verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

教育内容 あらゆる魔との戦い 教育に必要な観点

教育に必要な観点
人間教育には、どのような観点が必要だろうか。「教育改革!教育改革!」と言われる昨今である。
私が、ずっと求めていた事と、教育に必要な観点は、一致するだろう。
まず最優先の疑問点がある。
①教育の方向性
どこに向かって、教育するのか?
というものである。
向かう方向性が違うと、バラバラな見解になりやすい。これは私もかなりてこづっている。
肉体以外の体で言えば、肉体以外の体が、ある一定の境地まで行く事なのだ。が、肉体以外の体があるとは、知らない人もいる。では、肉体で表現しろと言われても、無理なのだ。
これを神道で言えば、神人合一。佛教で言えば、空の境地。キリスト教で言えば、主と繋がる。禅定で言えば、無我の境地である。が、これでは、科学信奉の人には、通じない。そうすると、この目に見えない、ジャッジメントがしづらい世界をどのように表すかが、頭を抱える所である。
科学的な方面で、どのように表せばいいのだろうか。何かが説明できるというのは、ある物事を悟っているからである。
例えば、微分積分とは、「つまり○○と」言えれば、その物事は、悟っているという事である。悟っていない人は、要約ができないのだ。この境地を、あれを説明できるならば、悟っているという一点がまだ見つかっていないのだ。
人間の体が、宗教信仰によって、変わる事はないからだ。同じ動作をすれば、同じ結果になるのだ。例えば、「原因と結果の法則というのは、○○だと」伝えられるかどうかというものだ。平たく言えば、神人合一とは、「○○」と説明できるかなのだ。全くその手の知識を知らずに神人合一になるかというとならないのだ。やはり、「神人合一とは○○」と説明できる人なのだ。それを説明出来る人を増やす事なのだ。が、まだまだ科学的信奉者はわからないのは仕方ない。が、この説明ができるかが鍵なのだ。また、我々は、この神人合一を、「無意識マップの完成」と呼んでいる。この説明は、別の機会に譲ろう。
また、別の観点で言えば、」なのである。究極の実在への教育というものもあるのではないだろうか。
②教育内容
理想的な日常生活を為し得るための教育だ。
つまり、日常生活の微差の研究と、実践なのだ。ただ、これは膨大な量があるので、全ては伝えきれない。なので、抜粋にならざるを得ないのだ。気付きの膨大な量に対して、出来る限り壮大な量の、可視化できる限界まで纏めたのが、別表の「教育総体系シート」だ。これは、数万に及ぶものだ。が、それだけではわかりづらいので、更に要約した一覧表がある。「教育要項シート」だ。
教育要項シート
1・あらゆる魔の詳細
2・感謝と日常生活の動作
3・大自由の心とアイデンティティ4・純粋フラットと視点転移(どう物事を認識するか)、体の三重性5・魂体の無意識マップの完成形6・あるヒトツの宇宙原理の内外反転(究極の実在)の理解と活用
7・

項目
1・インスピレーションの魔に勝つ事。「今朝こんな魔があったーー」というのが、日常会話になる日が来て欲しい。完成形じゃないと出せないという魔もある。

2・日常生活で、感謝状態の人は、どんな動作をしているか
3・どんな大自由な心で、どんなアイデンティティを獲得しているか
4・視点転移を繰り返し、心の中心の中心から無意識イメージを引っ張る事。
人間の体には、肉体の他に、魂体と霊体の三重性があるのだ。霊体とは、これ以上細かくできないもので、オリジナルスピリッツと呼ぼう。無意識の器の使い方。
5・目に見えない魂体の無意識マップの完成とはどのような事か。
6・この世界の全てを貫くあるヒトツの原理(究極の実在)とは何か。また、その活用とは(なぜ感謝状態が必要なのか)
6ー1宇宙のヒトツの原動(内外反転)により、プラスとマイナスの対になるものが発生し続けるのだが、その内外反転に沿って、忠実に動くことで、魂体的無意識マップと霊体的無意識マップにGAPが生じないので、幸せな状態をキープし続けられるのだ。
そうしないと、魂体的無意識マップと霊体的無意識マップのGAPが生まれ、それを解消するために、四苦八苦が生まれるのだ。最新科学の宇宙の構成から考えてみよう。
7・

