verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

天国への生き方

天国への行き方
天国へは、どういけばいいかというものがあった。純粋な人ほど、悩む箇所が、人生の幾たびに、お金と純粋のどちらを取るかという問題だ。お金を取る人生が良いか、純粋を取る人生が良いかというものがある。俺も「お金持ちって、何か心を失っているように見える。良いように見られるお金持ちでも、何かそこまで純粋じゃないように見える。」と思っていた。そして、「純粋な人ほど、バカを見る社会に見える。なぜ、このような世界に神がしたのだろうか。また、純粋な人は、ずっと純粋な無償奉仕で、お金の件で、悩んでいる。また、純粋な人は、ずっと純粋な活動をしないといけないのか」と思っていた。が、これについて、ほぼほぼ神から解答を頂いた。純粋な人は、実は、人生のステージで、お金を取るか、純粋を取るかというので、とことんある一定量まで、純粋を取りきれるかという試練があるのだ。このハードルは、人が思ったよりも、結構高いのだが、それを取り切った人は、ほどほどにお金と付き合いながら、要は、お金を取ってもいいのだ。結局は、お金を取る生活に戻るわけだが、それはその人の魂のステージとしては、必要な事なのだ。端から見れば、負け組に見えるが、実を言うと、その時点で、ほぼ天国行きが決定するのだ。そして、あとは、ほどほどにカルマを積まないように、寿命を全うすればいいのだ。ただ、たいてい純粋な人は、ずっと純粋な活動をしないといけないと思い込みが激しくなるのだ。が、実を言うと、ある一定量までやれば、それで十分なのだ。これは、宗教・宗派は、関係ないのだ。ちょっと俺としても、その純粋を一定量している人に関しては、「もう、そこまで純粋活動をしなくてもいいけど、仕方ないか。本人がそういう行動をしているから」と思っている。この純粋活動の純粋意識というのは、人が思っているほど甘くはないが、実はそれをクリアしているにも関わらず、続けている人も多くいるのだ。ここで、純粋な活動を続けている人の誤解と、純粋な活動をしている人への誤解があるのだ。要は、純粋活動量の一定量を取り切った場合は、辞めていいのだ。ただ、神も人間関係に、極力不干渉という立場があるので、この真相は知られていないのだ。そして、人生でお金を取った人は、死んだ後に、それだけの報いがあるのだ。死ぬ前に、それを全て譲渡するような行動をした時に、初めて清算されるようになっているのだ。この辺りが、人間社会で、共通認識になっていないので、トラブルが起きる要因になっているのだ。日本で有数の純粋な人の組織でも、6人中1人ぐらいが、そのラインをクリアしていると神が教えてくれた。ただ、一端お金を捨てないと、最速では、その天国行きのチケットが提示されないのだ。ただ、一応、救済措置として、お金持ちに既になった人は、残りの人生で、いかにお金に対する執着を捨てられるかにかかっているのだ。捨てられなければ、地獄に行くだけなのだ。俺の知り合いでも、地獄行きがまもなく現れそうな人を知っている。ただ、それは仕方ない事なのだ。自業自得というものだ。なので、たとえ、実業家で、精神性が高いと言われる人でも、天国に行ける人は、少ないのだ。自分が作り上げた世界を収束させる捨てる行動をしないと、天国には行けないのだ。ただ、もともとそのどちらにもいかず、純粋にもなりきれない人は、天国には行けないのだ。その場合は、お金をものすごく執着して、その分後で捨て去る場合か、純粋活動になりきる場合でないと、天国には行けないのだ。これは、宗教をやっていれば、いいというわけではないのだ。どちらが純粋かという判断軸で、人生の一瞬一瞬を行動していくかに限っているのだ。なので、俺の知り合いで宗教を熱心にしているが、それでもっと大切な人に、時間を使わない人を知っている。これも、本末転倒なのだ。そこで、どれだけ葛藤しながらも、純粋を取れるかどうかなのだ。少し稚拙な表現があるが、これがほぼほぼの真相なのだ。実は、その純粋意識活動を一定量した人は、実は、そのような活動はしなくていいのだ。むしろしない方が、隙間ができるので、他の人が入る余地があるのだ。ほどほどに余生を楽しめばいいのだ。が、人間次の進路が決まっていないと、不安になるものだ。が、次の進路は決まるものなのだ。ここを乗り越えるのも大切なのだ。「なんで、こんなずっと私、純粋にやっているのに、伝わらないのだろう。」と泣くぐらいの場合は、実は辞め時なのだ。どうしても、過去のマザーテレサさんのような誤った献身像があるので、ずっとそれに自分を照らし合わせてしまうのだ。この辺りも、とても絶妙な部分なのだ。ただ、どのような人生にするかは、その人次第だと言える。私は、ただ、その人生の「真相」を伝えているに過ぎない。人間の思い込みと、神のジャッジはとても似ているものではないのだ。霊媒の人は、自分のある同志が、他の場所に行った方がいいと、神から伝えられているが、やはりブロックしてしまうものなのだ。それも人間なのだ。人間感情的には、同志と一緒にいたいというものがあるが、やはりそれは先延ばしに過ぎないのだ。身を切る思いというのは、なかなかできないが、それは自分達の今後のタメなのだ。俺の母は、日常生活で、カルマを溜めすぎている。食べ物を粗末にしている。ほっとプレートで、焦がしたものを、捨てる。焦がさなければいいおに、。俺も50回に1回は、大便をした際に、水を流す量が小で、きっちり流せるのに、大で流してしまう。が、それは微少のカルマになる。よって、その事に気付き、ごめんなさい。と謝るのだ。日本人として生まれたという事は、それなりに、そのような小で流した方がいいという情報や気付きも得れる可能性が高い。なので、その事も、しない場合は、カルマになるのだ。また、必要以上に、食べ物を買い込むのは、カルマになるのだ。俺の母親は、いつも無駄にパンを買ってくる。ごはんもおでんもあるのに、買ってくる。捨てるわけにもいかないので、非常に困惑するのだ。食べ物を与えているのが、努力だと勘違いしているのだ。食べない努力もしないといけなくなる。ただ、レタスが萎れてしまうのも、ラップをすればいいのにと、ラップをする羽目になってしまう。これは、ほぼ全ての人が、陥っている所なのだ。その微少なカルマが塵も積もれば山となり、目の前の不幸になる要因になっているのだ。実は、そのような一瞬一瞬で、カルマが溜まるのだ。徳というのは、純粋意識で、純粋フラット的に、行動した場合のみなのだ。勿論、それも行っているものだ。が、やはりこれだけ不幸が多い人が多いのは、カルマを日常生活のいたる場面で溜めているからだ。特に仕事だと、誰もが諦めて、その場に合った行動をするようになり、結果として、自分を苦しめずに済んでいる。が、他の仕事以外のプライベートで、カルマを溜めているのに、気が付かないのだ。このような日常の場面で、カルマを溜めているのだ。これが、ある一定量まで至ると、死に至るようになっている。死まで行くのは、相当なカルマの溜め込みがあるのだ。勿論、普通に天命を全うして、死ぬケースもある。