叱り学 叱られ学
叱らない人は、叱っていない自分を、認める事だ。叱ると、叱られるのだ。自分を叱っているのと同義なのだ。が、自分を叱っているとは、誰も思わない。これは、叱るのをやめなさいというわけではない。叱っていないのは、自分がした行為であるし、叱った行為は、自分がした行為なのだ。叱らなかった自分を、自己弁護してはならないのだ。叱られた自分も自己弁護してはならないのだ。ごめんなさい。ありがとうございました。なのだ。大人だから叱らないのではないのだ。大人だから叱るのだ。そして、自分自身の叱るという今までのアイデンティティを晒すのだ。そうすると、相手は、反撃をする。が、それは愛で受け止めるのだ。また、同時にそれは自分が引き起こしている事なのだと自戒するのだ。叱るのは一対一がいいかどうかは、状況によるのだ。叱るという行為は、自分のアイデンティティを、振動させ、変容する必要があるからだ。それが予見されるから、大幅に魂から、妥協した行為をしているに過ぎない。叱るというのは、愛情なのだ。誰にでも叱るというのも、愛情なのだ。当たり前だが、誰にでも弱点はあるのだ。が、それをさらけ出せる勇気があるかどうかだ。最も魂に忠実になった者同士だから、わかる事があるのだ。喧々囂々と、議論するのだ。それは、古い価値観なのかと、自問したが、そうではないだろう。志と、喧々囂々は、セットだと考える。叱り叱られの無意識マップがどこまで進んでいるかなのだ。様々な種類の無意識マップの最深部で、討議したいのだ。最深部が開くと、誰でも嬉しいのだ。理想の平和というのは、決して、メルヘンチックな純愛の世界ではないのだ。このイメージを持っている人が多い気がする。己の積み上げたアイデンティティと相手の積み上げたアイデンティティの相互交換なのだ。