天国へは、どういけばいいかというものがあった。純粋な人ほど、悩む箇所が、人生の幾たびに、お金と純粋のどちらを取るかという問題だ。お金を取る人生が良いか、純粋を取る人生が良いかというものがある。俺も「お金持ちって、何か心を失っているように見える。良いように見られるお金持ちでも、何かそこまで純粋じゃないように見える。」と思っていた。そして、「純粋な人ほど、バカを見る社会に見える。なぜ、このような世界に神がしたのだろうか。また、純粋な人は、ずっと純粋な無償奉仕で、お金の件で、悩んでいる。また、純粋な人は、ずっと純粋な活動をしないといけないのか」と思っていた。が、これについて、ほぼほぼ神から解答を頂いた。純粋な人は、実は、人生のステージで、お金を取るか、純粋を取るかというので、とことんある一定量まで、純粋を取りきれるかという試練があるのだ。このハードルは、人が思ったよりも、結構高いのだが、それを取り切った人は、ほどほどにお金と付き合いながら、要は、お金を取ってもいいのだ。結局は、お金を取る生活に戻るわけだが、それはその人の魂のステージとしては、必要な事なのだ。端から見れば、負け組に見えるが、実を言うと、その時点で、ほぼ天国行きが決定するのだ。そして、あとは、ほどほどにカルマを積まないように、寿命を全うすればいいのだ。ただ、たいてい純粋な人は、ずっと純粋な活動をしないといけないと思い込みが激しくなるのだ。が、実を言うと、ある一定量までやれば、それで十分なのだ。これは、宗教・宗派は、関係ないのだ。ちょっと俺としても、その純粋を一定量している人に関しては、「もう、そこまで純粋活動をしなくてもいいけど、仕方ないか。本人がそういう行動をしているから」と思っている。この純粋活動の純粋意識というのは、人が思っているほど甘くはないが、実はそれをクリアしているにも関わらず、続けている人も多くいるのだ。ここで、純粋な活動を続けている人の誤解と、純粋な活動をしている人への誤解があるのだ。要は、純粋活動量の一定量を取り切った場合は、辞めていいのだ。ただ、神も人間関係に、極力不干渉という立場があるので、この真相は知られていないのだ。そして、人生でお金を取った人は、死んだ後に、それだけの報いがあるのだ。死ぬ前に、それを全て譲渡するような行動をした時に、初めて清算されるようになっているのだ。この辺りが、人間社会で、共通認識になっていないので、トラブルが起きる要因になっているのだ。日本で有数の純粋な人の組織でも、6人中1人ぐらいが、そのラインをクリアしていると神が教えてくれた。ただ、一端お金を捨てないと、最速では、その天国行きのチケットが提示されないのだ。ただ、一応、救済措置として、お金持ちに既になった人は、残りの人生で、いかにお金に対する執着を捨てられるかにかかっているのだ。捨てられなければ、地獄に行くだけなのだ。俺の知り合いでも、地獄行きがまもなく現れそうな人を知っている。ただ、それは仕方ない事なのだ。自業自得というものだ。なので、たとえ、実業家で、精神性が高いと言われる人でも、天国に行ける人は、少ないのだ。自分が作り上げた世界を収束させる捨てる行動をしないと、天国には行けないのだ。ただ、もともとそのどちらにもいかず、純粋にもなりきれない人は、天国には行けないのだ。その場合は、お金をものすごく執着して、その分後で捨て去る場合か、純粋活動になりきる場合でないと、天国には行けないのだ。これは、宗教をやっていれば、いいというわけではないのだ。どちらが純粋かという判断軸で、人生の一瞬一瞬を行動していくかに限っているのだ。なので、俺の知り合いで宗教を熱心にしているが、それでもっと大切な人に、時間を使わない人を知っている。これも、本末転倒なのだ。そこで、どれだけ葛藤しながらも、純粋を取れるかどうかなのだ。少し稚拙な表現があるが、これがほぼほぼの真相なのだ。実は、その純粋意識活動を一定量した人は、実は、そのような活動はしなくていいのだ。むしろしない方が、隙間ができるので、他の人が入る余地があるのだ。ほどほどに余生を楽しめばいいのだ。