追記
教育で、たとえ究極の実在を見れても、四苦八苦は続く。確かに、魔に負けなくなるのはあるだろう。これをどう見るかだ。 
 
 
 
 

差し出すもの 総理大臣になるには トレードの法則

差し出せるモノを差し出す。
この世は、トレードの法則なのだ。
よって、何を差し出すか、なのだ。
①家や財産を差し出す。
②自分のやりたいことを捨てる
③友人と恋人関係の縁を差し出す。
④自分の大切なものを差し出す。
⑤命を差し出す。
⑥自分の時間
⑦自分の意識や体
差し出した量が多ければ、多いほど得るものも多い。差し出したものも、必要なものだけは、最低限手に入るようになっている。耐える事なのだ。大きな事をしたければ、差し出すモノを増やすのだ。それしかないのだ。何でも手に入れようとするから、平均的になってしまうのだ。総理大臣になりたいなら、ずっと総理大臣になる行動をし続ければいいのだ。他は、一切諦める事だ。それだけ熾烈な戦いなのだ。ただ、総理大臣になるメリットは、その分、政治を理解している人は、それだけの世界でもある。日本は、平均首相在任期間が、昭和以降は、2年2ヶ月のようだ。私は、一時首相になりたいと思ったが、それは、単純に世界が良くなってほしいから、権力機構の人に良くなってほしいだけだったのだ。また、単純に、自己イメージの最大化をしたかっただけなのだ。だから、自己イメージの最大化ができれば、何でもいいのだ。最大化の後は、適当にどの人もやるのだ。「私が総理大臣になったら、」というテレビ番組があったが、それでいいのだ。現実の政治とは、違うのだ。どの人も、一度、もし自分が総理大臣だったら、という仮説質問を立てる事が大切なのだ。その事で、問題意識も変わってくるのだ。「40年間総理大臣になる行動と思考ができる人しか、総理大臣にはなれないのだ。それが貴方にできますか?」私は、できません。と正直に言う。ただ、発想法をする事は、大切なのだ。これが、民度を上げる最適なものなのだ。自然と落ち着くのだ。当事者意識を持つという事にも繋がるのだ。
「私が総理大臣になったら」
①逆説的諮問機関を作成します。裁判所とは違う観点を取り入れた機関です。物事を常識とは逆の面から考察した機関です。が、法的拘束力はいりません。単純に公に発表するだけです。裁判所が、従来通り、判決効力を有します。裁判事例は、とても慎重に考えられていますが、どうしても抜けがあるからです。これは、現在では仕方ありません。取り立てていえば、エネルギーの観点と、カルマの解消の観点です。過去の大戦争により、今の自分達があるという事です。
 
