verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

連絡の魔 スーパー編 金銭感覚の落とし方

私は、連絡する魔によく負けている。
例えば、何か購入するか、誰かに聞いた方がいいとインスピレーションが沸いても、やめようかと思う魔だ。
独りでに購入する魔だ。
これに負けた彼をきつく叱った時があった。今必要な物品は、それじゃないと。
しかし、叱られた彼は、素直だったので、それに気付けたのだ。
ばつが悪い魔に勝ったのだ。
それは、彼の徳になるのだ。
叱られるのを、素直に受け入れるのは、とても良いことなのだ。私は、叱られたい。叱られた時に、自分の怒りが発生しているかどうかが素直かどうかだ。
純粋な怒りと、感情的な怒りを、分別するのだ。
純粋な怒りというのは、お互いのために、怒った方がいいというものだ
確かに、端から見ると、同じ怒りに見えるのだが、魂のカルマのカウントとしては、違うのだ。
ただ、いつまでも感謝する事なのだ。
私は、今まで叱ってくれた人に感謝したい。子供の時に、「いい加減生活観変えなさいと物理の先生と英語の先生に注意されたが、変えなかった。その時は、なんだかなーぐらいにしか思ってなかった。ちょっとマズいかな」ぐらいだ。警告はいつも来ているのだ。ドキッとする自分だった笑
だが、カルマ研究をして、痛い目にあって、わかったのだ。先生、ごめんなさい。
感謝していれば、そのメッセージを素直に受け取れるのだ。
全て自業自得なのだ。
私は、魔という存在を、全ての子供達に知ってもらいたいのだ

例えば、これは、聞いた方が良いかもと浮かんだ時は、必ずするといいのだ。お互いにとってだ。
これは、実は連絡した方が、お互いにとって良い展開なのだ。
相手がでなかったとしても。
が、場合によっては、やっぱり止めた方がいいかもという魔もあるのだ。
どちらがいいかは、魂が知っているのだ。
私は、エコバックで、卵一個と焼きそばだけを買うのだった。
いつも来る場所でも、初心者のようにどこですか?と聞く魔もあるのだ。
そして、自分が必要なものだけを買うかという魔があるのだ。レジに並んでも、やっぱり戻すというのもあるのだ。「レジ並んじゃったし、いっか」というのは、その魔に負けているのだ。私は、何度も返すことも、場合によっては、あるのだ。
勿論、窃盗はしない。これは、教育を受けたお陰だ。
見栄を張ると、余計に購入するのだ。そして、お金がなくなるのだ。
大人になっても、子供の頃に食べたうまい棒売り場に行く魔もあるのだ。
いつまでも、その金銭感覚を持ち続けるのと、感謝するためだ。
食欲と見栄を克服すると、そんなにいらないのだ。
スーパーの店員にも、しっかりお礼を言う魔もある。
晩御飯のやきそばを作るのだった。
やはり、「初心忘れべからず」、なのだ。
自分が会得したモノは、いつまでも続けるのだ。
明日は、5時15分に起きよう。
魂に合わせるだけで、物事は全てうまくいくようになっている。
どれだけ合わせられたかが、幸せを決めるのだ。
その事を気付かせてくれた事に感謝したい。いつも、魂と逆の選択をして、ごめんなさい。それでも気遣ってくれて、ありがとう。
食事を作らないという魔もあるのだ。「今日の晩御飯は抜きよ!」というのも、お互いにとって、必要なときもあるのだ。
ごめんなさい。ありがとう。
まただ、愛だあ愛だあ叫ぶのは、早いようだ。甘えてばかりいて、ごめんなさい。
自分が暗くても、楽しく振る舞う魔というのもあるのだ。 その積み重ねなのだ。
今から少しずつ変わっていくだけなのだ。ごめんなさい、たくさん疑う魔に負けて。
誰かに何かを作ったあげたいという意識は、とても大切なのだ。意識が、愛なのだ。 いつも、意識してくれて、ありがとう。キャッチできずに、ごめんなさい。
が、しっかり感謝していないと、脳でキャッチできないのだ。ごめんなさい。ありがとう。
私は、誤字と脱字を訂正する魔には、ほぼ間違いなく勝てる、
それは、母校のお陰なのだ。
ここにも、自分がいた空間を表現する魔というのもあるのだ。私は、よく負けていた。圧倒的に。だが、それは自分を苦しめるのだ。なぜなら、自分の人生そのものなのだからだ。そこにどれだけの時間いたかということだ。色々な葛藤があったはずだ。
それは、全て魂のためになるのだ。

