verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

神人合一のイメージと方法 神道 奇跡体験

最強の無信仰 - verymuch8’s blog
https://verymuch8.hatenablog.com/entry/2022/06/10/020044

序論として、ちまたに溢れる神人合一の誤解イメージがある。


それは、神人合一体験をした人が、情報を隠している事と、自分自身を尊大に思いたい脳の仕組みにやられている。または、難しく表現しているのだ。宗教的権威を作りたいのだ。高度に見せた方が、お金が手に入るからだ、

神人合一に興味がある人は、比較的意識が高い。
神人合一というと、何やら神々しい感じを受け、神々様と拝むイメージが強いかもしれない。が、これは、正しいイメージからほど遠いのだ。
簡潔に言えば、
その人自身が、これから、どのように動けばいいか逐一教えてくれる同志と共にある状態なのだ。
神人合一状態を、いらないならいいのだが、それはその人自身が困るのだ。わからぬまま死んでも良いのだが、それはそれで、その人が困るのだ。「困ってない」と言っているだけなのだ。「死ぬの怖くない?」と聞けば良いのだ。怖いなら、神人合一の状態になるまで、一緒に頑張ろうなのだ。

同志というのを、イメージするためには、しっかりと子分時代も過ごす必要があるのだ。それらの積み重ねにより、同志になるのだ。
神も自分で、自分も神というイメージを持ち続けられるかなのだ。ただ、これは、己を尊大に思う「我は、神なり」ではないのだ。キリスト教も、同じニュアンスの事が、伝聞されている。
一個一個、どのような反応にしたらいいか、伝えてくれる有り難い存在なのだ。だから、乗っ取られるというイメージではないのだ。私も昔は、乗っ取られるイメージがあった。また、乗っ取りきられても良いと思ったが、そんな事もない中間のイメージなのだ。
確かに、心の器の中で、意識化に置かれるというのはある。が、乗っ取りとはほど遠いのだ。
よほど、人間のエゴイズムによる洗脳表現の方が、もっと危険なのだ。それは、オウム真理教を見ても、想像に固くないだろう。ブラック企業の企業主の洗脳行為の方がはるかに怖い。isの洗脳も同じだ。
神は、そのような存在ではないのだ。
つまり、神人合一というのは、その人自身が一生支え合い続ける夫婦を獲得する事でもあるのだ。
定量、「自分ってこうだよね」という思い込みを外していくのだ。私は、この件に関しては、先人を信じて良かったのだ。途中では何度も、「神人合一なんて、いつくるんだよ」と思ってたのだった。

これからの若い世代は、神人合一で、自分の同志と共に、自分のために、生きていってほしいと切に願うのだ。
ただ、この同志は、チヤホヤばかりする存在ではないのだ。時に、優しく、時に厳しく、時に偉大なのだ。神と人の関係というのは、尊厳し合う仲なのだ。ただ、どうしても人間は肉体があるので、尊厳を忘れてしまいがちなので、訓戒が必要なのだ。
ただ、単に、拝む存在でもないのだが、拝む事も大切で、謝罪する事も大切なのだ。
この何とも言えない「行間のようなもの」があるのだ。
時期が来た人から、順番に意味がわかるようになっていくのだ。だから、決して怖がらない事なのだ

人間の方が、見方によっては、恐ろしい事をするからだ。カルマを積む事がどれほど恐ろしいか、目に余るようだ。

あるがままに: 神人合一と悟りは違う

あるがままに: 神人合一と悟りは違う
が、悟りと神人合一は、同じなのだ。魂と意識が同じなのと一緒だ。

神人合一 - 深見東州「神霊界」

深見東州「神霊界」 神人合一

verymuch8.hatenablog.com
かなりの汎用性がある価値観だ。真理を探究する人は見てみよう。






□追記
本当かわからないが、イチロー選手は、神人合一していると、神から教えていただいた。スポーツ選手は、している人がいるのだが、していない人もいる。
神人合一は、大きく分けて、ニパターンいる。
一つは、神の声が聞こえるタイプである。偉業を達成する宗教家に多い。
もう一つは、神の声は聞こえず、想念がとてつもなく役に立つものが浮かんでくるタイプである。
イチロー選手は、おそらく、ひた隠しの可能性も僅かにあるが、霊聴ではなく、後者のタイプで、偉業を達成したと思われる。どうしても神の声が聞こえる人は、ついつい表現で言ってしまうのだ。

