verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

私の専門 最終結論版

の専門は、何か、、、
終結論として、凝縮すると、
①感謝と日常生活の微差②究極の実在への教育
この二点のみなのだ。
ただ、なかなかそんな簡単に伝えられるものではないので、あらゆる手段を用いて、表現しているのだ。
膨大な量をすれば、必ず凝縮する時間をとれば、凝縮できるのだ。
本質世界では、膨張ばかりしていると、凝縮に向かうのだ。
この二点に凝縮するのにも、長年かかった追究があったからなのだ。これも、この世の中の仕組みなのだ。

いつも見守っていただき、ありがとう。トロトロして、ごめんなさい。

纏めようとするのが大切なのだ。誰もが、纏めたいのだ。ただ、なかなかこの二つに合う仕事がないのだ。宗教がかなり近いのだが、どうしても宗教は、ある信仰のブロックがあるのだ。また、範囲も狭くなってしまうのだ。そこが何かと嫌な部分でもあるのだ。これも思い込みなのかもしれないと、常に思うことだ。自分で仕事を創るのだ。
が、なかなか生ぬるいものではない。家族に対してどこまでできるかというのは、鍵なのだ。専門分野というのは、プロに必要なのだ。
①感謝と日常生活の微差②究極の実在への教育
プロとして、これをしっかり進めていこう。

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追記

①感謝と日常生活の微差②究極の実在への教育
この二点のみなのだ。
①の感謝は、勇ましさの方が大事な場面が多い事、確かに感謝は大切だ。
②の究極の実在への教育は、絶対的正義がない事に気付く人を増やすこと。


https://syukatsulabo.jp/obosan/article/336 108煩悩と言われる、概念としては、私達が使ってる魔に近い。

車の運転と魔 お金or純粋意識とエネルギー交換

普通に車の運転にも、魔があるのだ。
まずは、運転を手伝っていただいた方に感謝したい。ありがとう。ごめんなさい。今は、どの駐車場でも、止められない場所はないのだ。ここまでくるのに、3年かかった。やはり、ペーパードライバーから、そこまでくるのは、三年かかるのだった。ごめんね。ありがとう。

さてさて、日常の魔に戻るが、
①「車でここで、切り返すかどうか」という魔もある。
②駐車の際に、色々な人が見ている時に、きっちりやれるかという魔もある。
③駐車場の警備員に見られても、車内で本を読む・瞑想をする魔もある。目に見えない存在を確認するには、静寂な場所が良いのだ。私は、車の運転席が、一番しやすいことに気が付かされた。確認がとりやすいのだ。シートのお陰だろう。

そうは言っても、毎回、勝負どころなのだ。
他の例としては、①しっかり駐車できなかった時に、また素直に失敗を認めて、またやり直すという魔もある。

このような魔に勝ち続けると、運転はうまくなるのだ。

私は、納車初日に、物損を駐車場で起こした笑 これを、言っていい人と悪い人がいるのだ。慣れてくると、そんな危なくないことに気付くのだ。うまくなれば、「昔は、当てたよ」と笑い話にできるからだ。だが、うまくないと笑い話にできないのだ。
わざとなのだ。これで、保険の仕組みと鈑金を、確認できた。
誰でもある一日に、車だけを運転していても、魔があるように設定されているのだ。
私は、仕事を辞めて、この事を確認したかったのだ。
どうも、無職になったことがある人しか、わからないのだ。

確かに、忙しい仕事人生にも魔はあるのだが、それはお金を貰うから、より強い魔が発生しているのだ。

お金には、エネルギーがあるから、その分しっかり働かないといけないのだ。これは、当たり前なのだ
なぜ、イエス・キリストは、「私かお金かをどちらを取るのか」と言ったか、わかった。やはり、どちらもとると、必要なエネルギー交換量がぐぐぐっと上がり、目まぐるしくなり、結局自分を苦しめるのだ。私は、よく何でお金持ちは、悪い人が多いのかと、ブーたれていたのだった。そういうことなのだ。

エネルギー測定器でもあれば、人は信じるのだろうか、、、。私も、初めてのモノは、信じないものだ。それが、、理性なのだ。探してみるのも良いだろうが、また時間を使ってしまう。結局、人は、自分が悟った部分しか、相手がどんなに研究した事を話しても、通じ合えないのだ。