さて、文字を間違えている事はあるのだが、発見した時に、必ず訂正するのだ。その学校は、文字や学習というのを大切にしているからだろう。
どこの学校も、大切にしている文化があるのだ。そこに感謝するのだ。
私は、寄り道が好きだったが、普通に誰かが好意で作った道というのは、ありがたいのだった。ごめんなさい。
進学校なのに、適当な勉強しかしなくて、と家族に謝りたいのだった。どの学校も、自分を磨いてくれるためにあるのだ。どの場所も自分を磨いてくれるためにあるのだ。人間は、ダイヤモンドのように、磨き続けるために、生まれてきたのだ。それは、才能の発揮というだけではないのだ。才能探しをし続けるのではなく、自分磨きをしていくのだ
この事を、神から教えていただいた。

やはり、夢というのは、うまく活用すれば、カルマの発見になるのだ。
私は、今日初めて幽体離脱ができたのだ。俯瞰している自分を見れたのだ。前にしていたと思っていたのは、違っていたのだ。途中で怖くなったので、ビビって戻ったのだった。明日から、また面白いものが見れるかもしれない。ありがとう。ごめんなさい。
やはり、しっかりと認めることは、自分を助けるのだった。ああ、エミール君。あなたは、いつまでこの生活を続けるのだ。と問いかけたいのだった。
「窓を拭いて」という相手に対して、「嫌だ」という事をいう魔というのもあるのだ。
そして、「ごめんね。blog見てくれたら」と交換条件を叩きつける魔もあるのだ。優しい彼は、それができなかったのだ。だが、私は、そんな彼も認めたい。なぜなら、私もそうだったからだ。なかなか交換条件を叩きつけるのが、苦手だったのだ。どの人も、交換条件を叩きつけて良いのだ。人間は、お互い様なのだ。私は、「 その代わりに、これやって」と言える人が羨ましかった。「ああ、そうやって言うんだな」と感心したものだ。ありがとう。ごめん。彼のお陰で、私は、「人に交換条件を叩きつけていい」という事を知ったのだった。交換条件を叩きつける魔に負けている相手に対して、「ごめんね、交換条件叩けないよね」と寄り添うのも、大切なのだ。商売でも、交換条件を叩けない人もいる。ごめんねから、入るのだ。
いつも、湯タンポを作ってくれて、代わりにやってくれて、ありがとう。
自分からやらなくて、ごめんなさい。と謝るのだった。
相手の言っていることがわからない場合、素直に聞くという魔があるのだ。
「お母さんの、一番わかってほしい気持ちわかる?」というのに、素直に「わからないです。教えてください」と頭を下げられるかなのだ。つまり、「自分が悪くないと思っている」から、相手の真意を掴めなくて、無意識マップを完成させられないのだ。
つまり、相手の真意がわからない場合は、どんなに自分が間違っていないと思っても、頭を下げられるかどうかなのだ。それができないという事は、頭が固いのだ。できない自分をごめんなさい。ありがとう。なのだ。
どの人もお互い様なのだ。
ここまで謝りのマップを進めている人は、皆無に近いのだ。と神が教えてくれた。だから、それができないということは、そこまで謝りの愛がないのだ。できない場合は、祈りをすることなのだ。そこまで、勇気や愛がなくて、ごめんなさい。ありがとう。なのだ。
これは、感謝と考察が進まないと、わからないのだ。
この人に変わって欲しいという愛があるなら、まず自分から、頭を下げるのだ。それをしないなら、ごめんなさいなのだ。私は、ごめんなさい。と祈り続ける。明日の朝5時15分に謝るのだ。それを有言実行するのだった。どの世界も繋がっているのだ。どの人も、自分が誤っているとは、思わないからだ。
怒る時も、相手に対して、純粋な気持ちで怒るのだ。理性的な自分を俯瞰しながら、怒る自分を演じられるのだ。これは、しっかり教育を受けた人にしかわからないのだ。教育を受けさせてくれて、ありがとうございます。ごめんなさい。
例えば、自分が優位な立場で、相手が、説得できていないという時は、できる限り、下手に出る行為もするのだ。やってくれている事に気付かされるのだ。それが、視点転移なのだ。やはり、素晴らしい人だった。
ごめんなさい。ありがとう。自分の無意識マップが進んでいる箇所があろうが、相手の無意識マップが進んでいない箇所を見つけたとしても、ごめんなさい。ありがとうなのだ。うまく伝えられなくてごめんなさい。いつまでも、感謝すれば、色々と悟れるのだ。
ここまで、教えてくれて、ありがとうございます。ある人に対して、何かインスピレーションが浮かぶというのは、有り難いことなのだ。
私は、誰よりも謙虚だった、自虐だった、だから応援してくれるのだ。ただ、いつまでもごめんなさい。ありがとう。と思いたいのだ。魂は繋がっているからだ。魂魂、言うなら、神神言うなら、お互い信じていくのが、純粋なのではないだろうか。ごめんなさい。ありがとう。
やはり、全ては全てのために、全ては一人のために、一人は全てのために、あるのだと思うのだった。ごめんなさい。
自分が文字を書けるというのは、有り難いのだ。「世界には、文字が書けない人もいるのだ。」というのが、浮かんでくるのが、無意識マップに王手がかかっている感謝状態なのだ。それが、多種多様なモノに対して思えるかどうかなのだ。私は、きれいに文字を書く魔に負け続けている。少しきれいに書いていこう。何度も注意してくれた沢山の人にごめんなさい。ありがとう。なのだ。
一つの動きのイメージから、感謝するのもいいが、普段目に見えるものから感謝するのも、また素晴らしいのだ。私は、昔から意固地で、「感謝って何だよ」と思っていた。だからこそ、どういう状態か伝えたい。あまり、寄り道して、苦しんでほしくないからだ。自分が、多数の人の共感を得たとしても、「やっぱり自分が間違っていたかも」とインスピレーションが浮かぶのが、純粋な感謝状態なのだ。ごめんなさい。彼女は、そんな状態だったのだ。誰もが、お互い様なのだ。ごめんなさい。ありがとう。と思い直すのだ。調子に乗って、ごめんなさい。誰にとっても、得しか実は起きてないのだと気付くことなのだ。魂は、甘えも許しているのだった。ごめんなさい。ありがとう。「自分が悪くない」と、誰かに共感を求めたり、自分勝手に解釈するのは、全て甘えなのだ。どんな時も、「ひょっとしたら、自分が悪いかも」と思う事が、大切なのだ。
今、仲が良くない、喋らなかったとしても、ある人が浮かんだら、愛のエネルギーを送るのだ。甘えていた。ごめんなさい。ありがとう。人それぞれ使命があるから、エネルギーを送り合えるのだ。やるかやらないかは、自分次第なのだ。魂は、繋がっているからだ。どれだけ、昔喋ったことがなくても、今連絡先を知らなくても、今浮かんだということは、愛のエネルギーを送れるのだ。ごめんなさい。いつも、無視して。ありがとう。どんなに気弱な人でも、できるのが祈りなのだ。必要がなければ、カットされるのだ。私は、もう一度その人に送ろうとしたが、思考をカットされた。それ以上は、不要だったのだ。こういうのが、魂に従うという事だ。これを、どこまでもやらないといけないとなると、途端にやらなくなってしまうのだ。だからこそ、魂に従うと、目に見えない世界での、いらない行為もわかるようになるのだ。見える世界でのいるいらないは、普通に常識に従えばいいのだ。明日は、カットにいこう。コストカットだ。