究極の実在の動き(この世の善悪を超越した宇宙の究極の仕組み)に関しては、日本で見れた人は、私を含め、100人に満たないと、神から教えていただいた。正確な数字は、頭で理解したが、それをblogで言語化すると、カルマになるので、止めにする。
その実在をどうやって、どの人も見れるようになるかに苦心するのだ。
無意識マップという存在がある。無意識マップというのは、わかりやすく言えば、FF10の魔法のアビリティマップだ。初期魔法を覚えていくと、どんどん高級魔法を覚えられ、マップが進んでいく、あれと似たような五次元的マップなのだ。テレビゲームの話だが、これは、人間も宇宙も同じなのだ。

無意識マップは、ちなみに見た人は、地球上で、ゼロ人なのだ。
これは、人に見れるものではないのだ。一部分だけなら、見れる。
が、この無意識マップは完璧なので、全ての物事と辻褄が合うのだ。が、私もまだまだ先入観で見てしまうので、適切な表現から離れてしまうことがあるのを、できる限り無くしていきたい。

以下は、神人合一について、他のブログである。
究極の神人合一の境地について(^-^) | 弥勒菩薩の愛の学びブログ(^-^)

究極の神人合一の境地について(^-^) | 菩薩




□追記
神人合一の方法は、運と努力である。
神人合一すると、わりと、低級霊と対峙する人生になるので、神人合一は、しなくてよいかもしれない。ただ、自分なりに人生を切り開いていければよい。
特殊能力も使えなくてもいいという思考になるのだ。
ただ、神人合一しながら、低級霊と対峙しなくてもいい可能性もあるのだ。これを私は狙っている。神人合一のパートナー(守護霊みたいなもの)は変わる事がある。低級霊と長く一定時間いると、低級霊といなくて良くなるケースもあるようだ。低級霊と対峙しなくて良い時期になると、普通の人生を送りやすくなる。→これも、どんどん変わっていく、悪霊との対決がどんどん終わると、次のステージに入る。なぜ、悪霊悪魔がいるか、その問いの答えも質が上がってくる。その問いの答えは、今のところ、エネルギーの調整で、どこかが減るとどこかを増やさないといけないエネルギー等価交換というものがあるのと、慈悲があるからだ。悪霊を退治すると、その負の感情の総エネルギーを、他の霊に付けないといけない。まあ、まだはっきりと表現できないが、いつか書ける日が来れば良い。

□追記
これから、もっとこの分野の事を書けるだろう。閻魔大王的守護霊は、名前をごく稀に聞くが、答えない。また、質問に答えない。霊格のレベルが上がると、そのような傾向にあるようだ。

最後まで、お読みいただきありがとうございます。このご縁に感謝です。

お金の認識と体の三重性

お金の認識には、それぞれの体で認識が違うのだ。人間の体には、三重性がある、肉体、魂体、霊体である。それぞれ、見方が違うのだ。これを、言葉で考えてみよう。
肉体的観点 お金は、あるだけあったほうがいい。お金が沢山あれば、幸せに違いない。
魂体的観点 お金はあるとある分だけ、カルマが溜まりやすい。なければ、溜まりづらい。
霊体的観点 1円も、1000万も、等価である。どのモノも等しく素晴らしい。

魂体的な観点と、霊体的な観点は、その分屋の学習が必要なのだ。
魂体的観点で言えば、モノにはエネルギーがあるので、大きなエネルギーは、それだけの事をしないといけないのだ。
霊体的観点で言えば、全てのものが、有り難いのだ。等しく、感謝するものなのだ。

この三つの観点があるので、人の発言がわかりづらいのだ。私は、肉体的観点も大切に思いながらも、魂体的観点と、霊体的観点も忘れないようにしたいし、どの人も、それが一番自分を幸せにするのだ。その人に最適なお金の量というものがあるのだ。魂体的観点は、説明がしやすい。「お金の亡者になってしまったね」という例を出せる。霊体的観点は、一気にどのモノも、純粋フラットになるのだ。人間が作り上げた思想や価値観を無化するからだ。ここに、観術や一部の宗教学者が取り組んでいるのだ。だから、「私は、不動産なんかいらない。カルマを溜めやすいから」という魂体的視点と、「あったら、楽になるかな」という肉体的視点と、「世界に対して、最大活用できるかな」という霊体的な視点があるのだ。
私は、間違っていた。肉体を軽視してた。やはり、肉体・魂体・霊体、33%ずつが、適切なのだ。これからは、しっかり配分をまた愛していきたい。

公人と私人のカルマの解消法の違い

公人と、私人は、カルマの解消法も違うのだ。
公人は、罪を作った場合、影響力が圧倒的に強い。
その分、解消するのも、大変なのだ。
だから、同じような大多数への謝罪しか方法はないのだ。
それだけ重い責任なのだ。