 
□追記
寒い地方で、服が十分に着れない人は、寒いだろうなと思いを馳せる。なんなら、自分も寒くなってみる。人に法則を教えると、その人の好感度もあがる。

未来の新しい融合問題

新しい国語の融合問題
覚える事が重要ではなく、活用する事が重要なのだ。既存学習事項と、日常生活、そして先端事例、宇宙のヒトツの動きと、四角形的スパイラル学習が、誰にでも必要なのだ。
ことわざで、「油断大敵」というがある。油断大敵の意味を知る。
明鏡国語辞典MXには、ゆだんたいてき【油断大敵】
[名]
油断は失敗を招くもとであるから、何よりもおそろしい敵である。
意味の理解だけでは、弱い。
その言葉の意味を考えて、自分の日常生活で、「油断した場面」と「油断を回避した場面」を記述しなさい。
アスリートのイチロー選手は、イチローの流儀という著書で、「一日の反省はグラブを磨きながら。昨日試合後に何を食べたか、よく眠れたのか、ということから、実際にゲームが終わるまでに起こったすべてのことをよく振り返って考えてみる」という油断しないような取り組みを日常生活でしている。イチロー選手は、先端事例としての紹介である。
宇宙のヒトツの動きとのリンクは、ここでは置いておこう。このような一連の流れを講義中に学習するのだ。
それをグループで相互意見交換と、先生役からの質疑をするのだ。オックスフォード大学のゼミから、内容の高度さを取り除き、中等教育に活用するためのものだ。この諺というのは、なんでもいいのだ。
意味を知るというインプットは、中等教育から、変えていく必要があるのだ。問題形式を変えていけば、教育は変わるのだ。意味のインプットに関して、家庭での学習を増やし、授業は、意見交換に当てるのだ。今でも、このような取り組みは十分とは言えない。が、入試問題を、日常生活に活かした形式に変えれば、それで事が足りるのだ。負荷を漸次的に変えて、稚拙から技巧に変化していくのだ。
 

循環が回っていると、気持ちが良くなる。が、それだけではないのだ。感謝を忘れている事に自分で、気付く事なのだ。私も、ついつい、万物への感謝を忘れた状態で、油断をしてしまうのだ。それは、金銭的なプレッシャーと引き替えに、しっかりとやるべきものなのだ。ついつい目の前の、粗末な人間勝手な考えに染まってしまうのだ。これが良くないのだ。ある意味、スポーツ選手よりも厳しい。それは、スポーツ選手は、試合があるので、試合中に肌の感覚で、油断がわかるからだ。が、一般の人は、自分が油断しているという事も忘れてしまいがちだ。ただ、誰もその甘さを指摘してくれる人はいないのだ。それが、自立した人間というものだ。なので、感謝学という学問がしっかり普及してくれる事を祈りたい。自らを律するのだ。ごめんなさい。ありがとう。なのだ。つまり、人間は、自律し続ける生き物なのだ。私は、大量破壊兵器のように、大量に油断してしまい、結界が崩壊してしまった。これは、余りにもムゴかったのだ。が、きちんとペースを守る事で、変わってくるのだ。人間の無意識マップを広げるには、自律させながらも、横道にコースチェンジさせるように、仕掛けるのが得策なのだ。それは、人生の転機というものでもある。感謝状態からの異様な変化に気付くと、物事がまたスムーズに行くのだ。何かを持ち続ける事が、どれほど怖いか、貴方はまだ知らないのだろう。人間には、触れると恐ろしい世界があるのだ。そう、パンドラの箱だ。開けてしまってからでは、遅いのだ。人間は、やはり檻の中にいた方が、気楽なのだ。後で、謝っても、後の祭りなのだ。やはり、知的好奇心と勇気で、開けていけないものがあるのだ。開けると、この世界の真相が肌身でわかるが、とても怖い世界なのだ。ごめんなさい。ありがとう。人間には、普通の恐怖が必要なのだ。どれほど、この肉体がある事で、気楽な世界を生きているかは、あなたはわからないだろう。どの人も、地獄には行かないように気をつけることだ。どんなに虚勢を張っても、そこには立ち寄ってはいけないのだ。開けてはいけない箱があるのだ。どんなに怖いとされるホラー映画よりも、怖いのだ。ホラー映画は、とても有り難いのだ。その主人公に視点転移するのは大切なのだ。人間が考えているより、もっと真相は怖いものだからだ。が、無知な私は、その怖さに気付かないのであった。
 
追記
数学は、四種類ぐらいのポイントを押さえると、解答まで辿り着く。暗記教科とも言える側面がある。

なぜ審神者が必要なのか?

