人生 最低限

人生には、最低限何か一つ負荷をかけ続けることをする必要がある。
そういう風にできている。そこで、私は、ゲームをしない。漫画を見ない。テレビを見ない。食べ物を食べない、、、。ったものをする時期もあった。

成功者というのは、自分が見せたい自分像の魔に、魔を当てはめるのに、長けているのだ。
精神科医や神は、その事に気付いている。
分かりやすく言えば、努力という魔だ。魔を努力というものに、当てはめて、他の魔を誤魔化すのだ。
内心は、本人がわかっている。が、他人には、うまくカモフラージュしているのだ。
内心ビクビクしていても、怒鳴り散らす人もそうだろう。権力欲にまみれても、権威を持っている自分で、他の事はおざなりというのは、多々あるのだ。
私は、悪夢に魔を転換させたが、それでは、あまり意味がないことに気が付いた。要は、自分だけが見ているからだ。いや、他の人も見ている夢もあるが、思い出せないという説もある。
というより、あまり意味がないのだ。「なぜ、悪夢を見るのだろうか」という視点と調査が大切なのだ。「どんな悪夢を見ているのだろうか」というものだ。私は、内心を表しているが、気が付いてもらえないのだ。その事は、言えるだろう。

心は、どのくらい持つのか。精神は、どのくらい持つのか。肉体は、どのくらい持つのか。が、私は、気になっている。 心の病というのは、食べ物で直せないのだ。相手の精神の状況なんて、知ったことじゃないのだ。相手の精神を追い詰めている事に、気が付かない。私は、精神を病んでも、母は気付かないと、悟った。
次の手を、神と相談しなければならない。
愛する人が、どんな気持ちで、何を訴えていたのか。私には、よくわかる。働かざる者、食うべからずなのだ。
肉体に変化が必要かもしれない。
いくら叱ってもわからないのだ。ただ、この叱り役は、続けていきたい。
「食べてるから、安心だ」「寝てるから安心だ」ではないのだ。放置した罪は重い。放置された罪も重い。
怒りのやりあいでは、気付かないのだろうと、両親を見て思った。精神を病んでも、気付かないのだ。自分は、悪くないと思い続けている。
「いったい頑張っている私のどこが悪いのか」と。
やはり、バイブルというものは、大切なのだ。
共同体には、何かしかの共通認識や共通理解や共通の基盤が必要なのだろう。
これを、宗教にするものもいるだろう。
ユダヤ教徒は、家族や民族ではまとまっているように思えるが、他の民族に対する敬意が薄い。逆に、日本では、家族や民族のまとまりが薄く、他の民族への敬意が篤いように思える。
なかなか人は、自分の思い込みをなくせない。悪い状況を作っているのは、自分自身だと思わない。
共同体というのは、意識層の集合体なのだ。良くするのも悪くするのも、自分達次第なのだ。
私は、「魂、魂」と書いているが、これだと断定できる説というのはないのだ。これが、正直なところだ。こういうのを言わない宗教家は多い。
盲目と言ってもいいだろうが、自由なものである。断定して言った方が、周囲に「キマる」のだ。また、自分の頭を洗脳すれば、もはや、言いたい放題なのだ。インスピレーションとの合致というのもある。
その説に見合うように、言説を持ってくれば良いのだ。これは、論文と似ているプロセスだろう。誰も本当のところは、わからないのだ。ただ、そんなこと言うと、途端に訴求力がなくなるので、オフレコなのだ。分厚い理論武装をした書籍の、盲点というのは、あるのだ。それに気付かないか、気付くかなのだ。
私は、無用な事に時間を使ったのかはわからない。
極論すれば、どの人も自分自身を信じたいだけなのだ。私は、自分自身を信じたい。また、周囲の人も信じたい。
魂は、こういう形をしていて、というのはわからないというのは、わかるのだ。生きていると、確信が深まるというものなのだ。
というより、別次元のものを、断定的に、書くことに、恐さを感じるのだ。一霊四魂説も、そうだろう。
調べると、だいたいの、共通的な概念というのが重なるだけなのだ。
そうすると、表現が違うだけで、だいたい同じことを言っている
のだ。
表現しても良い自分もいてもいい。
宗教学者も、そうだろう。
宗教信仰の自由というのは、あるのだ。
要は、魂の形というのは、あまり人生の浮き沈みに、関係ないのだ。
必ず最期に信じるというプロセスが入る事は、私にはわかる。

目に見えないことを考えることで、悟りが深まるのは事実なのだ。悟りというのは、目に見えないものだからだ。感じるものである。