verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

大自由のアイデンティティ 獲得 ベッキーさんも

大自由のアイデンティティとは、
私は、気付いた。変幻自在の大自由のアイデンティティとは、祖国を離れる事なのだ。海外に住んでいる人をすごいと思う心だ。なぜそんな事をしないといけないのかというと、人間の仕組みは、過去の旧情報に囚われるものなのだ。いや、囚われすぎるものなのだ。新情報をいかに、多くいれようが、ほとんどの旧情報の蓄積に囚われるのだ。
私は、昔の学校で、創ったアイデンティティから離れたかった。が、いかんせん場所が固定されているから、同じアイデンティティの蓄積になっていた。私は、旧交を温めるのも良いと思っている。が、昔のアイデンティティで、相手が見ているのが、気に食わなかった。自分は、かなりのトレーニングを積んで、相手を旧情報で見ないのだ。「○○さんってこんな人」というイメージだ。だが、相手は、そのトレーニングを受けていない。ずっと意識の器を使っている。となると、双方のアイデンティティの認識にGAPが出る。GAPを埋めるには、多くの新情報の提示と、話し合いが必要になる。そうすると、それは、本当に必要な関係でない場合、膨大な無駄になるのだ。だから、旧交を温めるのは悪いことではないが、単なる気休めにしかならないことがほとんどだ。だからこそ、人間は新たな人間関係を構築し続けるのだろう。自分のアイデンティティが変わっているのに、周囲のアイデンティティが変わらないからだ。そして、家族に関しては、少し状況が違う。育ててくれた恩があるのと、今生の課題があるからだ。それを返しきる必要がある。同居している人に関しては、変幻自在のアイデンティティを私は、獲得した。私は、そのために多大な時間を浪費した。ここまでする人は、おそらくいないだろうと思われるぐらいの時間と労力の恩返しだ。が、本人はあまり気付いていない。私が、どれだけ慈愛を込めて、どれだけ無慈悲と葛藤しながら、恩返しをしたか。時間のプレゼントが、最大の恩返しなのだ。時間というのは、命だからだ。が、やはりそこまで、生まれた家の家族に対して、普通の人はする必要がない。パートナーを獲得して、そのパートナーと子供がいる家族に時間を費やせばいいのだ。私は、私を認めた。私は、大自由のアイデンティティで、世界を駆けめぐりたいので、輪廻転生するか、海外の移住にするか、迷っている。大自由のアイデンティティは、やはり、人間の旧態的な認識というのは、分厚いものなのだ。しかしながら、輪廻転生は、どこに転生するかわからないというのがある。望む方向性には行ける。が、詳細は、わからないのだ。となると、サッカー選手の人生がものすごい是が非でもしたい等の、到底不可能な事以外は、転生にかけるのは、リスクなのだ。また、来世での理想の姿を想念体で、現世で、莫大な量を送る必要があるのだ。現世を犠牲にするとも言える。よって、これは却下なのだとわかった。輪廻転生するまでには、いかないのだ。
となると、海外移住なのかもしれない。語学がネックだが、何とかクリアする。が、本当にそれでいいのかわからない。疎遠をうまく利用するのだ。が、祖国を離れた方が、アイデンティティが大自由になるのだ。が、どうしても人種と文化の壁はあるのだ。結局、外人だろうが、人間の構造は変わらないので、ある固定的な見方をするのは、変わらないのだ。自分という存在を確立する努力をし続けるのだ。野球で言えば、メジャーリーガーの新庄さんと、ファイターズの新庄さんは、アメリカ国民が見る新庄さんと、日本人が見る新庄さん像は違うのだ。