が、人間次の進路が決まっていないと、不安になるものだ。が、次の進路は決まるものなのだ。ここを乗り越えるのも大切なのだ。「なんで、こんなずっと私、純粋にやっているのに、伝わらないのだろう。」と泣くぐらいの場合は、実は辞め時なのだ。どうしても、過去のマザーテレサさんのような誤った献身像があるので、ずっとそれに自分を照らし合わせてしまうのだ。この辺りも、とても絶妙な部分なのだ。ただ、どのような人生にするかは、その人次第だと言える。私は、ただ、その人生の「真相」を伝えているに過ぎない。人間の思い込みと、神のジャッジはとても似ているものではないのだ。霊媒の人は、自分のある同志が、他の場所に行った方がいいと、神から伝えられているが、やはりブロックしてしまうものなのだ。それも人間なのだ。人間感情的には、同志と一緒にいたいというものがあるが、やはりそれは先延ばしに過ぎないのだ。身を切る思いというのは、なかなかできないが、それは自分達の今後のタメなのだ。俺の母は、日常生活で、カルマを溜めすぎている。食べ物を粗末にしている。ほっとプレートで、焦がしたものを、捨てる。焦がさなければいいおに、。俺も50回に1回は、大便をした際に、水を流す量が小で、きっちり流せるのに、大で流してしまう。が、それは微少のカルマになる。よって、その事に気付き、ごめんなさい。と謝るのだ。日本人として生まれたという事は、それなりに、そのような小で流した方がいいという情報や気付きも得れる可能性が高い。なので、その事も、しない場合は、カルマになるのだ。また、必要以上に、食べ物を買い込むのは、カルマになるのだ。俺の母親は、いつも無駄にパンを買ってくる。ごはんもおでんもあるのに、買ってくる。捨てるわけにもいかないので、非常に困惑するのだ。食べ物を与えているのが、努力だと勘違いしているのだ。食べない努力もしないといけなくなる。ただ、レタスが萎れてしまうのも、ラップをすればいいのにと、ラップをする羽目になってしまう。これは、ほぼ全ての人が、陥っている所なのだ。その微少なカルマが塵も積もれば山となり、目の前の不幸になる要因になっているのだ。実は、そのような一瞬一瞬で、カルマが溜まるのだ。徳というのは、純粋意識で、純粋フラット的に、行動した場合のみなのだ。勿論、それも行っているものだ。が、やはりこれだけ不幸が多い人が多いのは、カルマを日常生活のいたる場面で溜めているからだ。特に仕事だと、誰もが諦めて、その場に合った行動をするようになり、結果として、自分を苦しめずに済んでいる。が、他の仕事以外のプライベートで、カルマを溜めているのに、気が付かないのだ。このような日常の場面で、カルマを溜めているのだ。これが、ある一定量まで至ると、死に至るようになっている。死まで行くのは、相当なカルマの溜め込みがあるのだ。勿論、普通に天命を全うして、死ぬケースもある。誰もが、病気になった人をかわいそうと同情するのと、なっても仕方ないと達観するのと、なってよかったとホッとするケースがある。病気に関しても、なるのは、その人の自業自得なのだ。肉体的観点だと、同情になりがちだが、このカルマの観点だと当たり前な事が当たり前に起きているに過ぎないのだ。なっても仕方ないと達観するのは、それだけ相手がカルマを溜めているのを、なんとなく感じているからだ。なってよかったとホッとするのは、相手がカルマをため込みすぎて、それ以上は、肉体人生で、補えないという判断が、霊界で下されたからだ。天国への生き方としては、カルマを溜めない習慣を、いたる場面でしていく事なのだ。結果として、徳も積んでいるようになるのだ。例えば、一市民として、イチロー選手が亡くなって、そうなって良かったと感じるかと言われたら、ほとんどの人は、感じないだろう。それは、それだけのカルマを積まない生活をしているのだ。ただ、もちろん、全ての人がそうなるようには、この世の構図としては、なっていないのだ。が、例えば、他のスポーツ選手の場合は、亡くなっても良かったと思う人も、いるかもしれない。例えば、本田圭佑選手が、亡くなった場合に、亡くなって良かったと思う人が、イチロー選手より、多いのだ。