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脳の癖

ごちゃごちゃにする脳の癖がある。
朝は、とても清々しい。
ただ、起きるのが、キツかったりする。
そうすると、脳内で、過去の他の嫌な想念体を、引っ張ってくる。余計にlowな嫌な気分になる。
が、それは脳の仕組み自体で、別個の事象で、関係ないのだ。私は、朝起きるのが気持ち悪いのと、起きてもやることがないという思い込みや、友達と遊べてないという思い込みや、大学受験のトラウマや、歯が痛いという事実等が、引っ張られてきて、深刻な気分に余計になる。
脳は、同じような類いの想念体を引っ張る癖がある。そうすると、トラウマ地獄になる。プラスであれば、プラスの想念体。マイナスであれば、マイナスの想念体だ。
が、冷静に考えれば、別個の問題なのだ。この分けて考えるというのも、理性の役割だ。脳で、考える機能があるからだ。
ただ、身体を起こしたいから、脳が、そのような想念体を、引っ張ってくるのだ。
よって、別にその想念体を絶対やらなければならない訳ではないのだ。私は、この脳の仕組みを理解するまで、多大な時間を要した。「あ、その想念体やらないといけないのかな、やれるわけないじゃん、ダメな人間だ」、の、無限ループだ。
つまり、今世の課題というのは、特定の具体的なモノではなくて、抽象的なものなのだ。私は、絶対達成しなければならない課題があるのか、ないのか、どうも気になっていた。その度に、方向性を見失う。現実的に、クリアできないモノが、押し寄せてくるからだ。
例えば、多くの人と友達になって、笑顔を振り撒くという抽象的な課題があるのと、この人とこの人と、友達にならなければならないという特定の課題があるのか、というケースだろう。これは、やはり前者なのだと悟った。土台、無理な場合もあるからだ。つまり、例えば、魂の次元で、生まれる時の青写真で、オバマ元大統領と、友達になるというのがあったとしても、ずっと海外に行かなければ、土台無理なのだ。拡大解釈して、ツイッターのフォロー同士になれば、友達というのも、少し違う。人間とは、特定の人や特定の組織と生きるのではなくて、その人自身が、使命を発揮していれば、ノープロブレムなのだ。この事が、私を悩ませた。どうも嫌なイメージの思い込みがある人と、一緒に課題を必ずやらなければならないのかというと、そんなことはないのだ。ということは、私は、魂が望んでいる方向に、必ずいかなければならないというわけではないということだ。これが、究極の実在に向かっているという、超抽象的包括的なモノが、一つの究極の目的となりうる示唆になるだろう。脳が欲しているものだけを、取ってもいいということにもなる。つまり、どの物事にも、二面性を許容しているということだ。究極の実在というのが、二面性を擁している示唆になる。
確かに、物理学上、究極の実在を無限増殖のスピードの動きそのものと、断定しても良いが、それ以外もあるということだ。「動きそのものでないと、他の物理法則と物理現象と齟齬が生じる。確かに、動きそのものと断定すると、全て辻褄が合う。理想体系を設定して、演繹から、そのように考えよう。そうでないと、おかしい」と断定した場合、そのような思い込みになるのだ。実は、神は、人間一人一人が断定することを、気長に待っているのだ。それで構わないのだ。ただ、何歳の時というのは、本質的には、関係ないのだ。神は、時間に囚われないからだ。勿論、早い段階で、断定した方が、肉体人生としては、そのパラダイムが、人生に流れる。私は、27歳で、神と魂を断定した。そうすると、そのパラダイムで、人生が流れるのだ。悩んでも良いが、長い検証の中で、私は、カルマが100%あるというのを断定した。
ただ、必ず達成しなければいけないカルマというのも、存在していないことになる。カルマというのは、無数にあるからだ。それが、循環しているのだ。そう、ルーレットのように。この辺りは、釈迦というビッグネームの仏教的アプローチだ。神は、人と愛し合いたいのは、本当の所だ
使命の発揮、カルマ論、究極の実在は、矛盾する視点も取れるが、やはり矛盾していないとも言えるのだ。ここは、とも言えるという表現にしておこう。その方が、人間のためだからだ。まだ、全貌を教えるには、魂達の準備が整ってないからだ。
より、使命が発揮できる方向に向かいたいという単純な性質があるのだ。よって、場面場面が変わるのだ。相対世界ともう一つの世界を、行ったり来たり、しているのだ。結局、どちら側からの視点に立ちたいのかなのだ。が、私もご多分に漏れずに、自分の人生を使って、研究した視点に《できれば》立ちたい。研究したから、必ず見つかるものではない。研究者というものは、そういう特性を持っている。求めなければ、ゼロ%だというものだ。ただ、断定するには、多くの思索が必要なのだ。なので、まだ私は、究極の実在が、動きそのものの可能性は非常に高いが、まだ断定はできないと感じている。動きそのものといって、バカにするアホな人もいるからだ。やはり、事前に、そこのアホな人のためにも、防波堤を築いてくれる神の慈悲なのだ。アホというのは、私のことである。私は、自分の幸せより、屁理屈をとる癖があるからだ。私は、世の中のアホな屁理屈の方々のために、blogを書いている。先にそのルートを封じるためだ。幸せになってほしいからだ。それは、私の幸せにもなる。脳は、一つ一つの現象を、頭で理解しないと、納得しないのだ。道にそれるのだ。コースアウトだ。私は、コースアウト、ギリギリまで、攻めて、コースアウトして、わかるのだ。脱線すると、線路の有り難みがよくわかる。宇宙の中と、宇宙の外だ。
どちらも、楽しいものだ。これが、内外反転だ。快と不快がある。だから、私は、何事も、ごめんなさいと思っている。快が反転するのが、怖いからだ。が、だからこそ、人生は、逆転があるのだ。だから、私は、全ての人が、幸せになってほしいのだ。内外反転があるからだ。そして、同時に、全ての人が不幸せになってほしいのだ。内外反転があるからだ。嫉妬というのが、無意味なことを悟る。どうしても、人間は、ある時のある印象を、脳内に当てはめる。自分が、嫌いな人が、幸せそうになっていると、ムカつく感情があるものだ。が、そのムカつく感情は、無意味なのだ。洞察と体感で、己の感情を超えられるのだ。
宇宙の中に、快の粒子、宇宙の中に、不快の反粒子が、同時に出来る。どんどん、快の粒子ができれば、不快の反粒子ができるのだ。知らない間に、反転してるのだ。これがあるので、必ず、イーブンなのだ。
この内外反転があるお陰で、人間は、全ての人を愛すことが出来るのだ。
どんなに、一瞬負の感情が芽生えても、それさえも、愛せるのだ。だから、私は、今まで、勝てなかった負の想念に、ごめんなさい。ありがとう。と伝えたい、
もし、そのようなものがなかった場合、人間は、動物のような、次元に留まってしまう。それは、宇宙の意志に、反するものだ。
これは、誰しも当てはまることだ。

