verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

人生 最低限

人生には、最低限何か一つ負荷をかけ続けることをする必要がある。
そういう風にできている。そこで、私は、ゲームをしない。漫画を見ない。テレビを見ない。食べ物を食べない、、、。ったものをする時期もあった。

成功者というのは、自分が見せたい自分像の魔に、魔を当てはめるのに、長けているのだ。
精神科医や神は、その事に気付いている。
分かりやすく言えば、努力という魔だ。魔を努力というものに、当てはめて、他の魔を誤魔化すのだ。
内心は、本人がわかっている。が、他人には、うまくカモフラージュしているのだ。
内心ビクビクしていても、怒鳴り散らす人もそうだろう。権力欲にまみれても、権威を持っている自分で、他の事はおざなりというのは、多々あるのだ。
私は、悪夢に魔を転換させたが、それでは、あまり意味がないことに気が付いた。要は、自分だけが見ているからだ。いや、他の人も見ている夢もあるが、思い出せないという説もある。
というより、あまり意味がないのだ。「なぜ、悪夢を見るのだろうか」という視点と調査が大切なのだ。「どんな悪夢を見ているのだろうか」というものだ。私は、内心を表しているが、気が付いてもらえないのだ。その事は、言えるだろう。

心は、どのくらい持つのか。精神は、どのくらい持つのか。肉体は、どのくらい持つのか。が、私は、気になっている。 心の病というのは、食べ物で直せないのだ。相手の精神の状況なんて、知ったことじゃないのだ。相手の精神を追い詰めている事に、気が付かない。私は、精神を病んでも、母は気付かないと、悟った。
次の手を、神と相談しなければならない。
愛する人が、どんな気持ちで、何を訴えていたのか。私には、よくわかる。働かざる者、食うべからずなのだ。
肉体に変化が必要かもしれない。
いくら叱ってもわからないのだ。ただ、この叱り役は、続けていきたい。
「食べてるから、安心だ」「寝てるから安心だ」ではないのだ。放置した罪は重い。放置された罪も重い。
怒りのやりあいでは、気付かないのだろうと、両親を見て思った。精神を病んでも、気付かないのだ。自分は、悪くないと思い続けている。
「いったい頑張っている私のどこが悪いのか」と。
やはり、バイブルというものは、大切なのだ。
共同体には、何かしかの共通認識や共通理解や共通の基盤が必要なのだろう。
これを、宗教にするものもいるだろう。
ユダヤ教徒は、家族や民族ではまとまっているように思えるが、他の民族に対する敬意が薄い。逆に、日本では、家族や民族のまとまりが薄く、他の民族への敬意が篤いように思える。
なかなか人は、自分の思い込みをなくせない。悪い状況を作っているのは、自分自身だと思わない。
共同体というのは、意識層の集合体なのだ。良くするのも悪くするのも、自分達次第なのだ。
私は、「魂、魂」と書いているが、これだと断定できる説というのはないのだ。これが、正直なところだ。こういうのを言わない宗教家は多い。
盲目と言ってもいいだろうが、自由なものである。断定して言った方が、周囲に「キマる」のだ。また、自分の頭を洗脳すれば、もはや、言いたい放題なのだ。インスピレーションとの合致というのもある。
その説に見合うように、言説を持ってくれば良いのだ。これは、論文と似ているプロセスだろう。誰も本当のところは、わからないのだ。ただ、そんなこと言うと、途端に訴求力がなくなるので、オフレコなのだ。分厚い理論武装をした書籍の、盲点というのは、あるのだ。それに気付かないか、気付くかなのだ。
私は、無用な事に時間を使ったのかはわからない。
極論すれば、どの人も自分自身を信じたいだけなのだ。私は、自分自身を信じたい。また、周囲の人も信じたい。
魂は、こういう形をしていて、というのはわからないというのは、わかるのだ。生きていると、確信が深まるというものなのだ。
というより、別次元のものを、断定的に、書くことに、恐さを感じるのだ。一霊四魂説も、そうだろう。
調べると、だいたいの、共通的な概念というのが重なるだけなのだ。
そうすると、表現が違うだけで、だいたい同じことを言っている
のだ。
表現しても良い自分もいてもいい。
宗教学者も、そうだろう。
宗教信仰の自由というのは、あるのだ。
要は、魂の形というのは、あまり人生の浮き沈みに、関係ないのだ。
必ず最期に信じるというプロセスが入る事は、私にはわかる。

目に見えないことを考えることで、悟りが深まるのは事実なのだ。悟りというのは、目に見えないものだからだ。感じるものである。