰もが、お互い様なのだ。ごめんなさい。ありがとう。と思い直すのだ。調子に乗って、ごめんなさい。誰にとっても、得しか実は起きてないのだと気付くことなのだ。魂は、甘えも許しているのだった。ごめんなさい。ありがとう。「自分が悪くない」と、誰かに共感を求めたり、自分勝手に解釈するのは、全て甘えなのだ。どんな時も、「ひょっとしたら、自分が悪いかも」と思う事が、大切なのだ。
今、仲が良くない、喋らなかったとしても、ある人が浮かんだら、愛のエネルギーを送るのだ。甘えていた。ごめんなさい。ありがとう。人それぞれ使命があるから、エネルギーを送り合えるのだ。やるかやらないかは、自分次第なのだ。魂は、繋がっているからだ。どれだけ、昔喋ったことがなくても、今連絡先を知らなくても、今浮かんだということは、愛のエネルギーを送れるのだ。ごめんなさい。いつも、無視して。ありがとう。どんなに気弱な人でも、できるのが祈りなのだ。必要がなければ、カットされるのだ。私は、もう一度その人に送ろうとしたが、思考をカットされた。それ以上は、不要だったのだ。こういうのが、魂に従うという事だ。これを、どこまでもやらないといけないとなると、途端にやらなくなってしまうのだ。だからこそ、魂に従うと、目に見えない世界での、いらない行為もわかるようになるのだ。見える世界でのいるいらないは、普通に常識に従えばいいのだ。明日は、カットにいこう。コストカットだ。

宗教家 オチ 何かの拍子

私は、宗教家というのは、調べきっているわけではないと思うのだ。
確かに、あらゆる視点を調べている。
が、あと一歩違う気がするのだ。
ここは、まだまだ解けないのだ。
何かわからないが、何でもそうなのだが、何か一つの拍子で、一気にオチがある気がしてならないのだ。
見えない世界というのは、調べれば、調べるほど、ほぼ全てが、そういう解釈ね。確かにね。というのがあるのだ。
が、何か最後の一歩が、どうも怪しいのだ。ここが、甘えなのかもしれない。やはり、かなり甘えているのだ。ごめんなさい。ありがとう。それは、自分で決めることなのかもしれない。そうすると、私はなぜ、こんな頭でばかり考えていたのだろうかと、頭が痛くなるのだ。甘えてしまっている。明日は、5時30分に起きよう。
この妙な最後の怪しさが、情報化社会の現代人には怖いのだろう。私も、そうだからだ。
最後の一歩を自分で決断しきらない魔だろう。私もおおいに悩むのだった。
ああ、あまり調べなければ良かった。いや、調べたお陰で、助かることが多くなった。そうこうやって、すぐにプラスに持ってけるようになったのだった。これが、波長が上がった状態なのだ。魂は、わかっているのだ。私は、自分の中心の中心を信じたいのだ。ただ、まだ確証がないのだ。それが、怖いのだ。
選択肢が増えると、どうしたものかと甘える魔にやられるのだった。決断したものしか、覚悟ではないのだ。私は、一生感謝し続けようと決めた。そう、こういうのも決断なのだ。ただ、やはり思いきった分だけ、花が開くという法則があるのだ。私は、思いきりたいのだ。が、ここに来て、また長考するのだった。結婚相手も、思いきりたいのだった。今まで検証した視点か、はたまた逆なのか、最後のオチは、どちらか。ただ、考えても、やはりわからないのだ。いや、まだ検証が甘いのかもしれない。メキメキ近づいているのだ。どちらなのか。だ。私自身でわかるのか、死相家としての限界なのか。まだまだ、もっと甘えをとりきれば、わかるかもしれない。どちらでもいいのか。
罰は、必ず下る
ただ、それも慈愛なのだ。 結婚したいなと思うのであった。