宗教家 オチ 何かの拍子

私は、宗教家というのは、調べきっているわけではないと思うのだ。
確かに、あらゆる視点を調べている。
が、あと一歩違う気がするのだ。
ここは、まだまだ解けないのだ。
何かわからないが、何でもそうなのだが、何か一つの拍子で、一気にオチがある気がしてならないのだ。
見えない世界というのは、調べれば、調べるほど、ほぼ全てが、そういう解釈ね。確かにね。というのがあるのだ。
が、何か最後の一歩が、どうも怪しいのだ。ここが、甘えなのかもしれない。やはり、かなり甘えているのだ。ごめんなさい。ありがとう。それは、自分で決めることなのかもしれない。そうすると、私はなぜ、こんな頭でばかり考えていたのだろうかと、頭が痛くなるのだ。甘えてしまっている。明日は、5時30分に起きよう。
この妙な最後の怪しさが、情報化社会の現代人には怖いのだろう。私も、そうだからだ。
最後の一歩を自分で決断しきらない魔だろう。私もおおいに悩むのだった。
ああ、あまり調べなければ良かった。いや、調べたお陰で、助かることが多くなった。そうこうやって、すぐにプラスに持ってけるようになったのだった。これが、波長が上がった状態なのだ。魂は、わかっているのだ。私は、自分の中心の中心を信じたいのだ。ただ、まだ確証がないのだ。それが、怖いのだ。
選択肢が増えると、どうしたものかと甘える魔にやられるのだった。決断したものしか、覚悟ではないのだ。私は、一生感謝し続けようと決めた。そう、こういうのも決断なのだ。ただ、やはり思いきった分だけ、花が開くという法則があるのだ。私は、思いきりたいのだ。が、ここに来て、また長考するのだった。結婚相手も、思いきりたいのだった。今まで検証した視点か、はたまた逆なのか、最後のオチは、どちらか。ただ、考えても、やはりわからないのだ。いや、まだ検証が甘いのかもしれない。メキメキ近づいているのだ。どちらなのか。だ。私自身でわかるのか、死相家としての限界なのか。まだまだ、もっと甘えをとりきれば、わかるかもしれない。どちらでもいいのか。
罰は、必ず下る
ただ、それも慈愛なのだ。 結婚したいなと思うのであった。