なぜ崔神が必要なのか
それは、霊媒というのは、無意識の器を使うために、顕在意識を極力使わずに、その思考のチャネルを、最下層に合わせ続ける必要があるのだ。そのために、崔神というのが必要になるのだ。意識の器を使うと、チャネリングゾーンが上昇するのだ。それで、神経を使って、その声に合わせ続ける事が難しくなるのだ。この点で、分業性なのだと気づかされた。勿論、霊媒も一定量の顕在意識を使って、行動する必要もあるのだが、それを極力減らすことで、無駄な動作が減るのだ。なかなか人は、この分業が難しいのだ。崔神は、信用者なのだ。周りの人が、あの人ほど科学的に知識的に論理的に考える人が、信じているという事は、その声は、神の言葉に違いないというものだ。要は、その人の個人の顕在意識でモノを言っているのか、神の言葉の伝達で言っているのか、表現度合いは、どれぐらいかを、何の欲に負けているのかというのを冷静にシビアに見る役目なのだ。それは、確かに顕在意識でやらなければ難しいのだ。勿論、崔神役も、潜在意識を使うようにする事は、大切だ。それは、お互いのためなのだ。が、周囲の人に、しっかりと霊媒役の声を臣事させる物理的な手段を考え実行するのが大切なのだ。これには、多くの知識が必要なのだ。このセットは、自分達のタメなのだ。霊媒が未熟だと、自分の声と、神の声のゾーンを間違える事があるからだ。また、神の声というのは、インスピレーションなのだ。言葉で教えてくれる事と、無意識イメージで伝えてくれる事があるのだ。この辺りを絶妙に的確に捉えるのが、崔神の役目なんどあ。チャネリングのゾーンが違うと、ぜんぜん違う声にひっかかってしまうのだ。「あれ?それは、神の声か?」と疑う事も必要なのだ。人は、時として、道を誤るからだ。霊媒が、常時、そのチャネルに合わせる為には、できる限り一緒にいる事が必要なのだ。が、霊媒も勿論、時たまは、自分の顕在意識を使う循環が必要なのだ。ただ、顕在意識を使いすぎると、霊媒能力が格段に落ちるのだ。そうすると、本末転倒になってしまうのおだ。ただ、実はこのお互いのトレーニングは、結構時間と労力がかかるのだ。たとえ、過去生で修行三昧の人も、復活させるのに、とてもシビアな純粋フラットのトレーニングが必要なのだ。それは、やはり現代で、情報を沢山入れすぎているということもいえる。もっとできるのだ。ただ、現代社会では、霊能力だけでは、太刀打ちできないのだ。それでは、ある一定の人達にしか、神の声を伝えられないのだ。なので、実社会のキャリアを積みながら、徐々に思い出していくのがいいのだ。神の声に合わせ続けるのも、かなり集中が必要なのだ。
 

