verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

間違った方向 神

神は、間違った方向に行っても、助けてくれない。いや、猛烈に助けてくれているのだが、自分達で、より間違った方向に向かってしまうのだ。
これを、自戒の意味で、「神は、間違った方向に行っても、助けてくれない」のだ。これが、真実なのだ。
残念ながら、そうなのだ。「気付かない貴方が悪いのです」
気付かなくて、ごめんなさい。気付かせてくれて、ありがとう。
「助けてクレー」は、おかしいのだ。十二分に神は助けているのだ。だから、悔い改めないあんたが悪いのだ。自業自得なのだ。神を責めるのは、やってはいけない行為なのだ。
自分が全て悪いのだ。私は、メッセージをしっかり受け取らなかった。だから、間違った道にいった。だが、全ての存在からすれば、それも愛してくれているのだ。どれも、勉強なのだ。自分が嫌な道も受け入れるのだ
嫌な道になりたくないなら、その分そうならないように努めれば良い。が、どうせ嫌なことは起こるのだ。それが、人間の宿命だ。
私は、神を責めた過去がある。
が、私は、神を責めることはしない。
ごめんなさい。ありがとう。
私は、高校生の時に、バイトをしたかった。だが、母は、反対した。自分の思い込みが激しい人なのだ。私は、そこでカルマを作った。人というのは、最低限の事をしていればいいというわけではないのだ。私は、学校に通うだけだった。だが、それではダメだった。間違いに気付かないまま、親の言いなりになっていた。そして、浪人している時に、アルバイトを始めた。こんなに働くのは楽しいのかと、思ったものだ。ごめんなさい。ありがとう。確かに人生は、自由に生きて良いのだが、生きても、自分を不幸にする生き方があるのだ。それは、自分のためにならない。同級生に、ごめんなさい。神に気付かせてくれて、ありがとう。
どの人も、自分の魂の声に、素直に純粋に従えば良いのだ。
私の母は、いつまでも傲慢だ。性懲りもなく、罪を犯し続けている。自分が支配した事が、相手にとって、不幸にさせていることに、気付いていない。だから、私は、仕事で嫌な目に遭った。それは、因果応報なのだ。ごめんなさい。ありがとう。
ただ、私が甘えていた。自分で分別すればいいだけだったのだ。
と人を責める前に自分を律することである。神が間違った方向に進ませる場合も時にはあるのだ。それは、人間にとって修行の嫌なことなのだ。

バカな親 感謝

バカな親に付き合うと、身を滅ぼすのだ。
私は、子供達に言いたい。バカな親に付き合うなと。バカな親は、お互いを不幸にする行動をいつもしている。
その事に気付きもしない。いや、薄々気付いていても、バカな行動を悔い改めようとしない。
だから、バカな親と一緒にいるべきではないのだ。
「では、なぜその親から、生まれたの?」 となる。確かに、その親から生まれたのは事実で、魂が望んだことだ。
が、別にバカな親と同じバカな行動をしろというわけではないのだ。
魂は、使命を発揮したい。
その一心で生まれた。
が、それは、一事象に過ぎない。
未来は、決まっているわけではなく、今の連続なのだ。つまり、生まれた時は、そこが良かったのかもしれないが、あまりにバカな親の家に居続けると、自分までバカになるのだ。つまり今の連続により、
例えば13歳では、もう親といると腐るので、家から出た方がいいのだ。そうしないと、外部の情報と触れる機会が少なくなり、自然と何が良いか分別がつかないのだ。分別が付かない親といると、自分もバカになってしまうのだ。
結局自業自得だ。
神は、バカな行為には、バカな結果しか生まない。助けてくれと思うのは、バカなのだ。親がバカだとしても、子供は、バカな行為をしていいわけではないのだ。
だから、一緒になって、バカになることはする必要がないのだ。私は、恨まない。自分が、自分の魂を信じなかったから、起こったことだ。祈ることと謝ることだ。
ごめんなさい。ありがとう。これが、最終結論だ。
時は変わっているのだ。
感謝が大切だ。生まれたことには感謝をするのだ。