信じ抜けないという魔

何かを信じ抜けない事はないだろうか?
私は、たくさんある。それは、自分を信じすぎているからでもある。

そうはいっても、信じ抜けないという魔がある。

が、これも神は、認めてくれているのだ。一定量神にしたがうと、良いことばかりして、自分を苦しめないで、というやりすぎをセーブしなさいというメッセージが来るのだ。これには、驚いた。が、ああ、そこまで感謝状態ができているのだなと、思ったものだ。が、気を抜きすぎてもダメなのだ。ちょうど良い頃合いがあるのだ。
私は、疑いすぎて気が狂ったので、救済措置をしていただいた経験がある。目に見えないものは、いくら考えても、最後の決め手に欠けて、分からないからだ。
神は、人がそこまで、信じ抜けないという事も、熟知しているのだ。
私は、信じ抜けていないという魔にやられていた。愛されているという事を忘れていた。魂は、それを知っていた。

まだ諦めるのは早いといつも言ってくれていた。私は、諦めるのが魂のためだと思っていた。が、どうやら、そういうわけではないようだ。魂は、生きていきたいと願っているのだった。また、強烈な修行もしたいと思っているのだった。この二つの矛盾した仕掛けがあるのだった。
神は、愛してくれていた。私は、愛されていた。あまりに愛があるので、こちらが困惑したものだった。愛は、魂を安らかにしてくれる。
誰でも、一瞬の葛藤がある。魂は、それも愛だと思っている。魂は、永遠なり。
まだまだ甘い所がほとんどだが、ミワインテという所は、魂の学校である。
まだまだ魂の事をよく知らないが、、いずれよく知ることになるだろう。我々が、愛を注いでいるからだ。
魂は、とてもワサワサしているモノなのだ。わたしは、何がさっぱり解らなかった。どおりで、魂、魂言うのだろうと思っていたものだ。魂さ魂さ。
魂とは、何だろうか。
私は考えたが、あまり関係ない気がした。まだまだ知るべきタイミングではないのかもしれない。
私は、孤立したと思っていたが、誰もが愛してくれていた事に気が付いたのだった。まだまだ甘いが、あまりに滑稽なので、教えてくれたようだ。
私は、卯滑稽だったようだ。
愛は、全ての人に等しく注がれているのだ。余多の試練を乗り越えると、その事に気付く。
自分勝手に藍を解釈するから、差があるように捉えているに過ぎない。
愛があれば、世界は、魂のルフランになるのだろう。エヴァンゲリヲンの甘えが甘えが甘えが甘えが愛を作っている。

ああ、何と愉快な人であろうか。騙した愛にも気付かずに、私はサタンの甘えを正そうとした。が、逆にサタンに甘えを正されてしまったのだった。
ああ、いつになったら、サタンの甘えを正せるのだろうか。サタンとは私自身であったり、貴方自身であったりするものだ、誰もが持っているモノなのだ、甘いとサタンの正体に気付けない。サタンの攻撃にも気付かない。いや、気付いても、止めようとしない。困ったものだ。このオカマは、誰の愛を受けているのだろうか。貴方だろうか、自分だろうか。魂だけは、知っている。
ごめんなさい。ありがとう。チャンスをフイにしたという魔に対して、自分も認めてあげる事だ
チャンスというのは、またいつか頑張っていれば、与えられるからだ。
一回しかチャンスはないというわけではないのだ。
自分自身の魂を信じ抜くのだ。


追記
うーん。まあ、信じ抜けないというのは、一般的にあるのかなと思う。やはり、あまりうまくいってないと、信じ抜くのは、バカみたいに思う魔や気持ちがある。私は、神様が病気をいつか治してくれると思っているが、そんな何度も時間をかけてお祈りする事はしていない。熱心にし過ぎると、落胆があるからだ。これが、恐い。アイデンティティーが崩れる気がする。これが、正しいポーズかは、わからない。急かしても、無駄なような気がするからだ。神様も事情があって、こうしてるというのもあるんじゃないかと、思う。だから、自然の摂理に従って、生きてる。

