verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

未成年女子の殺傷事件と人間の体の三重性

未成年女子の殺傷事件と人間の体の三重性
この手の事件というのは、とても何とも表現しづらいものがある。が、表現すると、変わってくるものだと気付かされた。
人間の体には、肉体・魂体・霊体の三重性がある。ので、観点がそれぞれで変わるのだ。
例えば、肉体的観点で見れば、殺傷された未成年女子はとても可哀想である。犯人への憎しみも湧きやすい
。起きてはならない凄惨な事件だと思う。どうしても、この肉体的な観点ばかりが、表に出るのだ。事件の背景でもそうなのだ。メディアは、90%ここの話をしている。
魂的な観点で言えば、その人は、次の人生を歩みたかったのだ。が、それは不謹慎とされる。また、それなりに、引き寄せる負のカルマがあったのだ。ここも科学では、証明されていないから、不謹慎に思われる。ニュースでは、報じられない。一部の意見として、ネット上に出される。また、内輪話だったり、噂話では上がるものだ。。
霊体的観点については、エネルギーの打ち消し合いをしたかったのだ。が、このような事は、さっぱりわからない所だろう。私も、まだまだ霊体的な観点というのは、すぐには思い浮かばないのだ。
霊体的な観点を、簡単に言えば、物事を純粋フラットにする最終到達地点なのだ。
ただ、ややこしいのだが、エネルギーの打ち消し合いという観点が、霊体的観点として、固定されてるとも限らないのだ。毎度、エネルギーの打ち消し合いが、合っているとも限らないのだ。これが、場合によっては、エネルギーの打ち消し合いが魂体的観点になり、他の意味合いが霊体的観点になる場合があるからだ。
例えば、太平洋戦争が、エネルギーの打ち消し合いが、霊体的観点だったかというと、違うのだ。魂体的観点でも、違うのだ。肉体的観点では、核兵器による、エネルギーの衝突があったのは、誰もが、わかるだろう。
更に言えば、エネルギーというのも、いくつか層があり種類があるので、一言で言うのは、わかりやすさのためなのだ。肉体的観点のエネルギーの衝突と、魂体的観点のエネルギーの衝突と、霊体的観点のエネルギーの衝突は、違うのだ。わかりやすく例えれば、原子と原子のぶつかり合いと、分子と分子のぶつかり合いと、素粒子素粒子のぶつかり合いは違うのだ。
この辺りが、とても表現が難しいのだ。
また、私も真偽を見誤る事がある。この霊体的観点というのは、例えば、ある人が、その事件の真相を長年研究して、ふとあるインスピレーションだと、最終決定する際の観点なのだ。このように、非常に難しいのだ。他の例で言えば、ある裁判に関する裁判長の強烈な葛藤の連続後のインスピレーションのようなものだ。心の中心の中心から引っ張ったインスピレーションの言語化なのだ。あるインスピレーションの言語化というのは、若干のズレが生じてしまうものなのだ。それが、言語という特性なので、仕方がないのだ。更に例えると、芸術作品を作った人も、何度も何度も練り直して作った作品も、100%あるインスピレーションに忠実かというと、数ミリの誤差が出てしまうというものと似ている。が、やはり優れている事には変わりがないのだ。誰でも、長年の経験で、深い葛藤後のインスピレーションというのは、何かしらあるのだ。違う例えを使うと、本というのも、このインスピレーションを出したいと思って、序章から終章まで書いているが、書いている途中も、書き終えてから、このインスピレーションを書きたいたかったのだとわかるものなのだ。心の中心の中心から沸き上がるものなのだ。人間は、なかなか心の中心の中心から、イメージを引っ張るのが、難しいので、とにかくアウトプットして、整理整頓しているうちに、ふと、わかってくるものなのだ。誰もが、自分が話をしている最中に、「あ、これ自分が表現したかったのか」と浮かぶものなのだ。これは、そこまで、深い層から引っ張っているわけではないが、なんとなくこの現象は誰しも、経験しているのではないだろうか。
例えば、この霊体的観点というのは、誰かに対する批評というものもあるのだ。ものすごく矮小的に例えると、芸人の有吉さんの、ある芸能人へのヒトコトなのだ。「ああ、それ何となくその芸能人に思っていた」という無意識イメージの意識化なのだ。「よくぞ言った」というものなのだ。勿論、表現違いの事もあるものだ。矮小化した話をすれば、芸人の品川さんに対して、「おしゃべりくそ野郎」と表現したのに、似ている。要は、過陽気という現象なのだ。それの処理のための現象化なのだ。勿論芸人というのはあるのだが、例えば、さんまさんに対して、「あんた、しゃべりすぎだ」と思うあの気持ちなのだ。なんやかんや言いながら、全ての視聴者の意見を反映すると、ある一定の範囲に収まっているのだ。勿論、私は、ビックデータを見ているわけではないのだが、どの人も何となくはわかるものではないだろうか。
あるデータ分析家が、世間に流れているデータは間違っているし、データ分析も間違っていると豪語していた。確かに、そうなのだろう。が、それは、実は、そのように世界が出来ているからなのだ。本人は、目に見えないモノの集合体を、あまり意識していないのだろう。だから、ある意味、滑稽なのだ。「この私は、真実を知っている」というのほど、怖いものはないのだ。それが、足下をすくう原因になっている事に本人は気付いていないだろう。私もそうなのだが、というより、全ての人が、自分で作った脳内データによって、物事を偏って見てしまうのだ。