自分の見方を蹴る訓練はしこたましてきた。が、相手は、変わらないのだ。それだけ、旧情報に人は、左右されているのだ。だから、死ぬと、顕在意識が、お上に吸収されて、新たに転生する時に、奥深くに封印されるのだ。どれだけ葛藤があった人と、また一緒にいるかというのは、知らずに暢気に、時に和気あいあいと、生きている。ほとんどの人間が、無意識の器を使えていない。だから、意識の器で、今一番必要な認識というより、過去の記憶に翻弄された認識をしている。が、体験していない事を伝えるのは、とても難しいものだ。それを、人はオカルトと呼ぶのだろう。それは、頑固なのだ。私は、オカルト研究家なのだが、探求しているうちに、自分もその「オカルト」体験を経験するので、オカルトと呼べなくなってしまうのだ。それは、素直な裏返しなのだ。たまに会う人が、自分のアイデンティティに最適な見方をされているなら、いいのだが、そうでない場合、その人と関係を維持する必要もないのだ。苦渋の決断もあるのだ。私は、縁切りというのは、死ぬほど痛かった。誰もが、なあなあで、何とか、必死に自分をごまかして、合わせるのだ。相手が、固定的に見る人だと、いつのまにか自分も固定的に見てしまうように、一緒にいると固定されてしまうのだ。が、やはり無意識の器を使える人同士でないと、尊厳的な発展性がないのだ。本当は、私のように、誰もが大自由のアイデンティティを獲得したいのだ。が、過去の習慣上で動くので、なかなか難しいのと、またアイデンティティが引き戻されるのだ。だから、私は、過去の人と、あまり連絡を取らない。本当に必要な時にしか取らないのだ。新しい人間関係を作り続けるのだ。自分も変わっていて、相手も変わっていても、過去の記憶層に囚われるのは、嫌なのだ。相手が、無意識の器を使えるなら、喜んで、何度でも会いに行くのだが、残念となるのだ。だから、人間は、新しい人間関係を構築し続けるのが、いいのだろう。勿論、古くからの友人でも、どちらも意識の器でも、新しくしようという関係性なら、期待が持てるのだ。が、なかなかそれは難しいのだ。そして、古いアイデンティティの中で、ぐるぐると回り続けて、無意識マップの完成まで、ほど遠くなるのだ。ちなみに、私は、無意識マップが完成したのだ。が、それにはとても時間がかかった。が、謙遜のために、ある一定の無意識マップは完成したが、まだ新しい無意識マップがあるとしている。宇宙は、時間と共に膨張しているので、先があるのだ。が、そればかり考えると、話が宙ぶらりんになるので、ある一定の無意識マップ、つまり一定の神人合一なのだ。私も、神人合一しているとはいえ、もっと色んな事ができると思っているからだ。ただ、私は、どの人も今の私ぐらいの神人合一状態で、十分なのだ。とても有り難いのだ。というより、そこまでいくのにどれほど葛藤があったかと思うと、世間一般の人を見ていると、人生の50代で、この状態までいければいいのだ。が、どの人も自分で、作ったアイデンティティの反対側を取れないので、神人合一までは、とても難しいのだ。正直生意気と言われるので、あまり言いたくないし、気が引けるのだ。が、年齢ではないという面もあるのだ。だから、何事もお上さんから言って欲しいのだ。だから、私は、あまり個人に対しては、言わないように心掛けている。例えに出すだけだ。年齢が上がるのを待ちながら、不断の努力をしていく。年齢的な区分けという日本社会とは、そういうものだ。いや、他の社会でも変わらない。ある本質的イメージを、有吉さんのように言うと、生意気と言われるのだ。無意識イメージの言語化は、リスキーなのだ。芸人だから、笑いに変える表現をしているのだ。オール阪神さんを見て、「なんや偉そうやな」と思う気持ちだ。直言的に言っても、抵抗感が出てしまう。だから、間接的なネットというのは、よく反映されている。
2チャンネルの掲示板に書かれている事を整理整頓すると、わかるだろう。
余談だが、書かれた本人に関して言えば、何か問題があっても、結局過去のスレッドになって、世間が見るのが、大変になるので、結局埋もれるようになっているので、悪口でノイローゼにならないように、気にしすぎないことだ。事件も風化されるのだ。当事者としては、うまく処理すれば、過去の事なのだ。
それにしても、人間は、過去の記憶層で動いている。だから、ベッキーさんが、ずっと清純派的に売ってきたので、テレビを見ている人は、過去の記憶層からの反発とも言える。ベッキーさん自体は、ものすごい速度で変わっているのに、やはりイメージ商売のツケなのだろう。これが、杉本彩さんだったら、見方が変わるだろう。やはり○×をつけたがるマスメディアと人の記憶層なのだ。事務所も、ベッキーさん自体の売り方を途中から、変更すれば良かったのだが、前例踏襲で、なかなか難しかったのだろう。何か問題が世間的に発生してから、大幅に変えるという手があるのだ。途中から、腹グロキャラ的に売れば、あの騒動までにはならなかっただろう。どの人も、腹黒キャラを持っているのだ。が、本来のベッキーさんと、演技しているベッキーさんの、ズレがある臨界点までいくと、このような騒動までいくのだ。とまあ、こんな話をしているが、そんなうまく舵取りできないのが、芸能界だ。受け入れるしかないのだ。認知されるリスクもあるのだ。問題の分析をすると、だいたいの背景がわかるものだ。そして、どの視点も間違っているわけではない。とはいえ、「この○○さんは、こう」という切り口も、例えで出しているだけで、本来の心は違うのだ。そんな単純でないのだ。
とまあ長く書いたのだが、結局伝えたいことを要約すると、
①人間は、過去の記憶層に囚われすぎて、お互いにがんじがらめになっている。それは、脳科学的にもそうなのだ。これから、脱却できると、大自由になれる。
②一定の神人合一まで行きましょう。そうすれば、一定の理想的平和な世界になります。
③変幻自在のアイデンティティを獲得しましょう。そうすれば、みんなでより、良い社会になります。
と平たく言えば、こういう事なのだ。