自分にできるかなという技術の魔 仲間外れ 対応

技術の魔というものがある。
自分に、そんな能力が、あの人よりもないのではないかという魔なのだ。
特に、自分の能力が、顕在化があまりできていない時は、そういう魔が来るのだ。
が、ここに負けると、無意識マップが進まないのだ。
私は、自分の可能性を信じ続けた。信じるだけだった。特に、それ以外は、必要なかった。例えば、ペーパードライバーから、どこでも停められる普通のドライバーになった。他にも、例はある。とうとう、blogの記事も500の大台を越えそうだ。
終結論として、私が、私を信じれば良いのだ

私は、とてつもなく気にしいなので、なかなか輪に入るのが勇気がいるのだった。サッカーで、「仲間に入れて」と言うのが、とても勇気がいった。
が、何とか勇気を出し続けた。そうすると、意外とイケるものだなと感じたものだった。昔を思い返せば、あれは、魔だったのかもしれない。
あのとても檻に入れられて、鍵を求める気持ちを隠しながら、敢えてカギをもらう気持ちだ。なぜ、あんなに気にしいだったのか。どうやら、前世のトラウマのようだ。が、解消してもらったようだ。ごめんなさい。ありがとう。過去のはめを外すのだった。封印を解除したいのだった。

  1. 私は、変わり者だ。とてつもなく自分の能力を信じることもあれば、とてつもなく自分の能力を把握したいので、疑い続けるのだ。あるのだ。信じるのだ。最後に決めるのは、自分なのだ。私は、数多の試練に打ち勝ったのだ。信じて良いのだ。これ以上疑って、どうするのだ。やはり、何事も準備が完璧になってから出そうという魔があるのだ。それでは遅いのだ。徐々に出していくのだ。そうすると、出している自分が当たり前になってくるのだ。blogも出しまくった。そうすると、見方が変わってくるのだ。

私は、操り人間だった。頭が痛くなった。だからこそ、頭が下がったのだ。サタンといわれる存在と愛と呼ばれる存在を、超克した存在なのだ。愛し合うことだ。まだまだと思う毎日であった。自分の能力を信じて磨いてよかったと、感謝するのだった。少し感動した。もっと感動するだろう。私は、世界のために、もっと動くのだった。魂が、数多の葛藤を楽しませてくれるのだった。魂は、永遠なり。
手に職への不安というものは、誰でもあるのだ。仲間外れにされたことはないだろうか。
その場合、難しいコミュニケーションになる。仲間外れを率先してるメンバーに気に入られる必要があるからだ。これが。難しい。相手に嫌だと思われないように、尽力する。または、そのグループから抜けるといったものだ。


講義録
20160621 (火)1036
「魂の声に忠実」とは、どういうことか? セミナーや講義を受けたシーンでお話ししましょう。
講義を受けている際に、自分がノートに書いている事の中には、「来週の予定どうかな」とか一見関係ないと思われるようなこともノートに書いている。これは、少しダメと思われやすい行為だが、誰でもしている。が、あまり意味を知っている人は少ないかもしれない。
自分が何気なくやっている行為というのは、深い意味があってやっているのです。
自分として、最適な方法を選択しているのです。正直な話を言うと、書いてある、相手が言っている内容よりも、自分の葛藤が大切なのです。
心と対話をしている。
ノートに書いたことに囚われるのを避ける意味で、セミナーや講義の講師側では、ノートを取るのを強制するルールにするのは良くない場合もあります。
個性を潰してしまっている。
ノートをとる人はとればいいし、とらない人はとらなければいい。それが中道です。が、なかなかその判断が難しいのです。ただ、ずっと鍛練すると、わかるようになっていきます。
質問1 日本の暗記教育は、悟りを遠ざけるものか。
→そのままそうとは言えないが、そうともとれる。