神と人との境界線の微差

不倫のメカニズム、疑似ロープレ、現代の五種の神器、神と人の境界線、心人合一の人の葛藤、という記事だ。
人間には、カルマが現象界に発生する。苦の葛藤の中で、どれだけ純粋意識を積めるか。擁護するわけではないが、発生する前と後では、取り組む方が変わるのだ。発生する前は、発生させたくなければ、発生するカルマを積まないようにすれば、発生しない。仮に、発生した後は、そこでどれだけ苦の葛藤をしながら、純粋意識を積み上げられるかにかかっている。私も、他の女性を好きになった事があるが、何とか少しでもより純粋にできないかと、葛藤したものだ。ただ、それにより、他の事が疎かになってしまったのだ。勿論、そのように意識していると、自体は以前よりも、悪くならないのだ。が、そしてまた同じようにカルマを積むと、同じような事が起こるようになっているのだ。苦の葛藤と楽の「恋慕的振動」は、どちらも無意識マップに応じて、必要なのだ。俗世間を一度離れて、意識を高く持つと、必要な視点に気付きやすいのだ。不倫が発生するカルマが、日常生活の点検でわかるのだ。性エネルギーに関する、微差があるのだ。また、他のカルマが巡って、発生主要因になっている。ただ、確かに、カオス的に様々な葛藤をするのは、人生の醍醐味ではある。私は、それを否定したくはない。ただ、それで苦しむのも辛いとも言えるのだ。そして、カオス的体験の連続により、無意識マップがほとんど出来上がった人には、該当箇所を疑似ロープレすれば埋まるのだ。また、無意識マップというのは、心でヒントを捉える事ができるようになっているのだ。これは例えば、自分の進路に悩んでいる時に、貴方は、裁判官と大学教授どちらかと言えばどちらがいいかと聞かれた時に、「裁判官は、ちょっとな。でもうーん。大学教授も、うーん。少しうーん。」という風に何となくわかるようになっているのだ。それは、俯瞰的に過去と現在と未来の一部を見た場合に、どうすればいいか何となくわかるようになっているのだ。私は、裁判官と大学教授であれば、大学教授の方が整合性が若干高いのだ。これは、できるだけ心の中心の中心からイメージを引っ張る訓練をし続けると、わかるものなのだ。勿論、それは100%ではないが、それだけ高い確率で、自分の人生を幸せにしてくれるようになっているのだ。これは、普段の日常会話でも同じような事が起きているのだ。ただ、人間は、思いこみと記憶層と、固定観念と想念体があるので、なかなか判断がつかないのだ。神はそのすべてを見れるので、ほぼほぼの方向性を示す事はできるのだ。が、それもその人の人格次第なのだ。この動作というのは、本音で語った量が多い方が進むというものがあるのだ。なので、あまり友達に関しては、そこまで気を使う事も実はないのだ。私は、結構気にしいだった。まあそのおかげで、冷静に研究する事ができたのだ。私は、その事に気付いてから、できるだけ単刀直入に言うようにしていた。その心掛けは大切だ。だが、時として、本音はあらぬ方向に進むのだ。それは、人間の思いこみが激しいからなのだ。これを純粋フラットを心掛けるだけで、変わってくるモノなのだ。この原理に多くの人が気付いてくれる日を待ちわびている。自分達で、どうにかするのも人間に与えられた試練なのだ。やはり、神は半分程度は助けてくれるものだが、後の半分は、人間同士でやるという決まりなのだ。この辺りも純粋フラットなのだ。ただ、この半分というのは、人間勝手な思いこみではないが、深い真相を知る人にとっては、やはり半分なのだ。この辺りも、誤解されると困る所なのだ。なんとも言えない絶妙なインスピレーションがあるのだ。言葉では、やはり一〇〇%正確には表現できないが、言葉で伝えるしか人間には無理なのだ。なので、できるだけ良い意味で理解してほしいところだ。心は真相を知っているのだ。その精度をあげていって欲しい。私は、あまりにも完璧に因果応報というものができていて、とても複雑な気持ちになったものだ。少し怖く、少しうれしく、少し面白く、少し悲しく、、、のような気持ちだ。あまりにも、純粋であったからだ。それでどのようになっているか知りたくなったからだ。だが、それも自分で選んだことなのだ。