信じ抜けないという魔

何かを信じ抜けない事はないだろうか?
私は、たくさんある。それは、自分を信じすぎているからでもある。

そうはいっても、信じ抜けないという魔がある。

が、これも神は、認めてくれているのだ。一定量神にしたがうと、良いことばかりして、自分を苦しめないで、というやりすぎをセーブしなさいというメッセージが来るのだ。これには、驚いた。が、ああ、そこまで感謝状態ができているのだなと、思ったものだ。が、気を抜きすぎてもダメなのだ。ちょうど良い頃合いがあるのだ。
私は、疑いすぎて気が狂ったので、救済措置をしていただいた経験がある。目に見えないものは、いくら考えても、最後の決め手に欠けて、分からないからだ。
神は、人がそこまで、信じ抜けないという事も、熟知しているのだ。
私は、信じ抜けていないという魔にやられていた。愛されているという事を忘れていた。魂は、それを知っていた。

まだ諦めるのは早いといつも言ってくれていた。私は、諦めるのが魂のためだと思っていた。が、どうやら、そういうわけではないようだ。魂は、生きていきたいと願っているのだった。また、強烈な修行もしたいと思っているのだった。この二つの矛盾した仕掛けがあるのだった。
神は、愛してくれていた。私は、愛されていた。あまりに愛があるので、こちらが困惑したものだった。愛は、魂を安らかにしてくれる。
誰でも、一瞬の葛藤がある。魂は、それも愛だと思っている。魂は、永遠なり。
まだまだ甘い所がほとんどだが、ミワインテという所は、魂の学校である。
まだまだ魂の事をよく知らないが、、いずれよく知ることになるだろう。我々が、愛を注いでいるからだ。
魂は、とてもワサワサしているモノなのだ。わたしは、何がさっぱり解らなかった。どおりで、魂、魂言うのだろうと思っていたものだ。魂さ魂さ。
魂とは、何だろうか。
私は考えたが、あまり関係ない気がした。まだまだ知るべきタイミングではないのかもしれない。
私は、孤立したと思っていたが、誰もが愛してくれていた事に気が付いたのだった。まだまだ甘いが、あまりに滑稽なので、教えてくれたようだ。
私は、卯滑稽だったようだ。
愛は、全ての人に等しく注がれているのだ。余多の試練を乗り越えると、その事に気付く。
自分勝手に藍を解釈するから、差があるように捉えているに過ぎない。
愛があれば、世界は、魂のルフランになるのだろう。エヴァンゲリヲンの甘えが甘えが甘えが甘えが愛を作っている。

ああ、何と愉快な人であろうか。騙した愛にも気付かずに、私はサタンの甘えを正そうとした。が、逆にサタンに甘えを正されてしまったのだった。
ああ、いつになったら、サタンの甘えを正せるのだろうか。サタンとは私自身であったり、貴方自身であったりするものだ、誰もが持っているモノなのだ、甘いとサタンの正体に気付けない。サタンの攻撃にも気付かない。いや、気付いても、止めようとしない。困ったものだ。このオカマは、誰の愛を受けているのだろうか。貴方だろうか、自分だろうか。魂だけは、知っている。
ごめんなさい。ありがとう。チャンスをフイにしたという魔に対して、自分も認めてあげる事だ
チャンスというのは、またいつか頑張っていれば、与えられるからだ。
一回しかチャンスはないというわけではないのだ。
自分自身の魂を信じ抜くのだ。


追記
うーん。まあ、信じ抜けないというのは、一般的にあるのかなと思う。やはり、あまりうまくいってないと、信じ抜くのは、バカみたいに思う魔や気持ちがある。私は、神様が病気をいつか治してくれると思っているが、そんな何度も時間をかけてお祈りする事はしていない。熱心にし過ぎると、落胆があるからだ。これが、恐い。アイデンティティーが崩れる気がする。これが、正しいポーズかは、わからない。急かしても、無駄なような気がするからだ。神様も事情があって、こうしてるというのもあるんじゃないかと、思う。だから、自然の摂理に従って、生きてる。