起きたというのは、どこからか 甘えと甘え 思い込み

私は、自分の思考の牢獄にいたようだ。
が、自分の思考というのは、とても狭いのだ。広くすることもできる。まだまだ、調査が足りない。魂の仕組みも、はっきりしていない。私は、知ったかをしている自覚がある。いつも、見守ってくれてありがとう。何の事かい。とノリ突っ込みをする。
そして、「うわっなんか嫌だな、眠くてちょっと嫌だな。サボろうか」という魔が襲うが、勝てば良いのだ。勝つと自信が付く。だから、勝ち続けるのだ。私は、一生勝ち続けたい。いや、カルマが解消できるまでにしたい。
そうこう考えているうちに、6時半に目覚ましに助けられた。
やはり、寝る時間が遅くなると、目覚ましが、最高だ。
起きるというのは、何だろうか。やはり、ある一定の状態なのだろう。

私は、毎朝地面に土下座するのが、日課だ。いつも、ごめんなさい。こういう素直な気持ちに、天は味方してくれるのだ。自分が、悪かった事に、愛されていた事に、気付かされる。私の反省は、深すぎるようだ。朝起きると、気分がいい。「ここまでが、私の意志」と決めている。毎朝、起きて、カフェインを飲む、顔を洗う、着替えをする事だ。朝食の準備も、ある。新聞を取りに行く。のを、思い出した。
そう、昨日約束した事を、思い出すまでが、起きたということなのだ。
「毎朝新聞を取りに行く」と、約束をした。が、朝の寝ぼけ頭だと忘れている。それを、思い出した瞬間が、覚醒した、つまり起きたという事だ。今日やるべきtodoを確認する。ここまでが、勝負だ。私は、間違っていた。ごめんなさい。あまりに考えまくって、高さが愛だと思っていた。低さも愛だったのだった。上ばかり見ていた。下も見る必要があった。足元を固めるという事だ。明日は、to doの確認をしっかり朝にしたい。このblogを書いているうちに、新聞を取るのを忘れてしまうのだった。明日は、新聞を取りに行こう。なかったらどうしようという魔にも勝つのだ。