なので、できる限り今から幸せになる行動を続けるようにしたいのだ。私は、人の特技に関して、どうすればその人が幸せになるかと考えてきたのだ。ただ、どうしても多前提的に様々な視点を考える癖ができたので、神のようにとても冷静に思考するのだった。それで疲れてしまうのだ。
人間は、一部分しか見れないように作ったのは、そういう意味でもあるのだ。人間には、知られざる秘密があるのだ。俺は、まだ全貌を理解するには時間がかかりそうだ。ただ、一部分しか見れない方が、肉体同士で争う事が、後々なくなるからだ。肉体というのを使いこなすには、それなりの修練が必要なのだ。それも人間の楽しみでもあるのだ。人は、どうしても特技で差別化されたいと思うのだ。と同時に純粋フラットの仕組みが働くのだ。人間的に見たら、どの人も、自分の関係している人が、特技を発揮しているとうれしいものだ。が、同時に、その特技を発揮できない人も、その周囲で存在するのだ。これにより、様々なドラマが生まれるように設定してあるのだ。ただ、恨むことは、自分を苦しめる事になるとだけ忠告しておこう。どの人も、オーケストラを望んでいるのだ。どの人も特技を発揮し合う世界になってほしいものだ。それには、一つ一つこの世界が積み上げる必要があるのだ。人間は、すべての視点を考えると、死ぬようにできているのだ。が、それは人間のためなのだ。やはり、俺は、人類の1部分であるという視点が、俺を苦しめずに済むのだ。ただ、どの人も俺と私ぐらいに、あらゆる視点を手に入れた者同士なら、オーケストラを奏で続ける事ができると信じたい。私は、圧倒的に突っ走った。そして、圧倒的にブレーキをかけ続けた。なので、真相を掴む事ができた。が、俺は、一人の肉体がある人間なのだ。時代性に合わせて生きていこう。私は、深い真相を知ってしまった。が、浅い真実の方が、俺にとっては、楽だっただろう。気楽に生きていきたいとも思うのだった。ただ、物理的技術的の条件で、本来の無意識マップでは、発生させたい事があっても、物理的に発生しない場合に、水面下では、とてつもないバトルが起きているのだ。どの人も、「免許」を持つことを私は、望む。「免許を持った者同士」で、悟り愛たいからだ。どうも世界は、混沌に包まれるか、秩序で包まれるか、は自分達次第なのだ。私は、現代の三種の神器として、「不労所得」「個人ブログ」「心人合一」「悟り連帯個人的フィールド」「本当の自己愛」を掲げたい。ああ、現代の五茫清になってしまった。この本当の意味を知れる人が増えて欲しいのだ。増えれば、どれだけ剰余が発生するか、予想を越える未来になるのだ。結局、様々な真相を知っても、守秘義務があるものなのだ。それは、企業でも変わらないのだ。私は、神の声というのは、どこまで知って、どこまで伝えて良いか迷うのだった。予想もつかない方向に人間は進むからだ。その穴埋めと懲らしめを私は、しないといけないのだ。やはり、俺も、どうするか苦心するのだった。この現象界では、知り得ない無意識インスピレーションと、まあ何となくの見た目と勘で判断できた無意識インスピレーションと、
ただ、俺の意識の器では、そんなに正確には当たらないというより、外れの方がほとんどだ。人に対する記憶層が消えてきたからだ。この記憶層で、人はほぼ全てを判断している。適合した事が起こると、それを強固にさせるのだあ。ああ、確かにこれは人格者でないと、知ってはいけない事なのだろう。俺は迷った。が、神は、それを人に伝えたいのだ。その方が、人の為なのだ。なので、懇切懇切丁寧に、さり気ないヒントをいつも与えているのだ。が、人間の口から直接伝えて欲しいという気持ちもめちゃめちゃめちゃめちゃあるのだ。そのような未来になる事を願うばかりだ。できる限り良いようにしたいだけだが、やはり物理的に連帯しないと難しいのだ。やはり、多くの人がShinnzinn合一しないと、いつもふと浮かぶ一番純粋なインスピレーションの連鎖は、できないのだ。私は、団体でいると、だいたい一番奇想天外で、一番効果的な発想が浮かぶのだが、それを理解できる器がある人達でないと、効果は激減するのだ。後始末に翻弄されて、表現しないほうが良かったと思うのだった。ただ、やるときはやる。