咄嗟に何か落ちる 割れる 意味

咄嗟に、何か落ちるというのはメッセージなのだ。
自分が何かタイミングをズらしたり、魔に負けたということなのだ。
私は、タバコが落ちた。マッチが落ちた。
これは、タイミングをズラして、しまったのだ。これに例外はないのだ。ごめんなさい。こういう時ほど、自分を顧みるのだ。ありがとうございます。
お皿が欠けたり、割れたりするのも、何かしらメッセージなのだ。お皿に感謝することだ。魯山人のお皿を、新宿伊勢丹で見た450万した。本当の金持ちは、キャッシュで買えるのだ。が、成約済みは、嘘も入っていると、私は見抜いた。それは、金持ちは、服装も金持ちなのだ。お金と純粋どちらも取ろうとすると、神の世界は、難しいのだ。私は、一旦お金は捨てた。こういう決断ができるかどうかだ。別にずっと、金無しでいろというわけではないのだ。一旦執着を捨てられるかどうかなのだ。綺麗なCDも捨てる。こういう決断が、自分を救うのだ。

究極の実在まで辿り着く方法 即身成仏

ある意味このblogの総決算のテーマである。長らくお待たせした部分である。
究極の実在まで辿りつく方法である。
究極の実在とは、この世界の超越した俯瞰した存在を知れるということだ。
追記


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究極の実在は、この三つの画像が両立するイメージ言語なのだが、3dにするには、少し時間がかかるので、これぐらいにしとこう。


今後は、より精密に辿り着けるマップを作成できるだろう。

究極の実在(別名、オリジナルスピリッツとでも呼ぼう)まで、
どのような最低条件があるのか?整理整頓してみた。

①神仏等の見えない存在を信じ切ること
量子力学等の科学現象を考察すること
③深い瞑想状態ができるトレーニングをすること(意識をシャットダウンする必要がある)
④純粋な気持ちで、ありとあらゆるものに感謝の気持ちを持つこと
⑤思いこみをトコトン外すこと
⑥自分でも、究極の実在に辿り着けると信じ抜くこと
⑦自身のカルマをできるだけ刈り取ること(自身のカルマが邪魔して、一番最深部に到達できないため。)
この7つの項目を長くやっていくと、どうやら辿り着けるようだ。

私も、辿り着くまでに、相当の時間を費やした。
起きている状態、深い瞑想状態、睡眠時の状態で、見せていただけるのだ。ありがたい事である。
究極の実在の動きとは、何かというのは、「ある3Dイメージ」としか表現しづらいのだ。
お釈迦様が見たイメージもおそらく、同じだろう。
ピカソの絵を、全体で捉えられないのと同じなのだ。一部分、一部分捉え直して、全体像を再構築していく行為と同じなのだ。

ちなみに、②の量子力学に関しては、「全貌を理解しろ」という訳ではない。量子力学をお釈迦様が見たわけではないのだ。だが、現代人は、一定の量子力学も勉強する必要があるのだ。また、人は、そのイメージを動画で見ても、結局意味が繋がらないのだ。
仮に、色々理屈をつけて、そのイメージはこれと、
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あったとしても、意味がわからないと、あまり意味がないのだ。
「あー、これなのか」という腑に落ちなければ意味がないのだ。論理的に辻褄を、合わせていく必要があるのだ。イメージも必要なのだ。

究極の実在に繋がる何かを探そうという気持ちで、物理現象を見ることを一定量すればいいのである。
例えば、「もし究極の実在が止まっているのであれば、細胞が分裂するのは、おかしいのではないか」という疑問や、「なぜ宇宙は膨張しているのか」という疑問や、「何かが増幅するのは、なぜか」という疑問などである。
そのような疑問を持つと、目の前の世界に、それらしいヒントがたくさん出されてくるのだ。例えば、水を浸した鍋に火をつけると、泡が沸騰する。そうすると、何かしら力が働かないと、何かが動くというものはない事に気が付かされる。また、水の鍋を上下に移動させると、泡が増幅するのがわかるだろう。このようにして、究極の実在が、何らかの「動きでなければおかしい」という視点を手に入れられる。

