アイデンティティと行動パターン 思い込み

人は、同じような行動パターンを繰り返している。それを、自分だと思い込んでいる。アイデンティティの蓄積だ。私は、朝に弱いというアイデンティティから、朝に強いというアイデンティティに変えている。徐々に早くしている。そうすると、あの人は、朝に弱いと思っていたが、実際は朝に強い。「あの人は、朝に強い」と思っていたが、実際は朝に弱いというのは、たいてい過去の記憶や、自分が取り出しやすい記憶に基づいているということがわかる。
ということは、このような○×というのは、あまり意味があるのだろうか。
朝に滅法強いというアイデンティティを獲得したら、ここは押さえるという自分に自然になっている。これは、自然な行為だ。私は、より朝に強くなるだろう。何時に起きているかというラインを、どの人も、何かしらの判断基準にしている。例えば、朝九時に起きるのは遅いとか、昼12時に起きるのは甘えとか、朝3時に起きるのは、早いとか、様々な○×をつけて、自分にも○×を付けて、お互いを、傷付け合っている。いや、励まし合っているとも言える。調整する。何か不味いなと感じたら、それを変えようとする。あり方なのかもしれない。こういう風にあるといいと。私は、あまりそういうのには、関心がないのだろう。反応的な言動をし続けるのには、いささか疲れたような気がする。が、それでは面白くないという葛藤がある。朝7時に起きると決めると、いや決められると、夜中の22時には、外に出る可能性は、ほとんどない。やはり寝る前にやることがあるからだ。寝る前に、、このような行動パターンをしようと決めている。例えば、明日早く起きるために、髪を洗う入浴をしよう。これが、限りなく100%に近づくと、それをしていない自分や、それをしていない他人を認めることは難しくなる。かといって、何のために、折角作った行動パターンを、変えるのだろうか。それは、愛のためなのかもしれない。もしくは、志の達成のためかもしれない。私は、全ての執着を捨てようと思って、一つ一つ捨ててきた。これは、思い込みの解除と同じだ。人は、思い込みを作っては、作っては、作っては、作っては、と繰り返している。思い込みを外すことをいつしかしなくなる。アイデンティティ超流動性は、努力した人にしか、悟った人にしか獲得できないのだろうか。イメージテクノロジーでできるのだろうか。やはり、難しい気がする。これは、わからない。奥義のようなものが、あるのか。信じるものは、救われるというものか。「全てのものを愛しなさい」という主の思いが、ある。この主というのは、たいてい人間の身勝手な思い込みのイメージだが、だんだんとわかってくるものだ。私は、昔よりわかってきたが、まだ全貌は見えない。一度獲得したアイデンティティは、一旦消えても、また、てこ入れすれば、再び起動するのだ。これは、壊れた機械も、テコ入れすれば、直るのと一緒だ。が、勿論、もともと獲得していないものは、難しいのかもしれない。瞬時に形態変化するには、それなりに努力が必要なのだ。一度獲得したアイデンティティは、何かのきっかけで、再び起こすことが、できるようだ。特に、動作と一緒で、料理をしていない場合に、料理をし始めるのと一緒だ。まだまだ愛を瞬く間に貯めると、甘え甘えが愛に変わっていく。