仕事は、前向きに取り組むのに限るのだ。私は、仕事大好き人間なので、仕事をしている時が、一番充実しているのだ。
逆に、試練として、仕事をしない世界を確認しているのだ。
この事は、なかなかわかってもらえない。甘えているように見られる。正直甘えている時も多いからだ。甘えなければ良いのだ。が、かなりきついのだ。

一日の魔の調整について、私は、魔の研究をしているから、その事が、わかるのだ。「体感してみたら、わかるよ」としか、言えないのだ。
仕事をしていればいいという訳ではない視点も手に入れればいいのだ。ただ、私は仕事をしないのは、飽きたのだった。働くのだった。

霊体として、人は、誰でも何かを循環させているのだ。それは、どの人も純粋フラットなのだ。

肉体には、循環の活動量が、まるっきり違うように見えるのだ。子供とお年寄りの違いのようにだ。
だから、肉体は使うのに限るのだ。
要は、世間様は、何事につけても勉強不足なので、お釈迦様ではないので、やっているフリをする必要があるのだ。が、自分もドングリの背比べなのだ。

ただ、どうしても、人は自分の脳内の価値観に踊らされているのだ。その事に気付く人が増えてほしいのだ。

私は、今、世界中を旅したいのだ。だが、これも魔なのかもしれない。冷静な判別が必要なのだ。
よくよく考えれば、私ほど、奇想天外で、大自由な心を持っている人が、わざわざ、お金を払って、世界の現地体験をしても、いいのかと思う。
ここは、あまり解けていない。行ってないからだろう。胴着でも来て、歩いてみようか。カンボジアにでも、ボランティアに行こうか。

新しい発見は、あるだろう。悟っている人は、そんなに行動範囲を拡げないのかもしれない。
人間の構造は、変わらないからだ。
が、思い込みは外すに限るのだ。アルジェリアにでも、旅立つのもいいだろう。

顕在意識の良さと悪さ

顕在意識が強まると、飯が旨くなるのだ。
肉体次元の話として、貪って、がっつくと、美味しくなるのだ。
だから、貪る人は、食欲が強くなるのだ。食欲が強くなると、肉体の話として、飯が旨くなるのだ。食欲が弱くなると、魂体が活性化するのだ。

イエス・キリストの話として、「パンと神からのみことば、どちらが大事か」というと、その人次第だが、私は、みことぱを選びたい。

結論としては、潜在意識と顕在意識の往復動作を増やしていくことなのだ。

ただ、これは結構疲れるのだ。神経と体を使うのだ。食欲と頭だけを見分けるのだ。今噛んで良いか、止めた方がいいかを、徹底的に叩き込むのだ。往復動作を増やしていくことなのだ。

キリスト教学校教育Online Newspaper
http://www.k-doumei.or.jp/np/2002_11/04_02.htm

キリスト教学校教育Online Newspaper

やはり、これも、「顕在意識と潜在意識の往復をしなさい」ということなのだ。
悟ると、ただこの一言に、全てが内包しているのだ。わからない人は、まだ悟ってないのだと思っていただきたいのだ。

顕在意識でも、パンを食べて、潜在意識でも、パンを食べなさいということなのだ。一度心に聞くことなのだ。この調整がとても大切なのだ。

プレゼント学 最終結論版

プレゼントを、誰かにあげる際に、どのようなもの選ぶかというのは、色々ある。
私も、様々なプレゼント攻撃をよくしたものだ。
ただ、貰ったものは処理に困る。
手作りのモノだと、余計に困ってしまう。

ということは、
渡す際に「あげたものは、全部捨てて良いから」「誰かにあげてもいいから」と伝えるのだ。これが、究極のあげる側のプレゼント学なのだ。

これは、カルマを作らないのだ。物の管理をしっかりしないと、負のエネルギーが放出されるのは、以前にも書いた。
だから、貰ったもので、使わないものは、捨てるか、あげるか、使うか、どこかしらに循環させなければならないのだ。しなければならないという言葉は、あまり使いたくないが、結局その人のためにならない場合は、しなければならないという語感を使うようにしたい。