次に、①に関しては、「なぜ神等の見えない世界を信じ抜く必要があるか」というと、オリジナルスピリッツが別次元の存在であるからである。また、「最初からそんなのありえない」と決め込むと、それから先の無意識マップが進まないのだ。目の前の物理現象のみに、フォーカスすると、見えないのだ。

次に、③に関しては、深い瞑想状態にならないと、普段の記憶層が入り乱れて、その一番深いイメージを呼び起こせないのだ。私は、瞑想のトレーニングを受けたわけではないが、なんとなく目を瞑る癖をつけていたから、自然とそれが瞑想になっていた。よく寝ていたのも功を奏した。家族に、ごめんなさいありがとう。

次に、④に関しては、やはりそのような世界を引き寄せるには、普段から感謝をしている必要があるのだ。そうすると、自然と味方をしてくれるのだ。

次に、⑤に関しては、自分勝手な思いこみにより、イメージが固定されてしまうのだ。だから、すべての思いこみを解除する必要があるのだ。このすべてというのは、その人自身にとって、すべてという意味である。例えば、時間があるという思いこみも外す必要がある。
例えば、「究極の実在って、こんな精霊のイメージかな?」という思い込みだ。だいたい過去にどこかやネットで見た何かの絵のイメージだろう。これが、邪魔するのだ。見えない存在は、その人が信奉するイメージを脳内に見せてくれる働きかけがあるからだ。「イエス・キリストも、こういうイケメんだろう」とかである。思い込みが邪魔をするのだ。イエスに怒られてしまう、ごめんなさい。使わせていただいて、ありがとう。

次に、⑥に関しては、やはり長らくやっていく必要があるからだ。時間を投資しなければ、見ることはできないのだ。脇目もふらずにすると、目処が自然と立つのだ。

次に、⑦に関しては、やはり自分のカルマが邪魔をして、精神の最深まで、たどり着けないからだ。だから、刈り取りをする必要がある。

以上の事をすれば、自然と見えるようにしていただけるのだ。
神とは、意識体や情報体のようなものなのだ。あるものを認識した瞬間に、何かが変わるのだ。魂次元のやりとりが関知できると、今何かが動いているのをキャッチできるのだ。また、ピカソの絵のようなものを、どの意識層から取り出すと、このようなインスピレーションになるというのもあるのだ。
同じインスピレーションは、同じところからひっぱているのだ。このようなものを意図的に作り出すのを、イメージ言語と呼ぶのだろう。
このイメージとこのイメージとこのイメージが合わさると、こんなイメージを呼び起こせるというものだ。
絵画というのは、多量のイメージの結集体なのだ。
必ず、その書いている人は、あるイメージとあるイメージを結集しているのだ。それで、作品が出来上がる。出来上がったものを見ると、イメージの結集の構造がわからないから、「なんか、すごい。こんなの描けない」となるのだ。無意識マップというのは、ある意味イメージの結集体なのだ。

7.”究極の実在”との合一 : ☆ 月月・日日につより給へ ☆
http://blog.livedoor.jp/koko0310-kensan/archives/1022184132.html

http://blog.livedoor.jp/koko0310-kensan/archives/1022184132.html


究極の実在(主の働き)を、相手にイメージ化させるには、とても高いハードルがありそうだ。
が、もう3Dアニメーションで作って見せるのもありだなと思ってきたところだ
どうせ人は信用しないので、調べる人は、他の科学現象のイメージを調べるからだ。結論から知っても、やはり序論が欲しくなるのだ。 数学で証明されたものを、また魂で見たいのだ。どうやら、203○後半辺りに、目に見えない存在が、数学的に証明されるようだ。が、これは、信じなくて良いものだ。私には、数学的に証明できる頭脳はないと教えていただいているので、他の人が完成してくれる事を切に願うのだ。どの人も、そのイメージを獲得してほしいからだ。

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イメージ図として、この目玉焼きにも、その究極の実在が、増幅するイメージがある。この目玉焼きは、固定の数だが、実際は、剰余が発生し続けているのだ。気泡のような、剰余発生だ。