それは、同じ数字が求められる世界だが、純粋意識にどちらの方が近い生活を続けているかという事に掛かっている。勿論、本田圭佑選手よりも、カルマを溜めている選手は、かなりいる。これは、例えとして用いているだけなのだ。勿論、人は、一部分を切り取らざるをえないので、このような書き方になる。人生は、その時々で変えられるので、それを本田圭佑選手もすれば変えていけるのだ。引退後でも、そのような活動をすればいいのだ。人生は、終わってみないと、そのあたりのジャッジは難しいのだが、ある程度固まった人生であると、おおよその未来部分も含めた判断になるのだ。やはり、過去の延長線上であるし、それだけ過去を積み上げた場合は、だいたい同じような思考パターンをするのが人間の性質なので、ある程度予想する事ができるのだ。人間は、自分の目の前に、不幸がないと、改心するのは非常に難しい生き物なのだ。ここに、いつまでも素直でいると、自分を苦しめずに済むのだ。純粋意識に従うと、少しばかりバカ正直で損をした気分になるが、その辺りを乗り越え続けると、天国への切符が手に入るのだ。人を押し退けて自分ばかり、注目させようとする魂胆は、カルマを溜めているのだ。メディアも、スポーツ選手の人格を、しっかりと報じる必要がある。それは、誤った人格像を人々に、与えてしまうのだ。そうすると、天国に行ける人が少なくなってしまうのだ。勿論、メディアの特性上、なかなか難しいところだ。話題性がある人を報じるのがメディアだからだ。が、やはりできるだけ純粋フラット的に報じるのが、どの人にとっても、実は重要なのだ。実を言うと、子供の時に、どちらかと言えば、どちらの選手を崇拝するかによるのだ。これは、かなり分岐になるのだ。現象結果世界だけ取るスポーツ選手と、現象と、深層と、死後の世界も取りながら何とか結果を出そうとしているスポーツ選手は、明確に違うルートを通っているのだ。ほぼ現象世界だけを取る行動は、自分を実は苦しめているのだ。
天国への生き方
天国へは、どういけばいいかというものがあった。純粋な人ほど、悩む箇所が、人生の幾たびに、お金と純粋のどちらを取るかという問題だ。お金を取る人生が良いか、純粋を取る人生が良いかというものがある。俺も「お金持ちって、何か心を失っているように見える。良いように見られるお金持ちでも、何かそこまで純粋じゃないように見える。」と思っていた。そして、「純粋な人ほど、バカを見る社会に見える。なぜ、このような世界に神がしたのだろうか。また、純粋な人は、ずっと純粋な無償奉仕で、お金の件で、悩んでいる。また、純粋な人は、ずっと純粋な活動をしないといけないのか」と思っていた。が、これについて、ほぼほぼ神から解答を頂いた。純粋な人は、実は、人生のステージで、お金を取るか、純粋を取るかというので、とことんある一定量まで、純粋を取りきれるかという試練があるのだ。このハードルは、人が思ったよりも、結構高いのだが、それを取り切った人は、ほどほどにお金と付き合いながら、要は、お金を取ってもいいのだ。結局は、お金を取る生活に戻るわけだが、それはその人の魂のステージとしては、必要な事なのだ。端から見れば、負け組に見えるが、実を言うと、その時点で、ほぼ天国行きが決定するのだ。そして、あとは、ほどほどにカルマを積まないように、寿命を全うすればいいのだ。ただ、たいてい純粋な人は、ずっと純粋な活動をしないといけないと思い込みが激しくなるのだ。が、実を言うと、ある一定量までやれば、それで十分なのだ。これは、宗教・宗派は、関係ないのだ。ちょっと俺としても、その純粋を一定量している人に関しては、「もう、そこまで純粋活動をしなくてもいいけど、仕方ないか。本人がそういう行動をしているから」と思っている。この純粋活動の純粋意識というのは、人が思っているほど甘くはないが、実はそれをクリアしているにも関わらず、続けている人も多くいるのだ。ここで、純粋な活動を続けている人の誤解と、純粋な活動をしている人への誤解があるのだ。