誰もが、病気になった人をかわいそうと同情するのと、なっても仕方ないと達観するのと、なってよかったとホッとするケースがある。病気に関しても、なるのは、その人の自業自得なのだ。肉体的観点だと、同情になりがちだが、このカルマの観点だと当たり前な事が当たり前に起きているに過ぎないのだ。なっても仕方ないと達観するのは、それだけ相手がカルマを溜めているのを、なんとなく感じているからだ。なってよかったとホッとするのは、相手がカルマをため込みすぎて、それ以上は、肉体人生で、補えないという判断が、霊界で下されたからだ。天国への生き方としては、カルマを溜めない習慣を、いたる場面でしていく事なのだ。結果として、徳も積んでいるようになるのだ。例えば、一市民として、イチロー選手が亡くなって、そうなって良かったと感じるかと言われたら、ほとんどの人は、感じないだろう。それは、それだけのカルマを積まない生活をしているのだ。ただ、もちろん、全ての人がそうなるようには、この世の構図としては、なっていないのだ。が、例えば、他のスポーツ選手の場合は、亡くなっても良かったと思う人も、いるかもしれない。例えば、本田圭佑選手が、亡くなった場合に、亡くなって良かったと思う人が、イチロー選手より、多いのだ。それは、同じ数字が求められる世界だが、純粋意識にどちらの方が近い生活を続けているかという事に掛かっている。勿論、本田圭佑選手よりも、カルマを溜めている選手は、かなりいる。これは、例えとして用いているだけなのだ。勿論、人は、一部分を切り取らざるをえないので、このような書き方になる。人生は、その時々で変えられるので、それを本田圭佑選手もすれば変えていけるのだ。引退後でも、そのような活動をすればいいのだ。人生は、終わってみないと、そのあたりのジャッジは難しいのだが、ある程度固まった人生であると、おおよその未来部分も含めた判断になるのだ。やはり、過去の延長線上であるし、それだけ過去を積み上げた場合は、だいたい同じような思考パターンをするのが人間の性質なので、ある程度予想する事ができるのだ。人間は、自分の目の前に、不幸がないと、改心するのは非常に難しい生き物なのだ。ここに、いつまでも素直でいると、自分を苦しめずに済むのだ。純粋意識に従うと、少しばかりバカ正直で損をした気分になるが、その辺りを乗り越え続けると、天国への切符が手に入るのだ。人を押し退けて自分ばかり、注目させようとする魂胆は、カルマを溜めているのだ。メディアも、スポーツ選手の人格を、しっかりと報じる必要がある。それは、誤った人格像を人々に、与えてしまうのだ。そうすると、天国に行ける人が少なくなってしまうのだ。勿論、メディアの特性上、なかなか難しいところだ。話題性がある人を報じるのがメディアだからだ。が、やはりできるだけ純粋フラット的に報じるのが、どの人にとっても、実は重要なのだ。実を言うと、子供の時に、どちらかと言えば、どちらの選手を崇拝するかによるのだ。これは、かなり分岐になるのだ。現象結果世界だけ取るスポーツ選手と、現象と、深層と、死後の世界も取りながら何とか結果を出そうとしているスポーツ選手は、明確に違うルートを通っているのだ。ほぼ現象世界だけを取る行動は、自分を実は苦しめているのだ。
話は変わって、俺は、悟る事で、人々の顕在意識層に入る事が、少しばかりできるようになった。そうすると、その人がどのような思いを顕在意識層に溜めているか、浮かんでくるのだ。「さっさと、社会にでなさい。私は、それだけがんばったから。私は悪くない。智也が悪いのだ。私は、変えるつもりはない。」というものが顕在意識層に溜まっているのだ。今この瞬間の思考を読みとる神通力は、これから延びていくかもしれない。俺は、あまりこのような霊能力を使うと、自分を批判されているのが、如実にわかるのだ。そして、私は、悩み笑うのだった。ちなみに、相手が絶対に誰にも行っていない秘密の思考も、わかってしまうのだ。保険を掛けて良かったという思考がかなりあるというのが、わかってしまうのだ。なので、神に近づいた悟った人でないと、ショックが大きいので、あまりそのような事が起きないようになっているのだ。勿論、自分の顕在意識で、あらかたの疑惑の思考分析で、たいていは何となくわかるものなのだ。が、100%に近いものとしてわかるにのは、そのような悟った人の霊能力が必要なのだ。やはり、良くない思いをTamekomunohは、その人にとっても、周囲にとっても、不幸に繋がるのだ。この原理は、意識層というのは、深い層で、繋がっているのだ。なので、ターゲットの意識層を宇宙空間で、見つける事ができ、チューニングすると、浮かんでくるようになっているのだ。なので、霊言や読心術や霊媒というのは、そのような仕組みでできるようになっているのだ。ただ、自分の生活が汚れてしまうと、そのようなアンテナも汚れて、ぜんぜん違う思念が入るようになっているのだ。なので、かなり注意が必要なところなのだ。コールドリーディングやホッとリーディングと呼ばれる手法もあるからだ。個人情報と呼ばれるものは、たいてい入手できるものなのだ。なので、当てにならないのだ。が、その人が誰にも言っていない事で浮かんだ発想であれば、それを一回で、言い当てた場合は、そのような霊能力があるとわかるものなのだ。ただ、霊能力は基本的に使わない方が、お互いにとっていいものなのだ。のっぴきならない事情の際にだけと判断した場合に、使えばいいのだ。なので、俺は、基本的には使いたくない。あまり必要性がないからだ。そんな事よりも、日常生活で、カルマを溜めない微差と実践が大切なのだ。俺も、多くの人と同じで、そのような超能力を気に掛け、そのような能力がある人がすごいと思っていたが、今にしてみれば、それなりの代償やリスクがあるものなので、別にいらないものでもあるのだ。ただ、本当に世界規模で、人々の幸福を実現させるためには、そのような人も必要なのだ。が、要は、人々は、カルマを溜めない日常生活を実践してくれれば、それでいいだけなのだ。それで、目に見えない世界に対して、懐疑的な人のために、霊能力を使い、信用してもらって、その人がカルマを溜めない幸せな生活に導いてあげるために、使うだけなのだ。なので、しっかりと日常の微差を情報整理して、実践する人であれば、必要ない事なのだ。宗教世界の人は、どうしても組織を保つために、そのような霊能力を見せつけて、信者が、カルマを溜めない生活をするように仕向けているだけなのだ。どうしても、人は、油断して、カルマを溜める生活をしてしまうからだ。なので、そのような霊能力を使う立場の人は、そのような心構えで使っている場合と、そうでない欲まみれの場合があるのだ。要は、その能力を使った場合の人々のカルマの減少量と、使わない場合の人々のカルマの増加量を、天秤に常にかけながらやっていく必要があるのだ。だから、何でもかんでも教えるというわけではないのだ。どうしても、超常的なモノに対するあこがれと、そのような能力を使っている人は自分よりも優れているという思い込みがあるのだ。なので、同じ40歳でも、その霊能者と呼ばれる人と、スポーツ選手であれば、その霊能者よりも、スポーツ選手の方が、悟っている場合もあるのだ。