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「②量子力学等の科学現象を考察すること」に繋がるものだ。
この水が滴れるイメージにも、究極の実在が、動いているイメージがある。
「ただの水が落ちている」というのが、普通の意識の器で見た場合なのだ。全てが繋がってくると、そこにも、究極の実在の働きを意味付けることができて、感謝が絶えないのだ。やはり、膨大なイメージを見せる必要があるのかもしれない。
いったいどうすれば、主の働きを、魂で見抜けるようになるのだろうか。沢山のイメージを怒濤に見せることなのかもしれない。それがいつか、一つに纏まるのかもしれない。みんなで、力を合わせればできるはずだ。
やはり、私の意識がスイッチしている事は、ああああ、なかなか気付かれないのだった。だが、まだまだ始まったばかりだ。小学生にも、わかるイメージにするにはどうすればいいかと考える。
イナズマイレブンの必殺技も鍵になるのだ。が、やはり一瞬で掴めるには、魂が高められていないと、難しいようだ。ごんなさい。ありがとう。やはり、すべてのもの、、、有り難いのだった。主は、「呼んでいるのだ」。愛し合いたいのだ。

究極の実在は、動きなのだ。
人間の脳は、ずっと反復している超スピードの動きを捉えられないのだ。
つまり、ビデオも、写真が連続的に反映しているのだが、写真とは思えないのと一緒だ。これが、脳の錯覚芸術なのだ。そこまで、発達させてないのだ。
無意識言語を、しっかり頭で考えることも必要そうなのだ。
また、究極の実在の動きは、どんどん増幅している。火をつけた鍋を手で上下に振動させたときの、泡の力動の動きなのである。

【宇宙の法則】真理が現れた時に業が消える | 佐藤康行公式ブログ|人の心と宇宙意識~真我の覚醒

http://satoyasuyuki.com/blog/?p=341

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「⑦自身のカルマをできるだけ刈り取ること」に繋がるものだ。


何やら、究極の実在の動きを作っている人が他にもいるそうだ。
私の存在意義は、と落ち込むのだった。最近は、また、究極の実在の動きを、何度も見せてくれるのだった。
究極の実在の動きイメージというのは、何というか、複雑と言えば、複雑なのだが、シンプルと言えば、シンプルなのだ。
が、やはり、科学現象や日常生活とリンクさせるのが、いいのだ。 これからは、より顕著にそのような時代になるだろう。
本人が、見つけるのが一番良いのかもしれない。

追記
究極の実在の対になる可能性がある絶対無の世界も可能性も噴出したが、便宜上は、究極の実在と呼ぼう。
また、究極の実在に関して、深い瞑想修行を他の人に指導したが、なかなか難易度が高いことが可能性としてはある。
創造の外側がどうなつっているかは不明である。絶対無があるのかもしれないが、法則的にはないだろう。