私は、私人なのだが、敢えてこのようなblogをしているに過ぎない。
が、公人は、自分のメディアでもいいから、早めに謝罪するに限るのだ。が、本人が気付く必要があるのだ。それを気付かせてあげるブレーンがいてほしいものだ。

鳩山由紀夫さん
鳩山由紀夫さんは、元首相である。が、いまだに、公人として、自分の失敗を認めていない往生際の悪さがある。ここに、多くの人が、認めない問題がある。
仮に、総理大臣中は、仕方なかったとしても、総理を退いても、未だに、自分自身の過ちを認めない。
なので、政界からも、あまり相手にされないのだ。
これは、鳩山由紀夫さんに限った事ではない。
が、それをしないと、無意識マップが先に進まないのだ。
鳩山由紀夫さんが、米軍基地に関しても、最低でも、県外移設と言ったのとは、違う種類なのだ。

大多数の沖縄県民の声を代弁したのと、自分勝手な思惑で行動したのでは、わけが違うのだ。
勿論、「政治家として、言ってしまった。政党を不利にしてしまった。」というのはあるとしても、その事と、先ほどのクリミア半島への表敬は違うのだ。
純粋意識に従って、米軍基地の移設を求めたのと、
エゴ意識でクリミア半島に行ったのとは、違うのだ。勿論、純粋意識に従ったからといって、現実化させられるとは限らないが、カルマと徳は違うのだ。
元総理大臣として、しっかりとした自著を出せば、カルマの解消になるのだ。それを出すかどうかは、本人次第だが、カルマの解消をしてほしいものだ。誰もが、自分の過ちを認めたくないというのはあるが、やはりカルマの解消のためには、認めるに限るのだ。ごめんなさい。ありがとうございます。
「感極まって、言った事と、実際にできる事の違いもある」「また、誰も求めていない事をするのは、カルマになるのだ。」強行する事を時代が求めている場合と、そうじゃない場合があるのだ。
実際問題としては、片方に揺れないと、現実というのは、動かないのだ。
米軍視点と、沖縄県民視点と、その他県民視点と政府視点と、野党視点と、違うのだ。どれが強くて、どれが弱いかの違いだ。
やはり、無意識マップの完成と、世間の人間への認識が、改めて浮き彫りなるのだ。ただ、これは、長い長い葛藤でわかるものだ。一つ一つ行っていけば良いのだ。政治信条とプライドの魔なのだ。
一部分を切り取って、例に出してごめんなさい。日本のために、ご活躍していただき、ありがとうございます。
やはり、微妙な違いは、その人とその人についている神しか、伝えきれないのだ。だから、全ての人が神人合一するのが、理想的社会なのだ。微妙な差異という微差は、絶えず変わるからだ。
例えば、ある当たる占い師に、「本を書くな」と言われても、時期と状況が変われば、書いた方が、その人のためなのだ。過去の記憶層に、やられているケースなのだ。私も、たくさんやられていた。だから、敢えてやられない状況に身を移したのだ。

目に見えるもの 人間が向かうべき所有概念

目に見えるものは、自分が所有していると思っている。が、本来は、誰のものでもないのだ。
その事を、悟っている人同士は、携帯電話もシャッフルできるし、人も紹介し合えるし、何でもシャッフルできるのだ
実は、その方が、みんなで、問題が少なくなるし、楽しめるのだ
例えば、人を紹介してれば、よく聞いている人も「ああ、あの人ね、」と楽しめるのだ。
また、「あの人と連絡とりたい」という時もできるのだ。
ただ、人間は、分別エゴ意識が強い人は強いので、それが自分を苦しめているのだ。が、それは自業自得なのだ。
私も、この分別エゴ意識にずっと長年やられていた。だから、携帯電話もあまり見せなかった。
が、それは自分の物だと思い込んでいたからだ。勘違いなのだ。
勝手に、自分で紹介したくないケチ臭い魔にやられているだけなのだ。
自分の保身の魔にやられているだけなのだ。
だから、誰でも紹介して良いのだ。別に、繋がるか繋がらないかは、人それぞれなのだ。
私は、アホだった。
例えば、偉い人ほど、自分が紹介したら、どうなるかと思ってしまうのだ。が、それは、自分が脅かされる魔にやられているだけなのだ。
ただ、私も、人の事は言えない。この魔に負け続けたからだ。
「自分で見つけて!」というのは、不親切なのだ。
私は、どの偉いと言われる人にも、誰をも紹介して良いのだ。
それをしないから、うまくいかないのだ。また負けた。また負けた。
の繰り返しなのだ。
魂は、それを知っているのだ。
「誰々があなたに会いたがっている」と伝えてあげるのだ。反応次第なのだ。
魔に負けなければいいのだ。実際に会う場かどうかは、別問題なのだ。負けないことなのだ。
どの人に対しても、茶菓子を持って行く気持ちを持ち続けるかどうかなのだ。
私は、ミネラルウォーターだけは、忘れなかった。これは、自信がある。ミネラルウォーター、が嫌いな人は、滅多にいないからだ。
その人への敬意があるから紹介するのだ。敬意があるから、紹介しないのではないのだ。自分が思っている固まった思い込みなだけなのだ。
携帯電話も好きに見て良いよなのだ、そうすれば、親切な人は、その人の観点で、問題を教えてくれるのだ。私は、シャッフルした友人に助けてもらった。恋人にも見せるかどうかは、別問題だ。あまり、境界線がなくなると、ドキドキミステリアスにならないからだ。ただ、家族や友達には、使わせて良いのだ。