例えば、ある人は、「塾で習っているのに、学校で、もう既に分かっているのに、何で講義を聞かされなければならないんだ」とか、「聞いてあげている」という気持ちになってしまうかもしれない。十代の頃から、既にそうだときつい。
基本は、純粋の間をとってほしい。だから、新しい情報を頭にインプットするだけが、教育ではないのです。
私たち、テンイは論理的にも、政治的にも、学校教育がシステマチックに硬直化した部分を、「創造的破壊」をして再創造の道を模索しています。
40人学級を全部破壊する勢いで動いていく。
現場の先生方が困ることを想像して、二の足を踏んでいたら改革は進まない。環境が変わるのは当たり前で、多くの人が本音では苛立っている。けれど変えようとはしないのであれば、義務教育に依存してても仕方がない。
私塾の方が遥かに悟れるならば、私塾のスタイルを義務教育に反映させられるように実績をあげていかねばならないと思っています。学びの場で各自の表現スタイルを確立させる環境に適応しやすくなるように自分で創っていく必要があります。授業で聞いたことに新しい発見を加えて、アウトプットで個性を引き出せるように導けたら嬉しいです。
講義内容が、それこそ録音したdvdのようなものを、そのまま再現するだけで、終わらせても面白くないのです。
生徒に対して黙って一方的に聞いていなさいという注意をすること自体が先生側のひ弱さなのです。
つまらない話を聞かせ続けられるのは辛い。
トーク力がなくて、それを補うために、聞いていなさいという発言が生まれて、聞けない生徒の方が悪いというところにまで意識が走ってしまう。悟りに影響があるのは、印象や記憶に残った話です。
徹底的に厳しく指導する先生もいれば、そういうキャラクターという存在を認知出来て将来に役立つ。
スラムダンクのホワイトデビルとあだ名を付けられる白髪の悪魔のように恐れられる先生に出会うこともあるかもしれない。
一般的に、つまらない話からは、薄い悟りしかないと思うかもしれませんが、「しゃべり方が一辺倒だから面白くないということなのか」などの気づきをくれているとも前向きに捉えることも可能です。こういう視点が、悟りに繋がるのです。悟りには、視点を変えるのが大切なのです。

学校と塾の先生を両方した人は強い傾向があるように思います。相手にあったものを提供する観点と均一な教育をする観点も、やはりどちらも必要です。
どちらか企業側の論理と目に見えない世界の論理のどちらか一方に走っても、面白くなくなってしまいます。
21世紀のこれからの時代は、十代の教育を徹底的に見直す必要があります。しかし、現場は忙しくて、わからなくなってしまっている。
日本では、西洋パラダイムとしての義務教育に染まってから、大人になってから、気付いて、東洋パラダイムの叡智と融合させる傾向にあります。ある意味、ここをきっちりすればいいだけなのです。どの人も、より心がスッキリする状態には、何歳でもできる対応があるのです。
このような物を、人生をオセロゲームに例えると、黒を白にする事ができるのです。私が、そうであったように。誰でも、できるのです。

日本だと基本的に、人間関係は、東洋パラダイムのまま行き、授業内容は、西洋パラダイムなので、ギャップが生じているのです。逆に言えば、このダブルバインドが、新しい愛を作れるのです。西洋では、人間関係も西洋パラダイムで、授業内容も西洋パラダイムなので、ダブルバインドが減りやすい傾向にありますが、その分、新しい愛が生まれづらいのです。
学校卒業後の社会人になってから、会社の資本主義的西洋パラダイムに突入する。ちょっとGAPがあるのです。どちらかと言えば、東洋のパラダイム社会主義的です。
気付いて伝えたいことを最大限に言える時は輝いていて、魂がのっている。
自然と惹き付けられるのですが、その人本来の個性と言える使命を発揮するのが大きいほど、聞き手に圧迫感を与えてしまい兼ねない場合もあります。
自分から湧き出す思いと相手の表情を読み取ることで言ってはいけないことを言ったか、そうではないのかということを知ることが出来るのですが、なかなかそこが出来ていないように見受けられます。これも、そのような場を公式で認めない傾向があるからです。
五人に対して話す時に、三人は興味深そうに聞いているが、残りの二人はそうでもない時に、その二人に響く話を出来るのかという事もあります。が、これは、より覚醒した状態と準備が必要になるのです。
面白い話というのは、ダークサイド(暗黒面)からの悟り、ホワイトサイド(明るい面)からの悟り、
ダークサイドの話を、本来はしていいはずなのが、それを封じ込めてしまっている。
ダークサイドから引っ張ると先生としてはモテる。やっている人が少ないからです。
例えば、「オナニーグッズ凄く精度が高い、作った人は天才だ」世間では白い目で見られるようなものでも、社会貢献が出来るということを伝えられる。
「異性が好きならAV 男優になったらいい」とか、江戸時代は性に開放的で、平安時代は顔さえも合わせず文での交換だったり、現代ならプロフ交換だけのようなもの。というように繋げていくことでバラバラで孤立しやすい知識同士の循環を促せる。
モテる先生の秘訣はダークサイドをいれられるかということ。戦車好きかとか、AV のレイプものとか、心理学用語で、犯罪学ではこうなっていると言える先生の方が面白い。
世相、時事ネタもそうですし、引きこもりが、先進国に多くて後進国では生まれにくいのかわかるかとか。本来の自分の悪意性も認めてほしい。ダークサイドを認めないまま無いものとして無視すると反感を食らってしまいます。ダークサイドも認めた上で、良心からの魂の響きというものにもっていけるようにするのがいい。
深く悟ると本当は良心なんてないのです。奥の奥の境地は善悪の無いところにいきます。それでも愛はある。純粋というのはある。一見矛盾する単語も、結合している。
善悪の領域は、物質の中の細分化された原子、素粒子のものに含まれるという説もあります。正直、この辺りの境界線は、今の私ではわかりません。色々な説の結合や、共有点で、こんな感じだと伝えているに過ぎないのです。何となくなのです。科学的な検証ができる人も、実際に見れる人という両方できる人は、あまりいないからです。どこかで、こうに違いないと区切りをする必要があるからです。
より言えば、表現的には、科学では、見付けられていないものなので、魂は知っていると表現した方が、より正確です。
悟りは、最終的には善悪の無いところに行き着きます。そこに埋まっているものとしてはそれだけ。そこまで行くと神をも越える境地、人格神としてのですが、善悪を越えた微小な粒子にはまた違った要素が埋め込まれている。
神ごとに性格が異なり、神殺しをする神、神が一柱(はしら)だけだとせっかく多様だからこそ成り立っている宇宙、地球がオールフォーワン、ワンフォーオール、皆は一人のために、一人は皆のためにとしても矛盾が起こらずに世界の秘密を解く鍵を持てる。なかなかその部分でいうと予定しているものもあれば同時にそれが存在を99.99999%しているが、ある観点から見たら存在していない0.00001%となっている。