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宇宙論を数学から追っている。



究極の実在まで辿りつく方法
究極の実在まで、
どのような最低条件があるのか?
①神等の見えない存在を信じ切ること
量子力学等の科学現象を考察すること
③深い瞑想状態ができるトレーニングをすること
④純粋な気持ちで、ありとあらゆるものに感謝の気持ちを持つこと
⑤思いこみをトコトン外すこと
⑥自分でも、辿り着けると信じ抜くこと
⑦自身のカルマをできるだけ刈り取ること
この⑦点を長くやっていくと、どうやら辿り着けるようだ。私も、辿り着くまでに、相当の時間を費やした。起きている状態、深い瞑想状態、睡眠時の状態で、見せていただけるのだ。ありがたい事である。
②の量子力学に関しては、「全貌を理解しろ」という訳ではない。究極の実在に繋がる何かを探そうという気持ちで、物理現象を見ることを一定量すればいいのである。例えば、「もし究極の実在が止まっているのであれば、細胞が分裂するのは、おかしいのではないか」という疑問や、「なぜ宇宙は膨張しているのか」という疑問や、「何かが増幅するのは、なぜか」という疑問などである。そのような疑問を持つと、目の前の世界にそれらしいヒントがたくさん出されてくるのだ。例えば、水を浸した鍋に火をつけると、泡が沸騰する。そうすると、何かしら力が働かないと、何かが動くというものはない事に気が付かされる。また、水の鍋を上下に移動させると、泡が増幅するのがわかるだろう。このようにして、究極の実在が、何らかの「動きでなければおかしい」という視点を手に入れられる。
次に、①に関しては、「なぜ神等の見えない世界を信じ抜く必要があるか」というと、究極の実在が別次元の存在であるからである。また、「最初からそんなのありえない」と決め込むと、それから先の無意識マップが進まないのだ。目の前の物理現象のみに、フォーカスすると、見えないのだ。
次に、③に関しては、深い瞑想状態にならないと、普段の記憶層が入り乱れて、その一番深いイメージを呼び起こせないのだ。私は、瞑想のトレーニングを受けたわけではないが、なんとなく目を瞑る癖をつけていたから、自然とそれが瞑想になっていた。
次に、④に関しては、やはりそのような世界を引き寄せるには、普段から感謝をしている必要があるのだ。そうすると、自然と味方をしてくれるのだ。
次に、⑤に関しては、自分勝手な思いこみにより、イメージが固定されてしまうのだ。だから、すべての思いこみを解除する必要があるのだ。このすべてというのは、その人自身にとって、すべてという意味である。時間があるという思いこみも外す必要がある。
次に、⑥に関しては、やはり長らくやっていく必要があるからだ。時間を投資しなければ、見ることはできないのだ。脇目もふらずにすると、目処が自然と立つのだ。
次に、⑦に関しては、やはり自分のカルマが邪魔をして、最深まで、たどり着けないからだ。だから、刈り取りをする必要がある。
以上の事をすれば、自然と見えるようにしていただけるのだ。神とは、意識体や情報体のようなものなのだ。あるものを認識した瞬間に、何かが変わるのだ。魂次元のやりとりが関知できると、今何かが動いているのをキャッチできるのだ。また、ピカソの絵のようなものを、どの意識層から取り出すと、このようなインスピレーションになるというのもあるのだ。同じインスピレーションは、同じところからひっぱているのだ。このようなものを意図的に作り出すのを、イメージ言語と呼ぶのだろう。このイメージとこのイメージとこのイメージが合わさると、こんなイメージを呼び起こせるというものだ。絵画というのは、多量のイメージの結集体なのだ。必ず、その書いている人は、あるイメージとあるイメージを結集しているのだ。それで、作品が出来上がる。出来上がったものを見ると、イメージの結集の構造がわからないから、「なんか、すごい。こんなの描けない」となるのだ。無意識マップというのは、ある意味イメージの結集体なのだ。

□追記
究極の実在に関して、あまりにも重要な事なので、封印されてしまった。これをどうしたらいいか?追っていきたい。

目に見えないものの呼称について

人によって、団体によって、目に見えないものの呼称が違うのが気になったことはないだろうか。私は、結構あるのだ。

結論として、目に見えないものに対して、何と呼ぶかは、どちらでも構わないのだ。様々な呼び名をする人がいる「グレーとサムシング」「神」「神様」「究極の実在」「仏」「主」などである。
が、そこが問題ではないのだ。

どういう気持ちでいるかなのだ。尊重し合う気持ちかどうかなのだ。
だから、呼び名はどれでも構わないのだ。気持ちというのは、波長が違うのだ。
例えば、同じ「ごめんなさい」でもしっかり謝っている場合と、適当にごめんなさいと言っている場合がある。それは、波長が違うのだ。
波長の法則だ。
魂は、愛を求めているのだ。
だから、掃除をする時は、ごめんなさいと思いながら、言える場面では言って、掃除をするのだ。そうすると、良いことが続くのだ。これは、小学校では教えてくれない次元の話だ。小学校で、しっかり掃除をするということは教えてくれる。が、どういう気持ちでやるのがいいかまでは、わからないだろう。ごめんなさいを思うのだ。そうすると、波長が高くなり、気分も良くなるのだ。じゃあ「ありがとう」の方がいいんじゃないかというのは、あると想うが、ありがとうより、ごめんなさいの方が、良いことが続くようになっているのだ。だから、ごめんなさい。なのだ。自然と、神の気持ちがわかるようになるのだ。「いつも、適当にやってごめんなさい」という風に。とにかく謝るのだ。人に対してだと、謝ってばかりだと、変な人と思われて、嫌な気持ちになるが、独りでにする行動に対しては、ごめんなさい。なのだ。それが、結局は、自分を助ける行為に繋がるのだ。私は、母にその事を伝えたが、わからないだろう。だが、諦めたわけではない。
団体によって、呼称が違うのは、どちらでも構わないのだ。郷に入れば郷に従えでもいい。そこが大切ではないのだ。
「主」という単語を使うのは短いのと、キリスト系の人のためだ。
「仏」という単語を使うのは、短いのと、仏教系の人のためだ。
「神」という単語を使うのは、短いのと、神道系の人のためだ。
「究極の実在」という単語を使うのは、長いのだが、無宗教の人のためだ。
「オリジナルスピリッツ」という単語を使うのは、その他の人のためだ。