要は、純粋活動量の一定量を取り切った場合は、辞めていいのだ。ただ、神も人間関係に、極力不干渉という立場があるので、この真相は知られていないのだ。そして、人生でお金を取った人は、死んだ後に、それだけの報いがあるのだ。死ぬ前に、それを全て譲渡するような行動をした時に、初めて清算されるようになっているのだ。この辺りが、人間社会で、共通認識になっていないので、トラブルが起きる要因になっているのだ。日本で有数の純粋な人の組織でも、6人中1人ぐらいが、そのラインをクリアしていると神が教えてくれた。ただ、一端お金を捨てないと、最速では、その天国行きのチケットが提示されないのだ。ただ、一応、救済措置として、お金持ちに既になった人は、残りの人生で、いかにお金に対する執着を捨てられるかにかかっているのだ。捨てられなければ、地獄に行くだけなのだ。俺の知り合いでも、地獄行きがまもなく現れそうな人を知っている。ただ、それは仕方ない事なのだ。自業自得というものだ。なので、たとえ、実業家で、精神性が高いと言われる人でも、天国に行ける人は、少ないのだ。自分が作り上げた世界を収束させる捨てる行動をしないと、天国には行けないのだ。ただ、もともとそのどちらにもいかず、純粋にもなりきれない人は、天国には行けないのだ。その場合は、お金をものすごく執着して、その分後で捨て去る場合か、純粋活動になりきる場合でないと、天国には行けないのだ。これは、宗教をやっていれば、いいというわけではないのだ。どちらが純粋かという判断軸で、人生の一瞬一瞬を行動していくかに限っているのだ。なので、俺の知り合いで宗教を熱心にしているが、それでもっと大切な人に、時間を使わない人を知っている。これも、本末転倒なのだ。そこで、どれだけ葛藤しながらも、純粋を取れるかどうかなのだ。少し稚拙な表現があるが、これがほぼほぼの真相なのだ。実は、その純粋意識活動を一定量した人は、実は、そのような活動はしなくていいのだ。むしろしない方が、隙間ができるので、他の人が入る余地があるのだ。ほどほどに余生を楽しめばいいのだ。が、人間次の進路が決まっていないと、不安になるものだ。が、次の進路は決まるものなのだ。ここを乗り越えるのも大切なのだ。「なんで、こんなずっと私、純粋にやっているのに、伝わらないのだろう。」と泣くぐらいの場合は、実は辞め時なのだ。どうしても、過去のマザーテレサさんのような誤った献身像があるので、ずっとそれに自分を照らし合わせてしまうのだ。この辺りも、とても絶妙な部分なのだ。ただ、どのような人生にするかは、その人次第だと言える。私は、ただ、その人生の「真相」を伝えているに過ぎない。人間の思い込みと、神のジャッジはとても似ているものではないのだ。霊媒の人は、自分のある同志が、他の場所に行った方がいいと、神から伝えられているが、やはりブロックしてしまうものなのだ。それも人間なのだ。人間感情的には、同志と一緒にいたいというものがあるが、やはりそれは先延ばしに過ぎないのだ。身を切る思いというのは、なかなかできないが、それは自分達の今後のタメなのだ。俺の母は、日常生活で、カルマを溜めすぎている。食べ物を粗末にしている。ほっとプレートで、焦がしたものを、捨てる。焦がさなければいいおに、。俺も50回に1回は、大便をした際に、水を流す量が小で、きっちり流せるのに、大で流してしまう。が、それは微少のカルマになる。よって、その事に気付き、ごめんなさい。と謝るのだ。日本人として生まれたという事は、それなりに、そのような小で流した方がいいという情報や気付きも得れる可能性が高い。なので、その事も、しない場合は、カルマになるのだ。また、必要以上に、食べ物を買い込むのは、カルマになるのだ。俺の母親は、いつも無駄にパンを買ってくる。ごはんもおでんもあるのに、買ってくる。捨てるわけにもいかないので、非常に困惑するのだ。食べ物を与えているのが、努力だと勘違いしているのだ。食べない努力もしないといけなくなる。ただ、レタスが萎れてしまうのも、ラップをすればいいのにと、ラップをする羽目になってしまう。これは、ほぼ全ての人が、陥っている所なのだ。