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待つ教育 わかってても教えない教育

なかなか資本主義では、難しい教育である。
そう、わかっていても教えない教育というものもある。
その人の練達や、自主性を促すために。

昔から、私の父とは、将棋をよくしていた。
しかし、ほとんど不親切なぐらい、私に教えなかった。「なんだよ、ケチ」とよく言った。質問には答えていた。
「何も教えてくれなかった」と何度思ったことか。
確かに教えた方が、技術レベルは、上がるだろう。
つまり、「自分の頭で、学んだらどうか」ということだろう。
「どうやったら、強敵の父に勝てるだろうか」と思っていた。「負けてもまあ仕方ないか」という弱気であった自分が、取り組み姿勢・負けず嫌いは、ここでできた気もする。

私も塾では、教えない教育も意識していた。しかし、多くの塾では、解答を導き出す教える教育がほとんどな気がする。
誰もが教えたがりなのだ。それは、奪っているとも言える。
漫画「ドラゴン桜」の教師の価値観が、正しいのかと思い込んでいた。 「詰め込みが教育である」
現実の地球では、正しくもあり、間違ってもある。ということがわかった。
父は、「わかってても教えない教育」をする偉大な教師であった。
教育に従事した私にとって、なかなかたいしたものであると思った。
人は、どうしても、目に見える形の教育を見てしまう習性がある。目に見えて、教育をしている人を、教育している人だと勘違いしている。
そう目に見える形での教育と、目に見えない形の教育がある。
目に見える愛の形と、目に見えない愛の形がある。
目に見えるものばかり考える彼女、目に見えないものばかり考える自分。
私は、人間の教育が好きである。
特に私に見える形で構わない父には、「愛されていない」なのではないかと思うこともあった。
父は、母親がどうしようもなく過保護だったので、依存癖をなくさせたいという意図だったと思う。父は、哲学家のような、勉強家であった。哲学家のような勉強家は、なかなかシンプルに見れなくなる傾向にある。
そう今になって、父は、父の観点で、私を愛していたと、感じた。すぐに気づかない愛や後からわかる教育や愛があるのである。
10年経って、わかることもある。もしかして、死ぬまでかもしれない。
ただ、「なんだよ、ケチ」とそう思った自分も認めてあげよう。幼い自分も認めてあげよう。
私は、家族が大好きであることに気づいた。
純粋に考えたものは、愛である。
純粋なものは、いつか気づく。