呼称に関して、統合が進めば良いだろう。脳内イメージの共有だ。

目に見えないもの | 臥竜
http://www.caguya.co.jp/blog_hoiku/archives/2014/02/%E7%9B%AE%E3%81%AB%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE.html

目に見えないもの | 臥竜塾

うまくいかなかった時の人への魔

うまくいかなかった時期に会った人に、その当時、迷惑をかけたとしよう。
期間が空くと、相手に対して、何か良いメッセージを送れなくなる魔がある。
頭では、送った方がいいと思っても、なかなか送るのには勇気がいる。送って良いのかも悩むからだ。たまたま見かけたということは、何かしら意味があるのだ。私は、何とか魂に従えたのだった。少しだけ頭頭から抜け出せたようだった。ごめんなさい。魂にありがとう。甘えてばかりでした。ごめんなさい。ありがとう。またまた自分を甘やかすのだった。
何か当時を思い浮かべると、嫌な気持ちになる過去の記憶層を取り出す脳の仕組みと魔なのだ。
今は、もう違う自分なのに、昔のイメージに操られているという事だ。ただ、それは水に流せれば良いのだ。お互い様なのだ。
勿論、人は過去の記憶層に操られている人が大半だが、頭で考え、違う選択肢を取れる存在なのだ。
人間は、大自由なのだ。一つでも一日に勇気を出せれば、一年間でとても変わるのだ。この状況を作ってくれた全てのモノ、、、に感謝したい。感動なのだ。人間は、分かり合えるのだ。ごめんなさい。ありがとう。「ともちゃんありがとう。」貴方が夢に出てきてくれたおかげだ。色々な魔に勝ってほしいのだ。昔の人に会う魔には、どうも頭で考えても難しいものだ。何も情報がないと、迷惑かもしれないと思うからだ。だから、頭で考えるよりも、魂で頭を変えるのだ。頭でっかちを変えるのは、魂を強くするのだ。明日は、朝五時に必ず起きよう。頭で考えても頭で考えても、頭で考えてもわからないものはあるのだ。だから、魂があるのだ。まだまだこれからなのだ。病魔に負けた経験というのも大きい財産なのだと教えてくれた。どんな人にも一生に一回は病魔がくるのだ。受け入れることだ。当時のお世話してくれた人に愛のエネルギーを送りたい。
魂は、万能か?という質問に。私は、まだ何とも言えないのだ。万能か万能じゃないかは、見方によるからだ。万能という見方で言えば、魂は純粋フラットな機能を擁している。これは、この世界の仕組みと同じなのだ。
が、万能でないという見方で言えば、やはり人間にとって、嫌なことは起こるのだ。ただ、どれだけ忠実かによって、頭だけの生活より、幸せになれるのだ。幸せというのは、感動の事なのだ。感動が起きたということは、幸せなのだ。物理的現象に対して、魂が守ってくれるわけではないのだ。頭で考える事も必要なのだ。仮に戦争になったら、魂が守ってくれるわけではないのだ。ここを、私は、間違えていたかもしれない。魂は、幸せには直結しているが、物理的現象には直結していないのだ。だから、自分の身は、頭で防ぐ必要があるのだ。電通の若手社員が過労死したが、それは、魂では防げないのだ。魂は、大きな役割を果たしてくれるだけなのだ。だからこそ、人間同士で、世の中を純粋フラットにしていく必要があるのだ。私は、過去に過労だった時期があったが、やはりそれは、魂では防げないのだ。頭で防ぐ必要があるのだ。神も、魂も、一緒なのだ。認識している世界を変えているのだ。神も、頭が痛いところなのだ。どうも人間は、頭頭とばかり考えるのだ。魂の声も、しっかり聞く必要があるのだ。やはり、物理的に当たり前の状況は、魂では、どうしようもないのだ。まだあまり教えたくない事ではある。なかなか頭だけで捉えるから、ヒントを教えよう。頭が魂だ。
純粋な人だからといって、神が、それ以外の人のお札をテレポートすることはないのだ。されたことがある人はいないだろう。が、何かしらお金が振ってくる事があるという事なのだ。臨時収入のようなものである。これが、進むと宝くじも当たるのだが、そこまで行けている人は皆無に近い。何かしら、不純な思いがあるからだ。例えば、その金で楽をしようとしたりだ。それがあると、当たらないのだ。神は、そのようなことを望んでいない。あたる必要がないとも言える。そうしなくても、いくらでもお金というのは、作れるからだ。成長に繋がる事をするのだ。むしろ、ご神徳で、宝くじがあたると、しきりに言う人には注意が必要なのだ。
昔の人にも、メッセージを送ってみると、また変わるのだ。自分の感謝状態で、取り出す記憶層のイメージは、善悪変わるのだろう。

