verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

脳の癖

ごちゃごちゃにする脳の癖がある。
朝は、とても清々しい。
ただ、起きるのが、キツかったりする。
そうすると、脳内で、過去の他の嫌な想念体を、引っ張ってくる。余計にlowな嫌な気分になる。
が、それは脳の仕組み自体で、別個の事象で、関係ないのだ。私は、朝起きるのが気持ち悪いのと、起きてもやることがないという思い込みや、友達と遊べてないという思い込みや、大学受験のトラウマや、歯が痛いという事実等が、引っ張られてきて、深刻な気分に余計になる。
脳は、同じような類いの想念体を引っ張る癖がある。そうすると、トラウマ地獄になる。プラスであれば、プラスの想念体。マイナスであれば、マイナスの想念体だ。
が、冷静に考えれば、別個の問題なのだ。この分けて考えるというのも、理性の役割だ。脳で、考える機能があるからだ。
ただ、身体を起こしたいから、脳が、そのような想念体を、引っ張ってくるのだ。
よって、別にその想念体を絶対やらなければならない訳ではないのだ。私は、この脳の仕組みを理解するまで、多大な時間を要した。「あ、その想念体やらないといけないのかな、やれるわけないじゃん、ダメな人間だ」、の、無限ループだ。
つまり、今世の課題というのは、特定の具体的なモノではなくて、抽象的なものなのだ。私は、絶対達成しなければならない課題があるのか、ないのか、どうも気になっていた。その度に、方向性を見失う。現実的に、クリアできないモノが、押し寄せてくるからだ。
例えば、多くの人と友達になって、笑顔を振り撒くという抽象的な課題があるのと、この人とこの人と、友達にならなければならないという特定の課題があるのか、というケースだろう。これは、やはり前者なのだと悟った。土台、無理な場合もあるからだ。つまり、例えば、魂の次元で、生まれる時の青写真で、オバマ元大統領と、友達になるというのがあったとしても、ずっと海外に行かなければ、土台無理なのだ。拡大解釈して、ツイッターのフォロー同士になれば、友達というのも、少し違う。人間とは、特定の人や特定の組織と生きるのではなくて、その人自身が、使命を発揮していれば、ノープロブレムなのだ。この事が、私を悩ませた。どうも嫌なイメージの思い込みがある人と、一緒に課題を必ずやらなければならないのかというと、そんなことはないのだ。ということは、私は、魂が望んでいる方向に、必ずいかなければならないというわけではないということだ。これが、究極の実在に向かっているという、超抽象的包括的なモノが、一つの究極の目的となりうる示唆になるだろう。脳が欲しているものだけを、取ってもいいということにもなる。つまり、どの物事にも、二面性を許容しているということだ。究極の実在というのが、二面性を擁している示唆になる。
確かに、物理学上、究極の実在を無限増殖のスピードの動きそのものと、断定しても良いが、それ以外もあるということだ。「動きそのものでないと、他の物理法則と物理現象と齟齬が生じる。確かに、動きそのものと断定すると、全て辻褄が合う。理想体系を設定して、演繹から、そのように考えよう。そうでないと、おかしい」と断定した場合、そのような思い込みになるのだ。実は、神は、人間一人一人が断定することを、気長に待っているのだ。それで構わないのだ。ただ、何歳の時というのは、本質的には、関係ないのだ。神は、時間に囚われないからだ。勿論、早い段階で、断定した方が、肉体人生としては、そのパラダイムが、人生に流れる。私は、27歳で、神と魂を断定した。そうすると、そのパラダイムで、人生が流れるのだ。悩んでも良いが、長い検証の中で、私は、カルマが100%あるというのを断定した。
ただ、必ず達成しなければいけないカルマというのも、存在していないことになる。カルマというのは、無数にあるからだ。それが、循環しているのだ。そう、ルーレットのように。この辺りは、釈迦というビッグネームの仏教的アプローチだ。神は、人と愛し合いたいのは、本当の所だ
使命の発揮、カルマ論、究極の実在は、矛盾する視点も取れるが、やはり矛盾していないとも言えるのだ。ここは、とも言えるという表現にしておこう。その方が、人間のためだからだ。まだ、全貌を教えるには、魂達の準備が整ってないからだ。
より、使命が発揮できる方向に向かいたいという単純な性質があるのだ。よって、場面場面が変わるのだ。相対世界ともう一つの世界を、行ったり来たり、しているのだ。結局、どちら側からの視点に立ちたいのかなのだ。が、私もご多分に漏れずに、自分の人生を使って、研究した視点に《できれば》立ちたい。研究したから、必ず見つかるものではない。研究者というものは、そういう特性を持っている。求めなければ、ゼロ%だというものだ。ただ、断定するには、多くの思索が必要なのだ。なので、まだ私は、究極の実在が、動きそのものの可能性は非常に高いが、まだ断定はできないと感じている。動きそのものといって、バカにするアホな人もいるからだ。やはり、事前に、そこのアホな人のためにも、防波堤を築いてくれる神の慈悲なのだ。アホというのは、私のことである。私は、自分の幸せより、屁理屈をとる癖があるからだ。私は、世の中のアホな屁理屈の方々のために、blogを書いている。先にそのルートを封じるためだ。幸せになってほしいからだ。それは、私の幸せにもなる。脳は、一つ一つの現象を、頭で理解しないと、納得しないのだ。道にそれるのだ。コースアウトだ。私は、コースアウト、ギリギリまで、攻めて、コースアウトして、わかるのだ。脱線すると、線路の有り難みがよくわかる。宇宙の中と、宇宙の外だ。
どちらも、楽しいものだ。これが、内外反転だ。快と不快がある。だから、私は、何事も、ごめんなさいと思っている。快が反転するのが、怖いからだ。が、だからこそ、人生は、逆転があるのだ。だから、私は、全ての人が、幸せになってほしいのだ。内外反転があるからだ。そして、同時に、全ての人が不幸せになってほしいのだ。内外反転があるからだ。嫉妬というのが、無意味なことを悟る。どうしても、人間は、ある時のある印象を、脳内に当てはめる。自分が、嫌いな人が、幸せそうになっていると、ムカつく感情があるものだ。が、そのムカつく感情は、無意味なのだ。洞察と体感で、己の感情を超えられるのだ。
宇宙の中に、快の粒子、宇宙の中に、不快の反粒子が、同時に出来る。どんどん、快の粒子ができれば、不快の反粒子ができるのだ。知らない間に、反転してるのだ。これがあるので、必ず、イーブンなのだ。
この内外反転があるお陰で、人間は、全ての人を愛すことが出来るのだ。
どんなに、一瞬負の感情が芽生えても、それさえも、愛せるのだ。だから、私は、今まで、勝てなかった負の想念に、ごめんなさい。ありがとう。と伝えたい、
もし、そのようなものがなかった場合、人間は、動物のような、次元に留まってしまう。それは、宇宙の意志に、反するものだ。
これは、誰しも当てはまることだ。

