verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

「これやったあとで」という魔

「これやった後で」という魔がある。が、たいてい後回しにしているのだけなのだ。決意が足りないだけなのだ。
私は、Facebookが嫌いなのだ。なんかアピールしてる感が嫌いなのだ。snsで友達を増やす行為が嫌いなのだ。この魔に大抵負け続けている。何か、自分というものを、規定されるのが嫌なのだ。「こういう人だ」と思われたくないのだ。とかく嫌なのだ。いつも、謝るのだった。だが、許してくれないのだった。困ったものだ。ただ、そういう自分も認めてあげる事だ
また、私は、何か強いストレスを感じると、食べ物に当たる魔に負ける。またかまたかまたかまたか。
真正面から、向き合わないという魔にも、いつからか負けるようになった。甘えてしまっている。沢山甘えている。ああ、何と弱い男か、、、。甘えると、後でツケが回る。
「まあいいかなー」という魔もある。良くないのだ。たいてい相手は、怒っているのだ。ただ、甘えているだけなのだ。魂は存じているのだ。
そして、Facebookを楽しむ自分もまた、いるのであった。ああ、私は誤解をしていた。やはり、普通に殆どの人は、周囲の人は、意識の器を使っているのだ。無意識の器の人は、何事も、自分のために好解釈しているのだった。意識の器の人が、普通にしているのを、最高の解釈に変えているだけだった事に気が付かされた。意識の器の人は、私の表現していることを、普通に解釈しているだけだった。無意識の器同士、悟りに近い人同士で話せば、どちらも、最高解釈で、より物事が進むのだった。この事に、昨日やっと気付かされた。