貰う方としては、基本的に、モノにも因るが、敬意をもって、捨てるに限るのだ。本人に返すのもいいが、関係によるだろう。

いつまでも、同じものを置いていると、循環にならないからだ。
だから、熊手等は、神社にお返しするのだ。「熊手返すの忘れたと周囲に伝えるのは良いことなのだ。少しバカみたい魔があるが、それはそれでいいのだ。
どの人もこの人には、これを言いたくないという魔がある。
結構負けているのに、私は気付くのだった。まあ言わないのだが笑

必要なものだけ、視覚に入れれば良いのだ。が、公共の場に関しては、皆で決めるものだ。

プレゼントも、悟りのためにある。また、人間関係の構築にあるのだ。


バレンタインのチョコも、うまく色々回すのだ。バレンタインのチョコは、一口食べる。そして、本人や友達に渡すようにする。そうすると、分け合えば、余るのだ。全部食べないといけないという思い込みを解除し、誰かに渡してはいけないという思い込みを解除し、食い意地を張らないという魔に勝ち、失礼をなくすという魔にも勝つ。そうすると、うまくいくのだ。
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見知らぬ人への魔 温泉、コーヒー店の例

温泉施設には、どんな魔があるだろうか?
温泉に行った。
ここでは、様々な魔がある。
温泉のお掃除のおばちゃんに、マッパで、トイレはどこか聞く魔があった。
ちっちゃい女の子と目を合わせる魔もあった。
人の落とし物を、すぐ渡す魔もあった。
警備員の人に話しかける魔、正直に、違う場所に止めているから、困るというのを話す魔。
アンケート用紙に答える魔
自分がタバコを吸わなくても、喫煙所にいく魔。
正直に受付の人に、事情を説明する魔。
すぐ他の人にサウナを譲る魔もある。
温泉では、ほぼ魔と戦うものがなくなってしまった。
ごみ拾いをして、帰るのだった。
可愛い子を見つめる魔もある。
どの状態にも、自分を転移できるかどうかなのだ。

人は、なかなか悪口を受け入れられないが、受け入れる心の広さが、自分を苦しめないのだ。

やはり、クラリネットの音が、私は好き
だ。真面目に言葉で表現しても、面白くないのだ。
究極の実在を、音楽で表せたら、素晴らしいのかもしれない。モーツアルトの曲のように、聴覚だ。
ただ、よく言われる高い波長の楽譜だけでは、なかなか難しいのかもしれない。
やはり、誰もが私のように、目で、瞑想で、見たいのかもしれない。

が、味覚で伝えるのも、究極の実在のイメージの一部を、究極の頭だけじゃないのかもしれない。

ウィローという植物エキスのように、嗅覚もいいのかもしれない。触覚もあるかもしれない。
最高結晶体のイメージだ。魂が喜ぶものだろう
無意識マップなら、できるはずだ。究極の実在のイメージを、味やらで伝えることも。
コメダコーヒーのアイスミルクコーヒーで、何か見付けられないか苦労するのだった。リラックスしきるというのも、また必要なのだ。
私は、本が成功するまで、人に会わないというの魔も、圧迫のためだが、結構きついものなのだ。

魔というのは、それぞれの人が見つければ良いのかも知れないとも思うのだった。
誰かの何かを守るために、人は生きるのが幸せなのだろう。
私は、昼になかなか歩くのが大変なおばあちゃんに、声をかける魔があった。
そう、なかなか人は声をかけないのだ。かけてもらうと、とても嬉しいのだ。
そして、過去の楽しい思い出を話してもらうのだ。
誰もが、自分の人生を認めたいのだ。おばあちゃん孝行は、こういう地域の人にも、していければいいと思うのだ。
ビジネスライクの思考だと、売り上げに繋がるかというものばかりだが、それでは、声をかけないのだ。
私も、一切声をかけなかったビジネスマン時代がある。が、声をかけた方がいいと思った時は、かけてもいいのだ。