別に、神事をする組織が偉いわけでも、神事をしている人が偉いわけでも、ないのだ。この辺りに偏見があるのだ。ただ、それは、ある程度どちらにも、考察した事がある人でないと、わからないものなのだ。神は、その人の無意識マップを見れるので、どちらが本質的に優れているかは、わかっているのだ。が、人間は、どうしても、両方を純粋フラット的に見る訓練をする事で、そのようなものが気付く事ができるのだ。人は、どうしても、自分の思い込みが強い方を選ぶものだ。身近に接する人と、遠くのメディアに出ている人、どちらが無意識マップを進展させているかというのは、判断が無理に近いものだ。視点tenniを繰り返すと、物事に対する客観的な見方ができる。が、やはり、霊能力を使わないと、神から教えてもらわないと、わからないものなのだ。真実というのは、どちらにも取れる人でないと、そして、どちらを知らせても、その人がより良い方向に進む場合でないと、難しいのだ。極端にわかりやすいケースは、真実を伝えてくれる場合が多い。が、神からの伝言でも、その人の思い込みを取ったり、つけたりするために、必要な事を伝えているのだ。ということは、思い込みを取り切った人でないと、絶対の真実には、到達しないようになっているのだ。どんな視点も取り切った人でないと、絶対の真実は、わからないようになっているのだ。神は、その人のためにやっているのだ。俺も、使命的に、そのような事を表現すると、使命を発揮できるので、伝えて頂いているに過ぎないのだ。俺も、これ以上純粋フラット的に見ると、どうしても世捨て人になってしまうので、非常に困っているのだ。どの人が、どれくらい思い込みでズレているか、を引き戻す役目があるのだ。使命の発揮がされればされるほど、自分の人格がなくなっていくのだ。できれば、極端に傾いている人や制度や思い込みを、引き戻す作業だけしたいものだ。俺は、今後思い込みをつけるわけではないが、社会的キャリアの養成をした後で、よりこのような純粋フラットの原理の微妙な差や日常のふとした疑問を、的確に整理整頓したいのだ。一つのめちゃくちゃ微妙な疑問が腑に落ち、それが波及すると、仮に、200万ぐらいの人が、その微差で幸せになるのだ。要は、神クラスに無意識マップが進展した人でないと、本質的なジャッジはできないという事だ。俺としては、この微妙な日常の疑問を、世界中の人が同じように考えているので、それを解きほぐして、より良い選択をしてほしいだけなのだ。人生は、選択の連続なのだ。ただ、どちらが良いかというのが、かなり微妙な線場合、このような考察をする時間を取った人が、伝えれば、その人が他のことに時間を取れるようになるのだ。トイレの大小のどちらのレバーを引くかぐらいは、社会人であれば、多くの人が考えて、正解の方を選んでいると思う。が、本質的に、どちらの無意識マップが進展しているかというのは、やはり霊能力ととてつもない視点転移を繰り返さないと、わからないものという最高レベルのものもあるのだ。誰それがどのタイミングで来るかというのは、そのような霊能力を使わないと無理なのだ。ただ、人というのは、何となくそのような話をしているものだし、何となく心で感じる事もできるものなのだ。インターネットで、「トイレ 大小 水の量」で調べれば、このような微差が、このブログでわかれば、20万人の人が実践すれば、それだけ多くのカルマの解消になるのだ。これは、決して、節約やケチという視点だけではないのだ。200万人の多くの家の家庭の人がしてくれは、それだけカルマの解消になるのだ。仮に20000000人カルマと、2人カルマだと、どれくらいの量かというのは、とても大事な視点なのだ。俺も、欲があるので、本当に大事な日常生活のありきたりな微差よりも、霊能力的な微差や政治経済的な学問の微差のほうを取りたいと思う欲があるのだ。極力日常生活の微差を大量にまとめて発信しているブログというのも社会貢献性は最高レベルなのだ。日常生活の微差をとことん発信して、取材されたり、本を書いてと頼まれる方が、欲にまみれていないし、実力があるという事の証になるかもしれない。個人で取り組める微差が埋まってくると、やはり集団の人間関係や組織運営に関わる微差で、カルマを積みがちなのだ。赤の他人編と、集団の本質的な運営編に入っていきたいところだ。なぜ、集団で問題が発生するのか、どうすれば問題の発生を、より良い形に転嫁させられるのかという問題がある。深い層のやり取りをどれだけできるかに掛かっているのだ。リーダーというのは、深い層の弱音を吐きたいものなのだ。が、なかなか世間的な思い込みがあるものなのだ。要は、できるだけ問題になりそうな自分も苦しい事を言い合いたいものなのだ。浅いコミュニケーションをしていると、必ず問題がより深刻化されるものなのだ。どうしても、リーダー側が取りたくない選択肢を、本質的には取った方が良いのだが、それができないから、なかなか問題が解決しないのだ。例えば、その組織を畳むというものだ。リーダーは、生活があるので、どうにか組織を維持する選択肢を取りがちなのだ。それは、今まで自分が築きあげたものを壊すのが非常に怖いからだ。また、日本社会は、どちらかというと、そのようなリーダーを受け入れないからだ。AKBの運営と、神事の集団や、企業集団も家庭集団も地域集団も、本質的には、どちらが優れているというのはないのだ。気付きをどれだけ与えているかというものに比例するのあ。自分達当事者視点だと、何かとAKB的な集団よりも、優れているものに取りくんているように見えがちなのだ。積み上げた組織を畳んでも、生きて行ければいいという視点も、時には必要なのだ。当事者というのは、真実を知らされないものなのだ。それは、真実を知らされると、悔い改めに繋がらないからだ。外にでる人や外の人には、真実が知らされるチャンスがあるのだ。不倫が発生したというのは、結局それだけカルマを溜めていたという事なので、正当化しては、よりカルマを溜める事になるのだ。要は、カルマを溜めると、葛藤が起きるようになっているのだ。あれ、私本当にその過去生なのかなというものだ。本人達は、周囲に真実を伝える役目があるが、本人達は、真実を知らされていないというものなのだ。不倫の当事者という事は、子育てや家庭生活の微差が埋め続けていないから、発生しているのだ。不倫をした後に、誰かに、「私、そのような失敗をしてしまい、本当に申し訳ない。慰謝料も払うけど、それは私が悪かっただけ。しないほうがいいよ。」と言ったあげるのは、徳になるのだ。これを被害者意識や正当化で、「こんな慰謝料払うなんて。私は悪くない」と言った事は、罪になるのだ。この不倫に関わる離婚調停やらの法律は、うまく機能しているのだ。お金のエネルギー交換で、わかりやすくしているものだ。カルマを積んでいる人は、葛藤がでるようになっている。葛藤と、考察というのは違うものなのだ。現世の舞台というのは、悔い改めにあるものなのだ。霊能力的なものは必要ないが、カルマの解消のために、カルマとエネルギー交換や物事の微差というのは伝わったほうがいいのだ。