その微少なカルマが塵も積もれば山となり、目の前の不幸になる要因になっているのだ。実は、そのような一瞬一瞬で、カルマが溜まるのだ。徳というのは、純粋意識で、純粋フラット的に、行動した場合のみなのだ。勿論、それも行っているものだ。が、やはりこれだけ不幸が多い人が多いのは、カルマを日常生活のいたる場面で溜めているからだ。特に仕事だと、誰もが諦めて、その場に合った行動をするようになり、結果として、自分を苦しめずに済んでいる。が、他の仕事以外のプライベートで、カルマを溜めているのに、気が付かないのだ。このような日常の場面で、カルマを溜めているのだ。これが、ある一定量まで至ると、死に至るようになっている。死まで行くのは、相当なカルマの溜め込みがあるのだ。勿論、普通に天命を全うして、死ぬケースもある。誰もが、病気になった人をかわいそうと同情するのと、なっても仕方ないと達観するのと、なってよかったとホッとするケースがある。病気に関しても、なるのは、その人の自業自得なのだ。肉体的観点だと、同情になりがちだが、このカルマの観点だと当たり前な事が当たり前に起きているに過ぎないのだ。なっても仕方ないと達観するのは、それだけ相手がカルマを溜めているのを、なんとなく感じているからだ。なってよかったとホッとするのは、相手がカルマをため込みすぎて、それ以上は、肉体人生で、補えないという判断が、霊界で下されたからだ。天国への生き方としては、カルマを溜めない習慣を、いたる場面でしていく事なのだ。結果として、徳も積んでいるようになるのだ。例えば、一市民として、イチロー選手が亡くなって、そうなって良かったと感じるかと言われたら、ほとんどの人は、感じないだろう。それは、それだけのカルマを積まない生活をしているのだ。ただ、もちろん、全ての人がそうなるようには、この世の構図としては、なっていないのだ。が、例えば、他のスポーツ選手の場合は、亡くなっても良かったと思う人も、いるかもしれない。例えば、本田圭佑選手が、亡くなった場合に、亡くなって良かったと思う人が、イチロー選手より、多いのだ。それは、同じ数字が求められる世界だが、純粋意識にどちらの方が近い生活を続けているかという事に掛かっている。勿論、本田圭佑選手よりも、カルマを溜めている選手は、かなりいる。これは、例えとして用いているだけなのだ。勿論、人は、一部分を切り取らざるをえないので、このような書き方になる。人生は、その時々で変えられるので、それを本田圭佑選手もすれば変えていけるのだ。引退後でも、そのような活動をすればいいのだ。人生は、終わってみないと、そのあたりのジャッジは難しいのだが、ある程度固まった人生であると、おおよその未来部分も含めた判断になるのだ。やはり、過去の延長線上であるし、それだけ過去を積み上げた場合は、だいたい同じような思考パターンをするのが人間の性質なので、ある程度予想する事ができるのだ。人間は、自分の目の前に、不幸がないと、改心するのは非常に難しい生き物なのだ。ここに、いつまでも素直でいると、自分を苦しめずに済むのだ。純粋意識に従うと、少しばかりバカ正直で損をした気分になるが、その辺りを乗り越え続けると、天国への切符が手に入るのだ。人を押し退けて自分ばかり、注目させようとする魂胆は、カルマを溜めているのだ。メディアも、スポーツ選手の人格を、しっかりと報じる必要がある。それは、誤った人格像を人々に、与えてしまうのだ。そうすると、天国に行ける人が少なくなってしまうのだ。勿論、メディアの特性上、なかなか難しいところだ。話題性がある人を報じるのがメディアだからだ。が、やはりできるだけ純粋フラット的に報じるのが、どの人にとっても、実は重要なのだ。実を言うと、子供の時に、どちらかと言えば、どちらの選手を崇拝するかによるのだ。これは、かなり分岐になるのだ。現象結果世界だけ取るスポーツ選手と、現象と、深層と、死後の世界も取りながら何とか結果を出そうとしているスポーツ選手は、明確に違うルートを通っているのだ。ほぼ現象世界だけを取る行動は、自分を実は苦しめているのだ。