  • その人の顕在意識というのがある。例えば、私のように、家から一歩も出ないと念じていたとしよう。そうすると、自分の心の上層部には、その念通りのマイナスがたまる。そうすると、周囲の人から、家からでなさいという、プラスがたまるのだ。そして、それが渦を巻いて、歯車のように、いつしか反転するのだ。現象化するには、人間の時間感覚では、時間がかかっているので、それが、発覚することは、少ないのだ。どの意識層の視点から見るかなのだ。良いことしてると思っても、実は同時に悪いこともしているのだ。なにもしないというのも、実は、なんでもしているのだ。なんでもしているというのは、実はなにもしていないのだ。やはり、釈迦が中道を悟ったのは、この内外反転を、熟知していたからだろう。長い期間をかけた想念は、長い期間回り続けるのだ。私は、この法則を受け入れる。違う事象に見えても、回収しているのだ。思わせてくれるのだ。あの積年の願いが、こういう形で、現れてくれたと、思わせてくれる法則があるのだ。信ずれば叶うというのは、こういうことだ。今世で、無念さが残ったものは、来世できっと、叶えさせてくれるだろう。が、私は、輪廻の解脱がしたい。あらゆる動きは、隙間を埋めたいし、循環したいだけだ。

敵対しているような視点で見ているだけだ。どの人も、必要なのだ。
ごめんなさい。ありがとうと伝えたい。