人は求めている。ここには矛盾がない。有、無、空と色、どちらも同じであるあるものだということ。マトリックスという現実世界が実在すると言えます。マトリックスをこの世とすれば、あの世は霊界で、この世という現象界で人格を磨き、霊的な格を上げる。この世での魂の導きによって経験を重ねることで修行をしているととることもできます。神がマトリックスのパーツの一部分なのか、マトリックス世界に神がいるのか。4次元世界にいる人がマトリックス世界から4.5次元に行ったり、ただマトリックス世界を抜けるにはある儀式が必要なのです。現時点では3人しかいません。しかしどのようなシステムになっているのかはわからない。簡単に言えばその3人が儀式をすればマトリックスを抜けさせられる。人だけでなく、神も抜けさせられるのかはわかりません。4.5次元や4次元に行きたい神もいるかもしれません。

 例えばあなたの魂に神が入って、あなたが5次元世界に行ってということがしたいのかもしれない。約3000年前に全ての神が肉体を脱ぎました。今は神が肉体を持つことができないようになっているのです。魂が抜けきった状態を保つのは難しい。肉体と幽体を繋ぐシルバーコードを切らないままでは神がどうしても抜けやすい。シルバーコードを切らない限りは肉体の中に神がとどまるのは難しい。このシルバーコードを切れる神がいるのか。そういう存在が人間の中にもいるかもしれない。しかし基本的には人間の部分的な協力関係というのが考えやすいかと思います。どう人と神が力を合わせるにせよこのような内容について思いを巡らせるときにも閃きや、気づきという形で神と力を合わせられていることが有り難いです。

ダークサイドからのアプローチを封じて、ホワイトサイド限定にしてしまうのも不自然で、光と闇というのは必要だからあるのであって、
悪魔というのは人間が作り出しているものです。ルシファーは比喩に過ぎない。
比喩であり、比喩でもないという面もあります。どこの視点から観るかによって、違うのです。

少なくとも、現代は多くの人が悟りやすい、目覚めやすい環境になっているということです。
要は、この世とあの世をどう認識するかです。

とまあ長い講釈を垂れていたのだが、やはり、一年前より、今ではより新しい視点で、悟りの世界を伝えられる有り難さがあるのだった。
どういう風に、表現するかというのは、なかなか魂に聞き続けるしかないのだ。
伝えたいものの大枠の意味合いはある。
どうしても、段落ごとの表現をしている最中は、片方の方の視点が重なってしまうのだ。人というとは、たいてい最後まで読まないから、どうしても、四文程度に、色々な角度の話を入れて、ごちゃごちゃにさせる必要があるのだ。四文、四文、四文、四文を、それぞれ違う大枠にすると、どうも読まないのだ。
右いったり、左いったりの葛藤が、悟りを深める。
が、どうしても表現というのは、片側に片寄りがちなのが、頭の使いどころだ。