所属欲求の魔 アイデンティティ 結婚

どこかに所属していたい所属欲求の魔になぜ、人は勝てないのか。考えていこう。まず、当たり前の事だが、通常一人より2人の方が、何かと有利になるのだ。そして、場を支配する人の方が、得をしているというように見える。また、人といる方が、得のような気がするのだ。何か困ったことがある時に、該当する誰かがいると、事がスムーズに行くのだ。これを、人脈と呼ぶ。古代では、自然の猛威があるので、人同士が結束しなければ、勝てなかった。では、現代では、一人で生き生きと生活している人もいる。隣のおばあちゃんがそうだ。では、それは歳だからだろうか。確かにそれはあるのだろう。60歳を超えると、定年という言葉もあるように、リタイアしていい世間の価値観というものがあるからだ。また、人付き合いもそこまでしなくていいからだ。では、何かより生産性を上げる場合は、チームでやらなければあがらない。となると、隣のおばあちゃんは、そのような事は、諦めているのだ。それは、歳というものを知っているからだ。やはり、私とは違うのだろう。私は、全世界に愛を注ぎたいのだ。魔の存在を知らしめたいのだ。だから、大量に記事をアップする必要があるのだ。ただ、私は、普通に生きて死ぬ人も認めている。が、自分はまだ何か事をなしたいのだ。このままの生活で、歳を取りたくないのだ。が、所属欲求の魔を完封したい、させたいのだ。居酒屋談義で、解決する問題ではないのだ。やはり、物心ついた時から、ずっと組織にいるからなのかもしれない。組織の論理が、当たり前だという固定観念だ。得をする方、する方を選ぼうとする自己防衛本能だ。人は一人でいても、元気で幸せに暮らしていけるのだ。勿論、必要な魔には勝つの当然だ。ある一定の魔に勝つのは、最低条件なのだ。朝早く起きるのも、必ずするのだ。太陽の光を浴びるのも、必要条件だ。洗濯や食事や入浴もする必要がある。ということは、隣のおばあちゃんがしている事が、人間として、最低限の事なのだろう。それをし続ける自分を作る事なのだ。時間で言えば、3時間だろう。私は、今の時間がとても有り難い事に気が付かされた。が同時に、私は、どれだけ人にわかりづらい困難と葛藤しているのかというのもあるのだ。好きな事を好きなだけ楽しくやっているわけではないのだ。そう、テレビゲームをずっとして、興じている子供ではないのだ。聖書のたとえを、子供にわかりやすく伝えたいのだ。人間は、どこに向かっていくのか?何を最低限しなければならないのか、それは実社会と霊界の二つを合わせてだ。自分なりに、一つ一つと向き合っているのだ。人の思考にどのような魔が隠されているか解明したいからだ。

 


足りないのは承認欲求?それとも所属欲求? - シロクマの屑籠


[足りないのは承認欲求?それとも所属欲求? - シロクマの屑籠

 

追記

私は病院に所属している、入院している。退院すると、他の人とのコミュニケーションが、あまりされないので、あまり退院したくない、これが、マズローの欲求説だろう。かといって作業所通いや、支援センター通いもあまり気が進まない。転院は、しても良いと思ってる。

 


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結婚も愛情欲求だろう。

 

 

感謝 やり方 頼らない段階

頼る段階 頼らない段階
何かトラブルが発生する。私もつい焦ってしまう魔に負ける。私は、ポメラというテキストメモを使っている。が、途中で、わけのわからない入力モードになってしまう。①キーボードの変換を見てみる。が解決しない。②ヘルプ機能を使ってみる。が解決しない。③そろそろネットで見たらどうかと思う。が、解決しない。④人に頼る。が、適当な人が見あたらない。⑤お客様センターに電話をかける。そうすると、ほぼ解決する。が、ここで重要なのは、④か⑤ばかりに囚われていないだろうか。②が正解の時もある。③が正解の時もある。のだ。そして、私は、⑤に電話をかけた時に、直っていた。そして、自分が昔、⑤のお客様相談センターに感謝が足りないという事に気が付かされたのだった。意識が低いと、相手がお客様相談センターの仕事だからと言って、ぶっきらぼうや粗末に対応していないだろうか。ビジネス中だからと言って、相手への敬意を忘れていないだろうか。やはり、この電話のやり取りの一時でも、カルマか徳は、発生するのだ。私は、昔よく忙しいビジネス中に、沢山助けられた経験を思い出した。ごめんなさい。と今思ったのだった。そう、この状態が、感謝ができているという事なのだと気付かされた。感謝というのは、状態なのだ。過去のカルマを、清算するのが、感謝と行いなのだ。ごめんなさい。ただ、気を抜くと、すぐその状態から、離れてしまう。どの無意識の器を使えているかは、変わるのだ。できるだけ次元が高い無意識の器を使うように、努めることなのだ。ついつい、食べ物を食べようとすると、動物的に感謝もせずに、食べようとする人が、ほとんどである。お腹が空いたから、お昼時だから、と言って、感謝せずに食べると、カルマになって、自分を苦しめるのだ。私も、よく怠るので、食べる前には、一度無意識の器になって、食べていい頃合いか食べない方がいいか確認する作業が必要なのだ。私は、鳥の手羽先を食べなかった。まだ頃合いでないからだ。固定観念が強いと、必ず食べないといけないと思い込んでいるのだ。私も、昔はそうだった。が、食べる時間は、ベストな時があるのだ。日常生活の一シーンでも、欲と純粋な気持ちを分別する事なのだ。だからこそ、少欲致足や各種の修行で、自分の欲と向き合いきると、その分別の精度が高まるのである。それは、体感的なものである。脳波で言えば、アルファ波とベータ波の割合のようだ。この変性意識状態をいかにキープできるかという事も重要だ。まずは、自分がその状態を分別できるまで、無意識のマップを進めることなのだ。ボクサーの須藤元気さんも、そのような事をテレビで伝えていたのを覚えている。良い状態というのは、昔の記憶でも、瞬時に取り出せる、という事でもある。が、必要な記憶を取り出すという事でもある。できるだけ不要な記憶を取り出さないように、感謝の状態をキープすると、自然と取り出して、編集ができるのだ。例えば、記憶を取り出す時に、「編集だったら、あの人」というのがあるが、これは、過去の記憶に基づいている。良い場合もあるが、悪い場合もある。良い場合は、その人に連絡すると、スムーズに進んだりする。が、悪い場合は、それ以外の方法がベストなのに、その人頼りだったり、その方法頼りになってしまっている事である。これは、感謝の状態がキープできれば、分別が付くのだ。何とも言えない事であるのだ。ケースバイケースなのだ。このような事を知識と体験で知ると、更に磨きがかかるのだ。私は、まだまだ鍛錬が足りないのであった。これから、徐々に進めていく。この状態になると、集中力が異常に増すのだ。例えば、「お腹が空いた」という妄念が出てきて、「あれこれ、どこで食べようか、腹減ったなーとか、カレーかなー」という更なる妄念に繋がるが、感謝状態であれば、そのようなイメージが脳に浮かんで来ないので、業務に集中でき、食べると良いタイミングで、食べるのである。ある一定まで、歳を取れば、それが良いのである。食べ物に感謝はするが、食べなくてもいいという状態だ。これは、食べ物の例であるが、他の物事でも、たいてい一緒なのだ。現代人は、あまりに多くの事に執着しすぎているので、スムーズに物事が進まないのだ。と教えてくれた。神と違って、周囲の人に、何かしてもらうと、何かお返しをしろという圧力を感謝の段階によって、対価に対するイメージが変わるのだ。だから、安易に人に頼ると、対価を要求されてしまいがちなので、できるのであれば、自分で行うのがベストなのだ。が、なかなか人は、自分でそこまで追い込めないのだ。が、感謝は、大事なので、自分視点で言えば、何でもやる姿勢が大切なのだ。要は、そこまで自分の魂というのは、自分にとって、今何が最も大事なのかは、一番知っているのは、魂なのだ。私は、この手の話を表現することが、今一番必要な事なのだ。やはり、エゴ意識が強い人に対しては、それなりの対応策を覚える必要があるのだ。ただ、エゴ意識が強いに対しても、愛を持ち続ける事なのだ。その事は、結局自分を助けてくれるのだ。また、エゴ意識が強い人に対して、○×やレッテルというものを貼るのは、自分を苦しめる事にも、また繋がるのだ。人は、無常で、変わっているからだ。どうしても、脳は、昔の記憶を補強しようとしてまう癖がある。その人の状態を、正確に捉えていないというのは、自分を苦しい事に繋がるのだ。それは、貴方は、今を生きているからだ。過去を生きているわけではないのだ。だから、全ての人が、この事に気付くと、より平和な社会に繋がっていくだろう。