この記事を書いて私が気付いた事は、①輪廻転生にかけるのは、例外的で、私なりの希望に即したイメージと照らして、現実的なメリット・デメリットも考慮すると、、今回の私のケースは、該当しない。諦めかけていて、ごめんなさい。やはり、大きな事を為し得たいという深層意識が発覚した。「大きな事」を為し得る、デメリットの分析と、そこの詳細がわかってない。「大きな事」というのも、いまいち、わかっていない。「大きな事」は、現行の教育体制を覆して、理想的な体制に移行させる事だ。が、正直どこまで変えきるかは、わからない。ただ、恐らくは、大学までの公教育と社会人教育の範囲だろう。人々の認識観が変わらないと難しいだろう。このような認識観というのは、時代の変動と共に変わるものだ。それまでに、準備を万端にしていく必要があるのだ。この準備というのもどういうものまですればいいかだ。タカ派的にいくか、穏健派としていくかにまだ迷いがある。目に見えない世界も考慮すると、どうするか迷うのだ。論理とイメージの統合性が取れないと、難しいのだ。誰もが、拒否反応を起こす。となると、ジワジワ攻めるしかない。究極の司法分析官なのか、バリバリの現場監督官なのかだ。この辺りが、まだ決めかねている。わかりやすく例えれば、橋下元府知事か、神的視点のコラムニストなのかだ。教育界の風雲児と言われる状態だ。

○○という情報を入れると、どうしても人は○○という話をしたくなるのだ。つまり、情報化社会は、情報の奴隷になっているのだ。情報伝達の奴隷とも言える。ポンと浮かんだ事を話すとスッキリするのだが、浮かんだことを話せないと、フラストレーションが溜まるのだ。本当に自分を幸せにする情報が、入ってこないのだ。勿論、本当に重要な情報も主観と言えば、主観なのだし、仕事上必要な情報というのはある。その人にとって、理想的な状態というのはあるのだ。スキルマスターでないと、本質は掴めないというわけではないのだ。思考の足跡を残すと、他の人も追随できるのだ。だから、まとめた本というのだけではなくて、この膨大な思考変遷も、記事にしているのだ。どれだけの膨大な量をしたかなかなか人はわからないからだ。私もなかなかある本が、賦に落とせないので、苦労したものだし、内容の良さもわからないものなのだ。が、今では、内容の濃さがよくわかる。やはり、興味を持って追求しないと、わからないのだ。聖書だって、仏典だって、興味を持って、追求しないと、尊厳さがわからないのだ。信じるか信じないかだ。