追記
勇気を出す魔というのは、生きていれば、発生する。

友達にこんなこと言ったらという魔

友達に、こんなこと言ったらという魔がある。私は、本を書くという事を言うのに、一瞬その魔があったが、何とかクリアした。友達や家族に言えないことは、どの人にもほぼ言えないからだ。また、今さら、これ渡しそびれたけど、渡すのどうかなという魔もある。時が過ぎれば、状況は変わるのだ。あの人とあの人は仲が良いというのも、変わるのだ。また、対決意識というのは、とても大事なものだ。
私は、六月までに本を書く。意外と時間がないのだ。本のオリジナリティは、どこかというのを考えていた。 ①宇宙の法則と根本の動きを、身近で具体的に伝えていること②魔の正体に対する豊富な具体例③家族とのやり取り④色々な視点。といったところだ。 が、

「これやったあとで」という魔

「これやった後で」という魔がある。が、たいてい後回しにしているのだけなのだ。決意が足りないだけなのだ。
私は、Facebookが嫌いなのだ。なんかアピールしてる感が嫌いなのだ。snsで友達を増やす行為が嫌いなのだ。この魔に大抵負け続けている。何か、自分というものを、規定されるのが嫌なのだ。「こういう人だ」と思われたくないのだ。とかく嫌なのだ。いつも、謝るのだった。だが、許してくれないのだった。困ったものだ。ただ、そういう自分も認めてあげる事だ
また、私は、何か強いストレスを感じると、食べ物に当たる魔に負ける。またかまたかまたかまたか。
真正面から、向き合わないという魔にも、いつからか負けるようになった。甘えてしまっている。沢山甘えている。ああ、何と弱い男か、、、。甘えると、後でツケが回る。
「まあいいかなー」という魔もある。良くないのだ。たいてい相手は、怒っているのだ。ただ、甘えているだけなのだ。魂は存じているのだ。
そして、Facebookを楽しむ自分もまた、いるのであった。ああ、私は誤解をしていた。やはり、普通に殆どの人は、周囲の人は、意識の器を使っているのだ。無意識の器の人は、何事も、自分のために好解釈しているのだった。意識の器の人が、普通にしているのを、最高の解釈に変えているだけだった事に気が付かされた。意識の器の人は、私の表現していることを、普通に解釈しているだけだった。無意識の器同士、悟りに近い人同士で話せば、どちらも、最高解釈で、より物事が進むのだった。この事に、昨日やっと気付かされた。

頭でっかち 甘えの魔

私は、「どうでもいいや」という魔にやられていた。自暴自棄だった。自分の頭で、自分を苦しめていた。
スマホで、どでもいい甘えをしていた。甘えた甘えた。甘えて頭がおかしくなった。やらなくていいことをやり、やったほうがいいことをしなかった。おかけで、頭がおかしくなった。全て、自業自得なのだ。
スピリチュアルを学んだが、真理まで到達すると、甘えの愛が頭だけで赤子のように頭が逆さまの頭だ。よくわからないと思う。ごめんなさい。いずれわかる日が来るだろう。これは、比喩であるからだ。
私は、いつから、ここまで魔に負けるようになったのだろうか。
いや、元々負けていた事に気が付いた。甘えていたのだ。家族の忠告を無視していた。だから、罰が降ったのだ。いずれ、また罰が降る。私は、正常な頭になれていない。感覚でわかる。ただ、ひたすら、神に謝るだけなのだ。
私は、どうでもいい情報収集に時間を取られて、大事な人間関係を築くことを怠ったのだ。間違えていたのだった。そして、怖くなったのだ。甘えていた。甘えていた。甘えていた。ごめんなさい。甘えがひどくて、甘えがひどくて、ごめんなさい。頭で考えてばかりで、ちゃんとした愛を持っていなかった。気づかせてくれてありがとうございます。
まずは、日常生活をきっちり甘えずにやることなのだ。常に一歩一歩なのだ。甘えだけで生きてきた。愛されている事に気付くのだった。目を疎かにした。だから、視力が落ちた。大事なことだった。忠告というのは、どこかしらに降ってくるのだ。それを、キャッチできるかどうかだ。私は、キャッチができなかった。
ああ、頭が悪かったのだ。常識というのは、頭がいい人が作ったのだ。大切にするものだ。たまげたものだ。私は、今スマホを真っ暗闇で打っている。頭がおかしいのだ。ああ、なぜ人は気付かないのだろうか。哀れな人よ。
ごめんなさい。また魔に負けてしまいました。いつになったら、勝てるのだろうか。人間関係の魔には、なかなか勝てない自分を認めたいのだった。どうも、苦手だ。甘えてしまう。甘えてしまう。甘えてしまう。