  • その人の顕在意識というのがある。例えば、私のように、家から一歩も出ないと念じていたとしよう。そうすると、自分の心の上層部には、その念通りのマイナスがたまる。そうすると、周囲の人から、家からでなさいという、プラスがたまるのだ。そして、それが渦を巻いて、歯車のように、いつしか反転するのだ。現象化するには、人間の時間感覚では、時間がかかっているので、それが、発覚することは、少ないのだ。どの意識層の視点から見るかなのだ。良いことしてると思っても、実は同時に悪いこともしているのだ。なにもしないというのも、実は、なんでもしているのだ。なんでもしているというのは、実はなにもしていないのだ。やはり、釈迦が中道を悟ったのは、この内外反転を、熟知していたからだろう。長い期間をかけた想念は、長い期間回り続けるのだ。私は、この法則を受け入れる。違う事象に見えても、回収しているのだ。思わせてくれるのだ。あの積年の願いが、こういう形で、現れてくれたと、思わせてくれる法則があるのだ。信ずれば叶うというのは、こういうことだ。今世で、無念さが残ったものは、来世できっと、叶えさせてくれるだろう。が、私は、輪廻の解脱がしたい。あらゆる動きは、隙間を埋めたいし、循環したいだけだ。

敵対しているような視点で見ているだけだ。どの人も、必要なのだ。
ごめんなさい。ありがとうと伝えたい。