verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

待つ教育 わかってても教えない教育

なかなか資本主義では、難しい教育である。
そう、わかっていても教えない教育というものもある。
その人の練達や、自主性を促すために。

昔から、私の父とは、将棋をよくしていた。
しかし、ほとんど不親切なぐらい、私に教えなかった。「なんだよ、ケチ」とよく言った。質問には答えていた。
「何も教えてくれなかった」と何度思ったことか。
確かに教えた方が、技術レベルは、上がるだろう。
つまり、「自分の頭で、学んだらどうか」ということだろう。
「どうやったら、強敵の父に勝てるだろうか」と思っていた。「負けてもまあ仕方ないか」という弱気であった自分が、取り組み姿勢・負けず嫌いは、ここでできた気もする。

私も塾では、教えない教育も意識していた。しかし、多くの塾では、解答を導き出す教える教育がほとんどな気がする。
誰もが教えたがりなのだ。それは、奪っているとも言える。
漫画「ドラゴン桜」の教師の価値観が、正しいのかと思い込んでいた。 「詰め込みが教育である」
現実の地球では、正しくもあり、間違ってもある。ということがわかった。
父は、「わかってても教えない教育」をする偉大な教師であった。
教育に従事した私にとって、なかなかたいしたものであると思った。
人は、どうしても、目に見える形の教育を見てしまう習性がある。目に見えて、教育をしている人を、教育している人だと勘違いしている。
そう目に見える形での教育と、目に見えない形の教育がある。
目に見える愛の形と、目に見えない愛の形がある。
目に見えるものばかり考える彼女、目に見えないものばかり考える自分。
私は、人間の教育が好きである。
特に私に見える形で構わない父には、「愛されていない」なのではないかと思うこともあった。
父は、母親がどうしようもなく過保護だったので、依存癖をなくさせたいという意図だったと思う。父は、哲学家のような、勉強家であった。哲学家のような勉強家は、なかなかシンプルに見れなくなる傾向にある。
そう今になって、父は、父の観点で、私を愛していたと、感じた。すぐに気づかない愛や後からわかる教育や愛があるのである。
10年経って、わかることもある。もしかして、死ぬまでかもしれない。
ただ、「なんだよ、ケチ」とそう思った自分も認めてあげよう。幼い自分も認めてあげよう。
私は、家族が大好きであることに気づいた。
純粋に考えたものは、愛である。
純粋なものは、いつか気づく。