 

 

追記  手紙を用いて、印象操作をする事もできる。会話より手紙の方が良い場合がある。私も、伯母に真実を話したが、想像を超えると言われたものだ。手紙の威力は、かなり高いとなるだろう。

評論家 法律が先か後か

人の評価
人の評価ほど、当てにならないものはない。私の母は、祖父が、息子の嫁の家の借金を返した事が偉い事だと評価している。が、それは、反対に、自分で返す機会や目に見えないカルマを増幅させる行為に繋がるのだ。だが、ほとんどすべての人が、それを良い行いだと思い込んでいる。貴方が、お金を払う人が善だと、思い込んでいるに過ぎない。誰だって、目先の借金がなくなれば、苦がなくなって嬉しい。目先の借金を帳消しにしてくれた弁護士の人を有り難がる。ただ、その減った分は、更に増幅して、その人に襲いかかるのだ。これは、カルマの法則なのだ。特に、金には、エネルギーが強烈なので、その分を背負うのだ。私にとっては、母の強烈な思い込みが、世間一般のわりと多くの人が思い込んでいるのだと、推察する道具になっているので、有り難いのだ。ネタにして、ごめんなさい。ネタにさせて、ありがとう。お金とエネルギー交換とカルマの法則は、どの人にも伝わってほしいことだ。ただ、瞬時瞬時に変わっていくのだ。良い行いは、とても絶妙なのだ。例えば、私の母は、「植物に寒いからと、タオルをかける」。そこまではいい。が、今日は、ふとんをかけていた。これは、植物の気持ちを感じていないのだ。私は、母が、悪い行いを家や地域でしているので、それを変える役目なので、なかなか外に出れなくて、困っている。ちなみに、私は、27年間は、ずっと我慢してきた。母の行いが合っているのか合っていないのか、判断がつかなかったからだ。「自分が感情的に見ているのかもしれない、理性的に見ていないからかもしれない、」とばかり思っていた。「何かおかしいな」と思っていても、なかなか証拠が出なかったのだ。おかげで、今は頭での多角的な検証を終え、神に聞く事ができて、是非を聞ける事ができるようにさせていただいた。「あれ?なんかこの件あやしいな」と。結局、純粋に感じた気持ちが、合っているのだ、と伝えたい。ずっと、精神の虐待を受けていても、神は救済措置を講じてくれるとだけは、子供達に伝えたい。先ほどの例のように、このような微妙な所で、カルマか徳かが決まるのだ。地域の活動が足りないから、地域から注意される事が起きるのだ。私は、申し訳ないという気持ちのみだ。せめて、ゴミの分別と、ゴミ拾いだけさせていただきたいのだ。掃除機も9時代にかけるようにしている。私の叔母も9時代に起きていたので、それぐらいがちょうどいいと思っている。自分の価値観だけで、物事を判断してはいけないのだ。日本人というのは、精密に微妙なラインを話しているので、それだけことわざがあるのだろう。ただ、私の母は、「苦あれば、楽あり」とばかり強迫観念的自己啓発をしている。これは、目の前の現実の苦が、なぜ起こっていて、どうすれば解消できるかという視点を考えていないからだ。どの人も、現代社会は、人に合わせるばかりで、疲れてしまう。ふと、インドのセンチネル民族が、思い浮かんだ。文明との接触を拒む民族だ。武力衝突も辞さないのだ。が、それはそれでいいのではないだろうか。アメリカや北挑戦のように、核兵器を落とすわけではない。文明側が良いというのもおこがましいものだ。「日本は、法治国家だから、先に法律を整備しないと、自衛隊を派遣できない」という橋下元府知事と、「法律前提よりも、実行力をつけなければ、意味がない。先に、救助能力をつけるべきだ」という苫米地英人さんのやりとりを思い出した。これは、橋下元知事が言っている方が、私には合っていると思う。日本の歴史を鑑みても、法律の整備が、建前上でも、先なのだ。たとえ、裏で、訓練や兵器を作成していたとしても、建前は、必要なのだ。それが、立場の違いなのだ。本音というのは、暴力的でもあるからだ。要は、神人合一まで、心の器がいかないと、お互いにとって、本音でカルマを積んでしまうのだ。建前的な本心というものもあるのだ。例えば、「あの人は嫌い」という本音があったとしても、口に出すとカルマになるのだ。だから、そのような場合は、愛の想念法がいいのだ。これの葛藤量と論理体験がないと、様々な視点に転移できないのだ。私の母は、センチネル部族と同じ性質を持っている。が、それはそれで愛するのだ。私が、長らく怖かった事は、自分の考えが合っているのか、間違っているのかという事なのだ。もしかして、自分では良かれと思っている事でも、間違っているのかもしれないという視点だ。そこで、私を救ってくれたのが、感謝と神なのだ。