目に見えないもの 人間が向かうべき所有概念

目に見えないものを、人間は、所有しているように思っている。
これは、頭が痛い所なのだ。
目に見えないもののある情報を、ある人から聞くと、そのある情報は、そのある人の所有物のように、脳で感じてしまうのだ。
私も、この魔によくやられていた。が、そんなことないのだ笑

あなたのちぃちゃな記憶層から、ある情報を引き出しているに過ぎないのだ。
ごめんなさい。 ありがとうございます。
「日本は、誰のもの?」に似ているのだ。神社も、誰のものでもないのだ。
神も、誰のモノでもないのだ。四国も、出雲大社も、桜島も、誰のものでもないのだ。だから、どこに行っても良い自分を認めることなのだ。
実は、目に見えるものも、○○さんの家も、その○○さんの所有物というのは、人間勝手に決めたルールなのだ。神は、どこへでもいるのだ。人間も、本来は、そうなのだ。
ただ、目に見えないものに、詳しいか詳しくないかだけなのだ。知ってても、知らなくても、どっちでもいいのだ。魂は、一方通行だからだ。
目に見えるものは、まだまだ人間同士の悟りとして、所有しているイメージを使わざるをえないだけなのだ。
ただ、その人の家のあるものが、その人を苦しめていても、家宅侵入になってしまうのだ。それは、まだまだ仕方ないことなのだ。と諦めることだ。
ごめんなさい。ありがとうございます。

手書きの手紙 お金と感謝の関係性

私たち家族は、仏教真言宗系福寿山如意院の森山住職にお世話になっている。
お金以上の事を相手がしていただいているというイメージが大切なのだ。
封筒も、きっちり敬意を込めて、感謝の念で、書き、送るのだ。この作業を怠ると、大変なのだ。ごめんなさい。ありがとうございます。毎朝の戒行が大切だと、いつも教えていただいています。
私たち家族は、いつも朝にしっかり戒行をしていないので、しっかり挑戦していきます。明日は、4時45分に起きて、戒行をしていきます。そのために、21時半には、就寝する予定です。甘えてばかりでごめんなさい。いつも、念仏をしていただいて、ありがとうございます。神様からそのように教えていただきました。困ったときに助けていただき、ありがとうございます。
もし、お金を払っている以上の事を、相手がしていただいていない場合は、自然と、縁が切れるのだ。また、教えてくれるものなのだ。が、いつまでも敬意を忘れないことなのだ。私も、一日五分の睡眠時間にしてみたいと思ったが、やはり無理なのだった。

宗教裁判
http://religiouslaw.org/cgi/search/pdf/201217.pdf

追記
自分で手紙を書いてみると、思ったより、普通なことに気づかされる。相手にあげた手書きの手紙は残り続ける可能性が高い。たまに見返してくれるかもしれない。

最強の無所属 表現の自由度と、無所属のメリット デメリット

最強の無所属とは何か?を追究してきた。

無所属で利害関係が何もないのに、二時間長電話できる友人や知人が、沢山各地にいる状態になっていくことだ。お酒を飲まなくても、相手がどんどん本音を言ってくれる状態に自然となっちゃうのだ。
例えば、心を閉ざしてる人でも、、、。人間なので、心を閉ざしていても、「え?この人と話したい」と思われることなのだ。
また、「所属とか関係なく、この人と付き合いたい」と思われるかが肝要だ。