さて、音楽にリズムを刻めば、楽しい躍動になる。ただ、楽しい顔が見たいだけなのだった。いや、自分も楽しくなるからだろう。
魂の時間調整は、バッチリなのだ
やはり、思考哲学をずっとやってよかったかも知れない。バック走をしながら、自然を見るというのもあるのだ、これは、躍りなのだ。やはり、家族といるのが自然体なのだ。家族で出せるものが、自然体なのだ。
一人の生活を極めれば、全ての人ともうまくいくのだ
私は、色々な人の事を考えてしまう癖があった。すごく辛いのだ。
だが、どうすればそれができるか、魂を磨きあげれば良いのだ。そうすると、自然と、普通の時間軸でも、うまくいくようになっているのだ。
私は、ずっと葛藤した。愛し合いたいだけなのだ。別の側面では、魂に誰もが忠実なのだ。が、誰もが、愛し合うことができるのだ。
コメダコーヒーに、ごみ拾いをしたごみを店員に申告する魔にも勝てた。この一瞬のやりとりの連続なのだ。ちゃんと周りを見ておくことだ。ごめんなさい。ありがとう。
ただ、私はお寺の住職に、昔のような純粋な気持ちを持ってほしかっただけなのだ。だから、相手が言っている準備というのも、必要だという視点は、重々承知なのだ。ごめんなさい。ありがとう。ただ、自己防衛には走って、他を疎かにしては、自分を苦しめるだけなのだ。今は、スマホで大概調べられるが、逆に現地の人との対話がなくなったり、遅くなったりするのだ。自分でいる時間に、どれだけ楽しめるかなのだ。
一瞬でも、大黒摩季さんの歌が聞けるかどうかなのだ。人間は、色々気を配ることが動物との違いなのだろう。繊細で広い心を持っていたい。自分のコミュニケーションの失敗も反省して、頭で変えていくのだ。
状況、状況で立場を転移するのが、必要なのだ。どの人の気持ちにも転移すると面白い。
家族四人だと、面白いのだ。どの人も個性を活かしている。時折、素直になることだ。やはり、何事も楽しむことなのだ。一つ一つの動作で、お返しをするのだ。どの人も、活かし合えるのだ。ちょうどいいバランスになるのだ。時たま、神に感謝するのだ。焼き肉でも、ケーキでも、楽しめるのだ、ありがとう。ごめんなさい。私は、いつもわがままだった。活動が大切なのだ。マナーが大切なのだ。
テンイドライブは、どこでも近場でもできるのだ。
自分が、どこでも受け身が取れるようにするのだ。何か嫌な気持ちになった時には、神に聞けば良いのだ。
魂は、愛し合いたいのだ。
やはり、味覚で、伝えるのは、難しいかもしれないと思ったものだ。聴覚も、難しそうだ。触覚も難しそうだ。嗅覚も難しそうだ。視覚なのかもしれない。
やはり、同じような魂で、感じるものなのかもしれない。私は、天衣無縫の術とは、もっと力強く荘厳なイメージだったが、もっと柔らかなものであったのだ。頭で頭でばかり行動してると、見失うのだ。だが、やはり頭も大切なのだ。笑い会いたいのだ。私の家族に、笑いが絶えなくなったのは、魂のお陰なのだ。みんなが、困難に打ち勝っているからだ。どの人も、支え合っているのだ。普通が一番なのだ。普通でいられることは、とても有り難いのだ。私は、その事を教えてもらった。決めなければ、うまくいくのだ。私は、考えてしまった。考えなくてもいいのだ。それが、家族なのだ。だから、いがみ合ってもいいのだ。どれでもいいのだ。私は、今日も楽しく生きられている。それは、有り難いのだ。ごめんなさい。手伝わなくて。弱核力も、極みまでいけば、面白いのだ。
歩調を合わせるのも、大切なトレーニングなのだ。
家族間の魔がどのように、あるか色々と伝えたいのだが、いかんせん自分も当事者だと、内容を整理するのは、難しいのだ。
わかりやすいラインとしては、誰もが、笑い合えていれば、それでいいのだ
が、どこかで、当事者になりながらも、俯瞰した中継ができる日が来てほしいと思うのだった。焼肉屋でも、色々な楽しみ方があるのだ。

超能力 メリット デメリット

超能力のメリットとデメリットがある。
下記は、めちゃくちゃショボいのだが、一応載せてる。削除したくなるのだが、中級者用~初級者用に。上級者用は、追記で、書くかもしれない。