が、浮かんできても、まだ時期尚早であれば、その浮かんだインスピレーションは、愛したあげるが、まだ待つのだ。面接会でも、本質的な面接にしようと仕掛けようとするのだ。ただ、それはまだまだ早いのだ。ああ、そのインスピレーションをしている自分を全て愛してあげたい。今まで、疑っていてごめんなさい。現象化させなくてごめんなさい。黙ってくれて、ありがとう。どこからどこまで意識を最高と最低に保つか、考慮するのだった。ああ、俺も思っていたという人が現れる事を願うばかりだ。記憶層もぶち壊すには、それだけハチャメチャに見える事もする必要があるからだ。が、それが必要な場面は、なかなかないのだ。私は、この手のバトルばかり思い浮かぶのだった。最高峰の戦いをしていきたいと思うのだった。準備万端に整えていこう。貴方の隣にいる人が、実は最も最低で最高の人かもしれない。そんなワクワクを持っていたい。「こんな事思った」という妄想は、実は妄想でなくて、至高の一手の場合もあるのだ。が、連続して打つには、仲間と体力が必要なのだ。息切れしないように、一つ一つ準備していく事なのだ。今完全循環しているかどうか、純粋フラットになっているかを続ける事なのだ。私は、私服で、至福の時を過ごし血得る。妄想をエッセイ作品にするか、忘却の彼方か、仲間と戦うか、迷うのだった。やはり、これから自分を鍛え直していきたいからだ。最高の戦いを繰り広げるには、個人でモガき戦うのだ。俺という存在を磨く事なのだ。さすれば、道は開かれるのだ。日常生活を点検し続け、科学と疑似科学を考察すると、中道が悟るものなのだ。俺は、俺以外にも、このような発想が浮かぶ人と一緒にやりたいのだ。ハンターハンターの新世界に渡ろうとするジンのようだ。コツコツ小さな無茶を繰り返すうちに、破天荒なイメージができあがるのかもしれない。ただ、私は、無茶はあまりしたくないのだ。この辺りは、マンガと真相を知っている人の違いなのだ。俺は、それはできないしたくないと思う事なのだ。私は、暴力的な解決は、極力したくない悟り人なのだ。が、限界まで来たらするのが人の世のためなのだ。この限界は、いつくるかは、誰にもわからないのだ。日本の借金はいつ、崩壊するのか、というのは、わからないものなのだ。意外と早いかもしれない。意外と遅いかも知れない。それは、世界が全て連動しているからだ。私個人では、究極生命体にはなれないのだ。なぜなら、私は、肉体を持っているからだ。なので、少なからずの援助だけしたいのだ。この記事は、それを一定的に具現化しただけだ。私は、この記事を書いて、心がスッキリする。気付きが増えていくのだ。「ああ、そういう事か。うん、ではこれはどうだろう。こんなだったらいいな」と考えるのだった。私は、ペンは捨てないだろう。やはり、今は、人口と制度が、拡大し続けているからだ。それもそれで良いのだ。が、どの人も悟ってほしいのだ。その方が、自分を苦しめる人が減ると信じているからだ。私は、やっと自分が人類の一人という視点に循環してきたのだ。それにより、次の二週目をどうするか、対策が立てやすくなったり、ならなかったりなのだ。まあ、確かにプレートの地盤沈下は激しいものだ。が、それも人類が一人一人選択している結果なんだお。ほどほどに、その地盤沈下をどうするか提示していこうと思う。まあ、だいたいは既に提示しているのだ。まあ、どうするかは個人の自由だ。私も個人であった事に気が付かされた。まあそろそろ足を洗いたいのだ。やはり、何事もぷよぷよ大連鎖になってほしいからだ。妥協案も時には、必要なのだ。まだまだ、忍耐強く根を張る事だ。おしりの神経でピックッと起きるのだった。本気のインスピレーションに匹敵するぐらい一つ一つ冷徹に努力を重ねるブログ表現も良いだろう。誰もが、意識と無意識の器を、上下運動している事を意識で捉えられる事を願っている。何事mお神経質になりすぎない事で、自分を苦しめずに済むのだ。過去の腑に落ちなかった事が、どんんどんわかってくるのだ。これはありがたい。ごめんなさい。それでもなお俺は、純粋でいたいのだった。がってんがってんがってん。何とか研究者のキャリアを積みたいものだ。どうにか自分の考えてきたものを公に結実化させたいものだ。
 
