神様に祈りをささげるのは、効果があるかもしれない。
21日間祈りをささげたら、何かしらの効果があったかもしれない。
『主よ、幻聴の人生を終えてください』という言葉を思い浮かべることを四六時中続けた。これにより、幻聴の種類が変わった。幻聴の声が変わってきた。
宗教的に考えると、神様が、全宇宙の支配者であるから、主に願いが受け入れられたら、その願いが叶うと考えらえます。
この時代にくると言われてる救い主が現れたら、この世で理想世界が生まれると言われていますが、私的には不透明なものです。主観的だが、人間が、私のように、高いレベルにあるようには、見えない。のに、救い主は、現れるのだろうか。もしかすると、キリストのように、人の形をしてないで、想念帯に現れるのかもしれない。
現代の科学的に考えたら、効果はない。が、それがあってるか間違ってるかは、わからない。
追記
違う祈りの挑戦をしてみようと思う。
違う結果が出るかもしれない。 私は、認知機能がおかしくなっているので、人間的に当てはまるのか、よくわからない。微妙な差が、昔ほどわからなくなった。
回数制なのか、時間制なのか、祈り方なのか、よくわからない。人間には、わからないというのがキリスト教みたいだ。キリスト教の団体では、祈り方を教わった。熱心に祈るというのが、被害者的で、なかなか盲目的で難しい分野だ。熱心が、神様にとって、目障りになるのではないかと思う気持ちがふとある。神も頑張ってるという視点があるからだ。
お祈りの時間が足りないと言われれば、よくわからないというのが、本音だろう。最近では、お祈りの1日の量を増やしてるが、不透明だ。
神道の最高神、天照大神を味方につけるには、どうすればいいのだろうか。自分についてる良霊を大事にする姿勢も必要かもしれない。昔、なんで自分には最高神じゃないんだと傷心してた時があった。自分に最高神がついてなくても、悩まないのは必要かもしれない。
連呼しまくれば付いてくるのだろうか。呼び捨てで良いのか、よくわからない。3ヶ月以上神社に行ってるが、なかなか成果は出ていないようだ。
この世界は悪の方が強いのかと、疑うケースも出てきた。学校では、不良が強かったりする。私の人生、そのようなケースが見受けられる。が、やはり、善が強いと思いたい。法律的には、善が強いだろう。
神社にお参りに毎日雨に濡れても行くのは、神様が見てくれてるだろうか。毎日神社に行くお参りの祈りで効果があるか判別がつかない。門の外で、毎回合掌して、頭を下げる事を行っている。良霊は何も言ってこない。神社の中に入らないとダメという説もあるだろうが、慣性の法則が続いてる。人間は、様々な要因で成り立っているからだ。仮に、キリスト教だけど、教会に行けないから、神社に行くというのを、神は許してくれるだろうか。私の経験上、多分許してくれると思う。寒くても神社に行く。こういう精神が重要だと思う。
祈りで病気が治るかは、やってみないとわからない個人差がある。
神社に2ヶ月間お参りに行ってるが、特に変わった事もないが、神は努力がわかるから、努力を続けるのは、自分の可能性を広げる保険になる。半年間神社に行ってるが、あまり効果的ではないが、努力がわかる。雨の日も行く。
祈る事を忘れる事がある。自然的に忘れる。こういう事も、神は、考慮してくれるだろう。
祈り方があったかもしれない。細かな指定をする、例えば病気を直してくださいではなく、病気のここの症状を治してください。というのだ。私の場合、音楽を出される音楽幻聴を治してくださいというのだ。あと、代わりに、何か目標を自己宣言するという事も効果があったような覚えがする。何も努力をするのではなく、代わりに、「筋トレは、毎日10回します」等である。実現可能な目標を代償として、やるのだ。
私の場合、超霊媒体質だったので、回復に時間がかかっている。憑依というのは、恐ろしいものである。ただ、怖じ気付くわけにもいかない。
憑依は、生体エネルギーの奪取という説があるが、体の三重性があるが、初歩的な気でもわからないから、どうなのかよくわからない。病気の人は疲れやすいと言われているが、自分が疲れやすいのかもよくわからない。確かに、憑依という言葉は、生体エネルギーの奪取という意味合いを想像させやすいが、実際どうなのかはよくわからない。食べ物をそのままエネルギー奪取はできないのかもしれない。憑依体と食べ物が意識が繋がってないからかもしれない。非物質の憑依体は、物質のポテチを食べれないだろう。物質化は、どうやるのかわからないが、全くありえないものでもないと思われる。食べ物の記憶を欲しがるのかもしれない。それか、別のものを食べたがるのかもしれない。お供え物が効果があるかわからない。霊のご飯は何だろうか。かなり突飛な話になるが、意識を自分に向けられた物質は食べられるのかもしれない。物質以外の部分を食べられるのかもしれない。
仏教には、十界というのがあるみたいだ。自分がどれくらい悟ってるかの判断になるだろう。悟りのレベルをどう計ったらいいのだろうか。気付きのレベルなのだろうか。物事を検証すると、わからない事が出てくる。
病気を公表してる人は、回復が早いのだろうか?近くの人だけに公表するのと、何が違うのだろうか。特に、病気を公開しても、治るわけでもない。
肉体を鍛えるのは、精神疾患を治す一助になるのだろうか。
筋トレ論、ウォーキング論、ランニング論。
筋トレはいつの間にか止めちゃう事がある。で、また始める。また、止める。の繰り返し。筋トレは、きつくなってからが勝負である。筋肉痛の時は、その部位の筋トレはしないほうがいいようだ。ウォーキングは、音楽聴きながらなら、一時間以上できる。ランニングもキツくなってからが勝負だ。10分以上、やる必要がある。
死と逆境と心底向き合った、負けないパッションで、生きている。人間は死ぬ、この当たり前の事を擬似体験した。死が迫っても、どぎまぎしない。いつ死んでも良いという風に、自分を作り続けるのだ。
南無妙法蓮華経と御題目を唱え始めた。が、今のところ効果は感じられない。どうなることやら。人生、ある事を見限る必要もあるのではないか。
神は浮気を許さないか?例えば、お守りであれば、違う種類を買ったりすることである。