新人合一 戦国武将編

中学受験の闇
中学受験というのは、親のエゴなのだ。つまり親が、子供を自分のアイデンティティの延長に見る脳の癖を直しなさいというメッセージなのだ。親の悔い改めのために、あるものなのだが、本人は、その気はない。なので、トラブルが発生するようになっているのだ。中学受験を俯瞰的に見てもそうなのだ。あの世界はおかしな欲まみれの政治家の集まりのようになっているのだ。ただ、責任ある立場の人は言えないのだ。物事の本質を知らない人ほど、があがあ騒ぐからだ。ただ、そろそろ子供達がかわいそうなのだ。その子供にとって、不必要な情報をこれでもこれでもか入れるのだ。親のエゴで、偏差値の高い学校に行けても、子供が苦しむハメになるのだ。それは、親がエゴを直せばいいのだ。オフレコ的に、親のエゴが言われているだけなのだ。やはり、親が金を払うからだ。親のエゴを直さない子は、親の希望通りには育たないのだ。そろそろ、純粋フラット通りの教育現場に戻って、どの人も幸せになってほしいものだ。この辺りに、長らく続く縦割りの弊害があるのだ。中学受験で飯を食っている講師は、その問題の真相を知っているが、やはりお金を払うエネルギー交換の関係で、よっぽどじゃないと言えないのだ。それで、問題が助長されるのだ。講師も何とかそれを金にする詐称をし続けるのだ。それを高らかに、単価アップ必勝合格と強迫観念で叫び、自分自身を洗脳していくのだ。ただ、問題は発生するのだ。それは、根っこから変わっていないからだ。純粋になって、経験もあり、優れた指導力があっても、根本が改善していないと、問題は発生するようになっているのだ。自分達のプレート自身を、改善していく必要があるのだ。生活とお金というものがあった。意外と、ベーシックインカム制度は、この物事を解消する基盤になるのだろう。どの人も、エネルギー交換をしているという本質があるからだ。お金と生活と社会制度に関しての考察が甘かったようだ。「ベーシックインカム、そんなのしたら、サボる人多いじゃんとか、国の財政もっと悪くなるじゃんとか、ソビエト的になるんじゃないとか、」「ある一定の収入を保証します。が、それよりも高い収入を得たい人は、自分達でやってください。」
私もベーシックインカムに関しては、賦に落とすのに、8年かかった。が、この制度が一番現代資本主義の地盤沈下を直す特効薬なのだ。だから、どの人も本質まで、賦に落とす作業がどうしても必要なのだ。北朝鮮があるおかげで、日本人は、社会制度を考えるきっかけになるのだ。恐怖で考えるか、純粋意識で考えるかの違いなのだ。ただ、できれば純粋で考えて欲しいものだ。そうすれば、本人と周囲も気持ちがいいものだからだ。ベーシックインカム制度に関して、色々不安事項はあったとしても、今より確実に良くなるのは、調べれば、わかるものなのだ。が、調べない人は、仕方がない。その分、その人が辛くなるだけなのだ。ベーシックインカム法案を通せばいいのだ。それで、お金と生活の問題は、おおかた片づけられるのだ。やはり、純粋フラットというのは、具体的な事象に当てはめて、表現できるものなのだ。が、国民の認識が、日本を変えるのだ。「正直いつまでも、私は自信がなかった。何か抜けている気がした。だから怖かったのだ。まだ考える余地があるのではないかと常に怯えていたのだ。」本質に到達すると、今までの苦労が、オセロゲームのように、いっぱい取れる手ばかりなのだ。やはり、多くの気付きを心が求めていたのだろう。それが取れると、落ち着くのだ。本質と繋がっているほど、人は安定するようになっているのだ。意識化で、本質の具現化されたものを、手に入れると安定するようになっているのだ。あるベストな解に対しても、九牛の一毛視点は残しておくようになっている。人間は、記憶層と情報ソースを出し切る状態が幸せで、特化されて認められ続けると幸せなのだ。特質化されないと、周囲の人の認識は、変わらないのだ。やはり、結果というのも大事なのだ。私は、思想モンスターなのだ。なので、寝っ転がって、無意識層の整理整頓と、自分の意識状態の整理整頓をしているのだ。が、傍目では、寝っ転がっているのだ。だが、自分が自然としたい行動というのは、何かしら、自分を苦しめないものなのだ。そして、勿論世間一般的な分厚い固定観念を無くすのには、特質化させるしかないのだ。また、途中課程では、信じたりする必要がどうしてもあるのだ。特質化させるまでが勝負でもあるのだ。正直特質化させきれれば、こっちのものなのだ。この状態まで、頑張りきる事だ。人間は、悟ると、メカニズムを利用しようという欲よりも、普及したいというものだ。私は、睡眠状態で、どこかしらの記憶の状態をもう一度見れるようになったのだ。本もある文字まで見れるようになったのだ。また、会話の一場面も、少しだけ見れるようになったのだ。が、かなりしんどいので、戻るようにした。潜水がキツいのと一緒だ。人間は、分別意識で、一定視点では、相手を見る必要があるが、行き過ぎると自分を苦しめるのだ。自分を守っているアイデンティティが圧迫されると、辛いのだ。どうしても人は自分を変えきる前に、人との連帯組織作ろうとする。が、結局遠回りになることも多いのだ。なかなか人は、最強の道に行けないので、神が弱っている人用に救済措置をしているのだ。最強の道は、個人の悟りの道なのだ。その方が、進みが早いのだ。が、なかなか世の中の人はわからないのだ。私も迷ったが、やはり個人の悟りの道が最短なのだ。そして、どれだけ具現化できたか、どれだけ成長できたかにより、巻き込める人が違ってくるのだ。そして、記憶層の問題もあるので、やはり人は、離れるのだ。なので、大量に具現化したものを残す課程での、一冊の本なのかもしれない。今の時代は、現実に翻弄されて、どうしても最高の本が書けないのだ。立場を与えられている人の論文のような書籍ぐらいなのだ。エネルギーが凝縮した良い本がなかなか書けないのだ。立場が与えられていない人が、立場を与えられたように作る作業を続けるのは、かなりのタフな精神力が必要なのだ。立場が与えられている人は、書ける経験があるが、書く時間がないのだ。一方で、書ける経験がない人は、書く時間はあるが、やはり良いものを書くには、それだけの量の経験をする必要があるのだ。CDや実体の音源装置がないと、音楽を聴けないというのは、根強い思い込みなのだ。私は、瞑想状態で、音楽を感じる事ができる時もあるのだ。必要なタイミングで、感動的な音楽の記憶層を呼び起こして、寝る事ができる。そうでないと、ものすごく音楽を聞くという循環に囚われて、純粋フラットでなくなって、より自分を苦しめてしまうのだ。正直、この記憶層の応用編をマスターすれば、幸せで居続けられるのだ。純粋フラット的に最適に思い出す必要があるものを思い出したいのだが、妄念や雑念で、なかなか深い層からのイメージを取り出せずに、四苦八苦に陥っているんだ。テレビも、深い瞑想で見えるのだ。実物で見ないといけないと思うのも、根強い思いこみだ。ただ、私も、なぜ、人は、神を信じるだけ信じて、結局神の言うとおりには進まないのだ。それをご都合信仰や御利益信仰と呼ぶのだろう。自分の思うように叶えてくれなくなった途端に、離れようとするのだ。それは、その人にとって最重要の無意識マップを進めるチャンスなのだが、それを自分達勝手の思い込みで、信仰しているのだ。人間を思う神の気持ちも、察するにため息ばかりなのだろう。人間と一緒にいると魂が濁るのだろう。それは、誰にとっても一緒だ。仲間と共に作ったやったというのが、時に足かせになるのだろう。橋下元府知事の様々な足取りを思うと、なかなか困難なんだなと思ったものだ。人間社会というのは、綺麗事だけでは、乗り切れないのだ。というより、それでは実現させる事ができないのだ。橋下さんも、神人合一状態であれば、乗り切れただろう。が、勿論高い純粋意識と低い純粋意識と、エゴ意識にかなり葛藤しながら、切り盛りしていたのだ。橋下徹さんの生育環境を見れば、どうしても人を信じきれない所があったのだろう。やはり、10代の時に、神人合一の概念が抜けていると、どうしてもその人は苦しんでしまうのだ。昔の武士の人は、早くに神人合一状態になったものだ。だから、あのような戦乱の世で、魂で何とか切り盛りできていたのだ。橋本竜馬は、神人合一していないのだ。だから、殺されてしまったのだ。神人合一状態だと、殺気や異変に気付くのだ。むやみやたらに動かないのだ。武田Shinngennは、神人合一していたのだ。織田のブナ我は、していないのだ。豊臣秀吉もしていたのだ。戦乱の世なので、今のような純粋フラット観ではないのだ。激動の中でも、剰余を発生させ続けるために、必死に動いているのだ。激動のリーダーでも、神人合一している人としていない人では、くっきり明暗が分かれるのだ。徳川家安に関しては、自分で考えて欲しい。彼がしているかしていないかだ。ギャグをしている人が一番真相を知っているのもまた面白いものだ。ギャグの中に正解があるかないかはあなた次第なのだ。正直馬鹿らしいのだ。無意識次元で、イメージをキャッチできる人かどうかの選別なのだ。やはり、ハンターハンターのように、念が使えるかどうかは、とても重要な要素なのだ。使えない人は、使えるようになってからいらっしゃいというバイヤーの女性を思い出したものだ。念というのが、どういうものか知るには、相当な鍛錬が必要なのだ。神人合一状態の人は、相手がどこまでも怒鳴って責めてきても、機敏に対処できるものなのだ。時に頭を下げ、時に笑い、時に怯える姿を見せる、色々な対処法ができるのだ。それは、主に尋ねる事で、物事のジャッジメントが正確なのだ。なので、一瞬不安になっても、すぐ聞いて、悔い改めるか、相手が悪いかという判断ができるのだ。そうでないと、物事の一瞬一瞬の判断の正確性というのはできないのだ。これをエゴ意識でやると、しちゃかめっちゃかになるのだ。ただ、14念前の私のように、怯えて考えるだけもしくは怒り合うになりがちなのだ。そうやって、家庭不和というのは、起こるのだ。それは、念が使えないからなのだ。無意識マップを一旦クリアしないと、念が使えるようにならないのだ。そうすると、よくわからないものにずっと流され続けるのだ。政治というのはそういうものだ。神人合一状態にどうすればなれるか
①まず思いこみをはずす
②カルマの消去
③心の中心の声を関知しているかどうか
 