所属欲求の魔 どこかにいないといけない自分

どこかに所属してないといけないと思い込んでないだろうか?

私は、所属欲求の魔に関しては、ほぼ長い期間をかけて、克服してきた。
が、たまに猛烈に集団に属していないことの魔がくるのだ。これは、いかんせん、自分を苦しめて、全部の活動をストップしたくなる魔にも繋がるのだ。
孤独という魔もある。
ただ、一人でいるのは、悪いことではない。勿論、みんなでいるのも、悪いことではない。
が、この所属欲求が人を弱くするのだ。
純粋な気持ちで、良い事をしてるのに、所属している権力者達に、やめるような圧力に屈する魔にも繋がるのだ。
私は、過去生で、闇の勢力に挑んだ経験があるようだ。そして、その後潰されて死んでしまった。そして、次は闇の勢力側にいたようだ。まあ、昔は死ぬのもあったから、仕方ない。が、やはり、そのトラウマは強いようだ。今、治療中だ。だから、準備が大切なのだ。こじんまりとやっていく甘えもある。やはり、怖いのだ。この精神的な怖さを乗り越える時がくると信じたい。
勿論、細胞から働きかける方法というのもあるのだ。私は、細胞への認識が甘かった。細胞を活性化させるのがいいのだ。
つまり、体験を増やすということだ。私は、魂の扉を開いたのだ。そうすると、そこの記憶層もより、自分に影響するのだ。私は、甘えていた。だから、甘えを取り除くために、甘いレメディを飲んでいる。ごめんなさい。ありがとう。
ただ、所属欲求の魔に対しては、まだ完封するのは、かかるようだ。絶対に誰かと一緒にいないといけないという分厚い固定観念
これが、人を苦しめる。私を苦しめているのは、自分なのだ。だが、自分が変わればいいのだ。細胞へのアプローチは、万能なのだ。それだけ長い期間をかけて、形成したものを結合させるからだ。
だが、心霊的なアプローチも、条件が整えば、できるのだ。だが、それには次元が高くなければ、働いていただけないのだ。今は、私に働いていただけるのは、風を起こすこと、電気を操ること、離れた物の物音を鳴らすこと、相手がどの魔に負けたか見極めること、、、。等だ。
やはり、自分の次元と、そのような新しい現象というのは、リンクするのだ。邪な念は、邪霊を呼ぶだけだ。イタズラするのが好きなのだ。
とにかく、どの人も高い波長をキープすることだ。

私の魔に負けまくった沢山の記事を見て、日常生活の魔と戦ってほしい。
その一心で金にならないblogを書いている。

貴方が、所属欲求の魔にやられているのだ。私ではないのだ。