神の使いだとしても、自己防衛で、「あの人は神を信じないけど、私は、神を信じている自分」という微量の悪想念を出してはいけないのだ。これが、後々自分を苦しめるのだ。
これは、神を信じる人がめちゃくちゃ陥りやすいパターンなのだ。というよりも、ほぼ100%の人が陥っている。それを感知できるようになる必要があるのだ。また、そういう事なんだと理性で知る事が大切なのだ。

戦争 肯定 否定視点

戦争 
私は、戦争嫌いである。が、色々な思索を重ねてきた。今回は、普通とは違う視点を見てみよう。戦争というのは、人間同士の大規模な殺し合いなのだ。戦争は、カルマの解消ということにも、繋がるのだ。エネルギーという視点で見れば、いたって、普通の事が起きているに過ぎない。人は、感情があるから、生存欲求があるから、自分が死ぬのが嫌だ。これを克服した人は、また違う視点なのだ。人は、罪を犯すより、死んだ方がマシという視点だ。相手を殺すより、自分が死んだ方がマシという視点もある。また、地球には、人が多すぎるという視点もある。様々な視点があるのだ。このような色々な視点を考えるのは、悟りに繋がるのだ。「自分がえ?」と思う事ほど、何かに繋がるのだ。私は、ある哲学者が、戦争だけは、悪だと言っていた。その時は、そうだなと思っていた。が、探究を続けると、どうもそうじゃない視点が出てくるのだった。勿論当たり前だが、戦争の悲惨さという視点もわかるのだ。起きるモノは起きるのだ。が、感情的というのも、また課題があるのだ。私は、「全てのモノを愛す」と決めた。となると、戦争はどうなのかと思索する必要が出てきた。20世紀の戦争により、この21世紀の今まで、戦争がなくなったという視点もある。ごめんなさい。と靖国神社に参拝をした。が、やはり戦争絶対反対という視点しかなかった自分と、戦争に何かしらの愛を持つ視点の自分というのは、変わっているのだ。マイケルサンデルさんも、哲学をすると、変わる自分がいると表現していた。大人になるのだ。戦争があるから、国家というまとまりが維持できるのではないかという視点もある。どうしたものかと。戦争が起きれば、私の今の生活は、一変する。それが、みんな嫌なのだ。が、創造的破壊というのもあるのか。第二次世界大戦で、本気で戦った日本は、破れて、その後、平和な国家になった。何という逆説的だ。という事は、本気の戦争が起これば、より平和な国家ができるのか。それとも、人類というのは、いなくなってしまうのか。どうなのだろうか。まだ、腑に落ちない。未来に起こる戦争を止める事はできるのか。ただ、私は、止めたいと思うだけだったのだった。なぜ、このような事を考えるかというと、一度オールリセットすると、また次に進めるのだ。これを繰り返すことは、無意識マップの完成に近づくのだ。私は、ごめんなさいと謝った。が、まだ腑に落ちない。数多の戦争があったから、今の自分がいるのだ。やはり、ここでも、「戦争は良いとも悪いとも言える。戦争は良いとも悪いとも言えない。どちらでもあるし、どちらでもない、、、、、。」というものか、、、。何かがまだ解除しきれていない。

善と悪 やってみなきゃという魔

やってみなきゃわからないという魔がある。がやってみるとだいたい自分の才能がわかるという魔もあるのだ。勿論、やり続ければ、ある一定は行くようになっている。が、やはり、その上があるのだ。そこを見極めるのが、大切なのだ。才能の発揮というのは、本質次元では、どちらでも構わないのだ。まあ、誰もが、才能の発揮をしていると、快楽物質に酔うので、気持ちいいのだ。ただそれだけなのだ。だから、才能の発揮もしてもしなくても、どちらでも構わないのだ。ただ、それは、人間が勝手に決めた善悪に過ぎないのだ。不快が悪で、快が善というものだ。不快の人が悪で、快の人が善というものとも言える。誰だって、夜と朝どちらか一方だけでは暮らしていけないのと一緒だ。人間は、どの人も、超俯瞰的に見えれば、変わらないのだ。誰が良い、誰が悪いというのは、思いこみなのだ。この事がわかる人が増えてほしいのだ。そうすれば、見た目上の良い悪いはなくなるからだ。