語学学習の順番 英語 四技能 順番 ホームページアクセスアップ seo

英語学習の順番、
ライティング、スピーキング、ヒアリング、リーディングなのだ。
この順番で、勉強するのだ。順番だけなのだ。中学1年生なら、ぼくは歩きを英語で書きなさい。「I ワオーク」でいいのだ。次から、「I wolk」で、「i walk」でいいのだ。私は、温泉の近くを歩きました。「I walk 温泉」「I walk in onsen」「I walk near onsen」「I walk close to a spa」と表現が変わってくるのだ。「I walked ちかく、温泉」でいいのだ。何かと、それは、二年生で習う事だからと言ったりするのだ。
なんで、前置詞変えるの?という疑問になるのだ。とにかく、書くのだ。そして、話すのだ。英語は、語学だ。極論すれば、自転車を漕ぎたいのに、座学で勉強しているのと同じだ。人間は、不可能と不可能じゃないことの選別ができてないのだ。かたや、自分でやることに関しては、不可能はないのだ。私は、国語の重要性を訴えている。が、英語も国語にすればいいのだとも言える。よっぽど、自分の学習習慣を変えるより、人の心を変える方が難しいのだ。私は、庶民の味方でありたい。が、外国から圧力をかけるという手もある事に気が付かされた。これは、やはり私は、国際派ではないから、そのような発想がなかったのだ。外国にとって、日本の教育が進化するメリットはあるのだろうか、、、、。留学生の不満を代弁しても、少数派だ。どうなんだろうか。アメリカの学生が、日本の大学に行きたくないのを変えたいと、日本の大学陣営は考えているはずだ。変えて良いものと悪いものがある。私は、ある革命家を参考に、車の運転意外の免許をとらないとしていた。が、それはやはり手段なのだ。その革命家とは違うのだ。人が、しがみつきそうな部分を徹底的に削るためのものなのだ。英語力を武器にしたほうがいい気がしてきた。グローバルというのが好きなこのご時世だからだ

 

追記

人間は、検索結果で、なんとなく合うものを選ぶようになってる。このなんとなく知りたがってる人が多い事を書くと、アクセス数が上がる。検索ワードが、国内留学なら、国内留学に関するまとめみたいものが、初見の方が見たいものだ。国内留学なら、どこまで企業人事で好印象になるかどうかとかである。知識が増えてくると、具体性があるものも見たいものだ。リスニングの教材とかである。

