「これやった後で」という魔がある。が、たいてい後回しにしているのだけなのだ。決意が足りないだけなのだ。
私は、Facebookが嫌いなのだ。なんかアピールしてる感が嫌いなのだ。snsで友達を増やす行為が嫌いなのだ。この魔に大抵負け続けている。何か、自分というものを、規定されるのが嫌なのだ。「こういう人だ」と思われたくないのだ。とかく嫌なのだ。いつも、謝るのだった。だが、許してくれないのだった。困ったものだ。ただ、そういう自分も認めてあげる事だ。
また、私は、何か強いストレスを感じると、食べ物に当たる魔に負ける。またかまたかまたかまたか。
真正面から、向き合わないという魔にも、いつからか負けるようになった。甘えてしまっている。沢山甘えている。ああ、何と弱い男か、、、。甘えると、後でツケが回る。
「まあいいかなー」という魔もある。良くないのだ。たいてい相手は、怒っているのだ。ただ、甘えているだけなのだ。魂は存じているのだ。
そして、Facebookを楽しむ自分もまた、いるのであった。ああ、私は誤解をしていた。やはり、普通に殆どの人は、周囲の人は、意識の器を使っているのだ。無意識の器の人は、何事も、自分のために好解釈しているのだった。意識の器の人が、普通にしているのを、最高の解釈に変えているだけだった事に気が付かされた。意識の器の人は、私の表現していることを、普通に解釈しているだけだった。無意識の器同士、悟りに近い人同士で話せば、どちらも、最高解釈で、より物事が進むのだった。この事に、昨日やっと気付かされた。