迫害の魔 五感覚 遮断

迫害の魔というものがある。

自分が、純粋な事をしているのに、何かいけないのかなと感じる魔だ。

私は、家にいるが、テレビを見ているわけではない。テレビも、時たま必要なのだ。会話の種になるからだ。
テレビを見ている人を悪く言っているのではない。がテレビを見るより、世界平和に向けて、準備をしている方が、よっぽといいのではないだろうか。
自分が、損していると思う魔に負けないことだ。

自分が獲得したものを、大事にするのだ。テレビというのは、会話のネタにするためにあるのだ。勉強をするなら、座学とフィールドワークで十分だ。
やはり、神の声(ある意識体)というのは、自然に宿るのだ。五感覚の遮断というのが肝になるだろう。
やはり、喧騒な場所では、エゴ意識が強くなるからだ。どの人も、実は耳で聞いてないと思っても、聞いているのだ。必要ないからなのだ。だから、私はごめんなさいなのだ。相手に聞いてほしいと思っていたが、相手にとっては、必要ない場合もあるのだ。無意識マップの完成のためには、必要なのだ。


話は変わって、
私の母は、英語漬けの毎日だが、新しく自分を作り替える事が必要なのだ。それには、自分が執着している英語を一旦捨て去る事が必要なのだ。私は、キリスト以外全て捨て去る覚悟をした。だから、キリストに出会えたのだ。だが、それも思い込みの1つにすぎないとも何とも言えない。捨てればわかる境地もあるが、捨てるとなくなる境地もあるのだ。
私が捨てるのができなかったのが、倦怠欲と、自由意思なのだ。自分自身を、どこまでも壊してしまった。悟るためには、必要なことだったのだ。