道州制導入

非現実的道州制という視点
非現実的道州制を真剣に考えてみよう。私は、「非現実的だ」と思って一度も、道州制に対して、考えた事がなかった。正直一度もないのだ。それは、なぜだろうか。やはり、現実味がないのと、日常生活に関連づけづらいからだろう。国家体制というのは、そういうものだ。道州制で、5の州と一つの国としよう。
①北海道、東北、北陸、関東。
②中部(北陸のぞく)、近畿、中国、四国。
③九州、沖縄だ。そうすると、困ったことに3の州+1の国家になってしまう。となると、5にならない。ここで、「3でも良くないか?」という意見がある。ごもっともだ。よし終わり。と思った時、
ふと、「さすがに北海道から、関東までは遠くない?」という疑問も浮かぶ。
アメリカですら、あの広大な領土に、51州あるのだ。となると、「次は、アメリカの平均的な州の大きさは、どうなのかと、前例を確認しようとなる。」だいたいの勘を使う時だ。
「日本が38万平方メートルと聞いたような記憶があるから、アメリカは、日本の12倍ぐらいだったかな?。470万平方メートルぐらいかな。400万平方メートルかな?じゃあそれを51州で割ると、アメリカの1州あたりの土地の広さは、8万~9万平方メートルか。じゃあ、日本が、アメリカ様と同じにする場合、9万平方メートルにするには、38万割る9万で、4.2州程度だ。
となると、3州だと少ないかもしれない。となる。4州にするには、5州にするには、となる。今の区分けでは、8地方か9地方程度+1国家だ。
4州にするには、東北6県から、1州で12県あたりか。北海道東北関東連合州(A州)なのだ。
できるだけ、グーグルを使うのは、よそう。根性だ。
では、約12県のA州は、カリフォルニア州ぐらいの広さなのだろうか?と疑問に思う。
そして、次に、州の権限と、県の権限の違いと、アメリカ政府の権限と、日本政府の権限は、日本国家の権限と、アメリカ政府の権限は、どうなのかとなる。
正直めんどくさくなる。これが、B層の一般市民だ。そんなの調べると、日が暮れてしまうのだ。今の生活より良くなればそれでいいのだ。そういう政治家が出てほしいという他力本願だけなのだ。となると、このような検討を逐一している人は、よっぽどの暇人か、よっぽどな仕事をしているに違いない。
まとめるのは、それだけ大変な作業だと気付かされる。
複雑に検討すると、余計にわかりづらくなるのだ。
だが、現実問題として、決まってい
ないと現場が混乱するのだ。縦割りは、混乱を避けるためなのだ。秩序の提示だ。おかげで、行政サービスをあちこちで受ける事ができる。これは有り難い事だ。となると、こんな作業を検討している政治家はとても大変なのだと気付かされる。いつも、失言をネタにして、ごめんなさい。気付かせてくれて、ありがとう。なのだ。
国家体制を考える人というのは、大変な作業をしているのだなと感心する。
やはり、触れなくて良かったと思ったものだ。
納税だけはしっかりする一般市民でありたい。
ただ、このような思考過程を残している政治家は、どれほどいるのだろうか。
結果だけ渡されても、あまり面白くないし、ピンと来ないのだ。膨大な思考過程を残せば、納得いくのではないだろうか。が、そんなもんを読むのは、変人なのだろう。ただ、ある方向性を持たせようという思惑で、書かれたものよりも、素直な疑問からの思考過程の連続の方が、好かれるのには、間違いない。
どの人の思考過程も意味があるのだ。
偉人の思考過程だけではないのだ。
周囲がピンとしないので、啓発運動をする人は、過激にならざるをえないのだろう。だって、ぜんぜん無関心だからだ。なぜ、あんなに過激に物事を言うのだろうと思っていたが、やはり人々の無関心なのだ。が、その過激派も、他の事には、無関心なのだ。だから、変わらないのだ。
やはり、政治というのは、なるようにしかならないのだ。という事に気が付かせてくれるのだった。やる意味あるの?なのだ。
①州の権限
②州の区分け、広さ
③行政の単位
④行政の実務
なのだろう。まあ正直これぐらいの作業で、ギブアップなのだ。やはり、お金をもらわないと、このような活動はできない。と気付かされるのだった。
結局ゼロベースで考えると言いながら、アメリカ様との比較で、前例を気にするのだった。いや、比較は別に、ゼロベースだも言える。そうすると、やはり、「州にすると、高速料金が下がります!!とか、州にすると、行政サービスが更に広範囲で受けれます!州にすると、税金が減ります!州にすると、困る事が減ります!州にすると、、、、」単純なプロパガンタに陥るのだ。
そんなもの嘘だと誰もが気付いているのだ。いや、当の本人も薄々気付いているのだ。
物事は、書く等の表現をすると更にわかるという法則がある。まあ誰でも知っているがやっているかどうかだ。なぜ、税収が増えないのかというテーマも書ける時がくるのかもしれない。が、何事もまずやってみることだ。この新しいものを作ろうという表現活動をあまりしていないのが、日本人の教育内容なのだ。だから、道州制で、生活が豊かになるという妄想はさておき、道州制導入の是非という社会人小論文も、書けばいいのだ。物事を難しくしているのは、あなたの脳内記憶なのだ。作り上げた脳内記憶にやられているのだ。適当に驚異を感じているだけなのだ。人を繋げて、結集するのが、大事だと気付かされる。一人の人間が、表現できる量というのは、限界があるのだ。変えるのは制度でなくて、自分なのだと気付かされる。私は、小論文が嫌いなのだ。なぜだろうか、そう二項対立的に物事を書くのが型だからだ。それが嫌なのだと気付かされた。反証しても、反証しても、反証したくなる自分もいるのだ。視点というのは、沢山あるからだ。さも、わかっていますという書き方が嫌いなのだ。では、多前提的思考の悟りの小論文の書き方というのが、浸透してくれればいい。小論文の言葉遣いは、偉そうで嫌なのだ。めんどくさいというのが、私を救ってくれていたのだろう。型どおりに書いた方が楽だからだ。そうまるで、お手をするワンちゃんのようなのだ。こういう回答書いた方が、受けが良いというものに合わせていくあの感じだ。大人になったら、世界がわかると思っていた。また、大人は世界を知っていると思っていた。が、それは見当違いだった。論理や言葉で、難しくしている。子供の方が、世界を知っているのかもしれないという視点だ。記憶層が増えると、知った気になるのだ。これには、困ったものだ。小論文というのは、思考遊びなのだ。思考遊びをさも説得力がありそうな表現技法に変えているだけだ。「みんな仲良くしようよ」でいいはずなのだ。が大人になるとプライドが肥大化しているだけなのだ。私も、そうなのだ。恥ずかしいのだ。が、良い経験をさせてもらった。とっても恥ずかしいけど、価値ある経験だ。ごめんなさい。ありがとうございます。これが、原因なのだ。大人が子供になれない社会の雰囲気なのだ。どの人も、偉そうな事をしているだけなのだ。なぜ人は、記憶の奴隷になっている事に気がつかないのだろうか。私には、少しだけわかる。無意識の器を使えていないのだ。ただ、それだけなのだ。必要でない記憶の吸い上げがなくなるのだ。例えば、ユニバーサルスタジオジャパンの半券を見たときに、通常なら、そのキャラクターの記憶や、行った時の記憶や、将来行こうとしている人の記憶等が、吸い上げられるのだ。そうすると、それの繰り返しになるのだ。が、無意識の器というのは、今一番重要なイメージが浮かぶのだ。それだけしか浮かばないのだ。勿論、誰もが、意識の器にも浮上するとなるのだが、無意識の器は、「テニスの王子様のゾーン」なのだ。その人の無意識マップで、今一番何が必要かというイメージしか浮かばないのだ。「私は、朝早く起きること」なのだ。カルマを消去しないと、次にいけないのだ。次に行ったふりをする事はできるが、それは行ったふりなのだ。
□追記(2024年3月)
13道州制という区分けは、
北海道、北東北、南東北、北関東、南関東、北陸、東海、近畿、中国、四国、北九州、南九州、沖縄、である。
要は、面積である程度同じにしようという感じで、わりと道州制では13という数の多い区分けだが、分断に繋がらないだろうか?南関東の人から見たら、北関東の人は、田舎だろうが、同じ関東という括りでなんとか同郷的な同地方意識があり、維持できてる感はあるかもしれない。別に今のままで、そこまで問題じゃないでしょうという日本国民の保守性だろうし、確かに今のままで、まあいいという風潮の方が強いだろう。意識高い系の人や煩雑な労力がかかる一部の特定の人は、変えたいのだろう。ただ、革新的な事を考えると、何かしら分かることもある。