      • -

デメリットとしては、
①周囲に知れてしまうというのも怖いのだ。自分への悪口や迫害というものが、知れてしまうのも、また頭が痛いものなのだ。
全ての周囲の人の陰口が認識したら、ビクビクしながら、生きないといけないのだ。そのような幻聴の体験をしてる人もいるのだ。→すいません、これはレベルが低い人の見解です。周囲にバレません、バレないように生活できるように何かと導かれています。

私は、目に見えないものを扱っている人に対して、悪いように思われるかもしれないという強烈な思い込みがあった。
これは、やはり良くないのだ。だから、自分が必要な悪口を聞ければいいのだと思ったのだ。
また、魔に対して、「今日朝寝坊しちゃった」「えー、私も」というのは、甘えあいだが、「あ、こういう強い思い込みした」という新しい気付きまで、深められれば、いいのだ。
普通の日常の会話の循環というのも、必要なのだ。
「電車が、人身事故起きちゃった」「行けねーじゃん」というのも、また、気軽に話すのも重要なのだ。
アインシュタインは、ある実験の失敗について、「この方法でうまくいかないことがわかったのだから、この実験は成功です」と言ったという。このように、失敗を考え方と行動で、プラスに変えられるのだ。
②相手の氏名等がわかっても意味ないものだ。昼飯のおかずがわかっても仕方ないものだ

□追記
デメリット面も考慮すると超能力はなくてもいいのだ。
超能力が発現しないと、この世の真理はわからないのかもしれないが、発現してもわからない分野もあるものだ。
論理的に、どうしたら輪廻転生があるのかわかるかと考えたが、なかなかこの難問はとけないものだ。
実際に、霊が移動する事はあるだろうが、霊が歩くか?と言われたらわからないと言えるし、なんともいえないものだ。
デメリットは、後遺症や合併症が出てくる事だろう。
合併症が意外と知られていない。私もこれで苦労したものだ。

sekawara.hatenablog.com


□追記
超能力が発現したら、霊が、乗り移ってくるケースもある。霊の嘆きを聞いたりする事もある。

□追記
事故現場に関して、痕跡を残さないようにする。痕跡を残す人は、本物ではない。一般人には、わからないのだ。派手な動きは必要ない。音もなく、静かにするのだ。
監視カメラに映ってもいいように、後ろで、印を結んだり。パンフレットの中で、したり。ナルトでも、現代社会版が出ると、分かりやすい。

もうちょい書ける日が来ると良い。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。このご縁に感謝です。

究極の実在と神と悪魔 検証の余地

究極の実在は、善悪を超越している。
ただ、これはまだ完全には、俺は悟ってないので、最終結論にはできない、無意識マップなのだ、何でもかんでも、最終結論にすると、やはり信用を失うのだ、。無意識マップを検知して、ああ、ここは進んでないというのは、適切に伝えていく必要がある。

が、人格神と人格悪魔は、魂に扇動させるのだ。ここが違いなのだ。むしろ、人格神と人格悪魔が、協力していると言える。どうやって、この者達に、私達の存在を知ってもらうようにするかというものである。だが、人間には知る必要があるのだ。それは、人間に生まれたから、必然なのだ。色々な方法で知ってもらおうとするのだ。それは、人間のためでもあるのだ。
私は、魔ということは使っているが、悪魔という表現は、あまり好きではないのだ。それは、苦を悪魔と捉えると、頭が痛くなるように作られているのだ。この神というのは、どのような表現になっているか、人というのは違うのだ。
①この世界の全てのものを神と呼んでいるのか、②人間にとって都合が良い動きを神と呼ぶのか、人によって違うのだ。
ここは、だいぶ統一が取れていない箇所なのだ。自分の頭が痛くなるのは、誰もが嫌だが、それがその人のためになってもいるのだ。人間は、頭でっかちだ。私も、とても頭でっかちだ。
だから、色々と、自分を見失うのだ。心がなぜ、大事かというのを、考えるのだ。そうすれば、頭でっかちが解消されるのだ。自分で作った頭でっかちで、自分を苦しめているのだ。魂は、頭にある。頭が頭が頭が魂なのだ。心と、魂は頭で一緒に連動しているのだ。