以下は、2017年に書いたものだ。
表現の自由と、所属の有無の関係がある。

無所属は、
メリット
表現の自由度が高い。
ここは、最大の特徴だ。
ネットのblogであれば、スポンサーや関係者を気にする必要がないからだ。
表現の自由度として、本質に迫りやすい。
私は、何でも自由に、本質に迫りたいだけなのだ。
もし某かに、所属していると、所属先に対して、表現の自由も気にして、形式を同じにしなければならなくなる。
また、気を使って、ある一定の枠組みに思考が固められてしまう
人と繋がりすぎると、表現が固くなるのだ。「これこんな風に書いたら、あの人に」とつい気を使ってしまうのだ。
別に誹謗中傷したいわけではないのだが、そういう風に取られてしまう事があるのだ。
ある特定の個人から、話を進めるケースと、「愛だの、戦争だの」という漠然としたテーマで、話を進めるケースがある。
この時に、ある特定個人を誹謗中傷したいのではなく、喩えとして、使いたいだけなのだが、所属先や関係者に気を使うのが、人間の性なのだ。
誰かから、「あの人の事、あんま悪く書かないで、」と圧迫になるのだ。
これが、私は嫌なのだ。
人間は、光も闇もどちらもあるからだ。ただ、この事を伝えたいだけなのだ。
しかし、気を使うことで、より表現を工夫したり、より調べるというのは、あるのだとも言える。

②お金を払う側だと、何でも話せるのだ。私は気にしいなので、何かと顔色を伺ってしまうのだが、主観的で良いのだ。いや、お金を払う側でも、使ってしまう気にしいなのだ。


デメリット
①情報を手に入れるのが、難しい。
②お金がかかる。
お金を払うお客として、潜入する必要がある。(見返しとして、表現の自由度が高められるのだ。取材対象組織に、気を使いすぎることもない。)


最近は、そこまで表現したいテーマが、吐き出しきれた感覚があるのだ。
ただ、もうちょっと貯めてから、無所属にするという手もあるのだ。
このblogが、どんなジャンルか整理してみた。

ジャンル
①うつ、自殺、精神疾患精神科医、体の病気、
②人間関係(恋愛、結婚、仕事、趣味、学校、友人、家族、、)
③スピリチュアル関係(主に宗教団体、教団)
④法律等の固い分野
⑤芸能、ニュース関係(自分の知人だと、あまりにストレートな物言いができなくなるので嫌なのだ。一方的に叩く週刊紙とは違うようにしたい)
⑥学校、学習塾等の教育
⑦引きこもり、ニート家庭内暴力等の社会問題
⑧国際関係の、社会問題
⑨仕事関係(求職、休職、リストラ、減給、左遷人事、)
⑩社会的タブー(近親相姦、詐欺、暴力団、公安系裏側、天皇家、借金、)
⑪愛、お金、幸福なもの、等の抽象概念

単純に、私の専門の「感謝と日常生活の微差、究極の実在への教育」を、
上記のような色々なテーマを皮切りに、
横断的に表現したいだけなのだ。
勿論、圧倒的に弱いジャンルは多い。

悪意はないのだ。

ただ、たまたま時間と紙面の問題で、多角的に表現できないのは、申し訳ないので、謝るのだ。が、一面でも表現された事には、感謝してほしいのだ。そういうものなのだ。
急いでいると、なかなか纏まらないのだ。
どうしても、恩ができると、その人や組織に、深く切り込む表現ができなくなるのだ。これが、すごく嫌なのだ。
欠点の羅列をしたいわけではないが、美点も欠点も同時に表現したいのだ。
美辞麗句と罵詈雑言を、両方なのだ。それが、全てひっくるめて、人間なのだ。
私は、そろそろ個人と家族以外の、会社や国家等の社会への洞察を深めたくなったのだった。私は、番宣がしたいのではなく、ありのまま自分が感じたことを、不特定多数の人に伝えたい本来の報道のようなものなのだ。どうしても、昨今では、番宣ばかりになってしまいがちだと感じている。だが、調べもしないで、と言われると、困るのだった。同じくらい研究しないと、なかなか相手の真意というものは、掴めないからだ。私は、ある本を批判したかったが、なかなか内容が難しいので、叩くのに時間がかかり、結局何年もものすごい時間を取られるのだった。そこで気付いたことだが、初めの方に率直に感じた事も、結局は合っていたのだ。それを、人に言うのも大切なのだ。
最初の一方向も、360度見てみると、合っているのだという事に気が付かされた。
ごめんなさい。ありがとうございます。という感謝に結局戻るのと、一緒だ。 これは、あれまな気付きだった。