verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

寝起きの深刻さ

実際に寄稿できるかどうかというもの。実際に寄稿したように書く。
テーマが与えらえ書く
テーマも決めて、寄稿する。(マンガ形式)
人は、回り道のようなものをして、辛いと思い、「ああ、なければいいのに」と思ったり、結局元鞘に収まるなら、そんなのなければと思うが、それは間違いなのだ。人生には、紆余曲折が必要なのだ。私は、お金に拘るタームから、お金に拘らないタームに移行した。そして、いろいろな経験をした。が、その時、このような「ああ、なければいいのに」と思ったものだ。が、結局それで独自色が出せるのだ。普通の体験をしたら、やはり普通の事しか出せないのだ。お金は必要なのだし、稼がないといけないのだが、思いっきりお金を拘る事から拘らないタームに移行すると、お金と社会の関係が、くっきりわかってくるのだ。やはり、お金と社会がらみで、自分が当事者だと、どうしても自分の思いこみで判断しがちなのだ。第三者視点を極める事が、神の視点の獲得なのだ。実を言うと、お金から離れると、お金が入ってくるのだ。なかなか人間はわからないが、実はそうなのだ。このお金がなければ生活できない。収入がなければ生活できない。食べ物がなければ生活できない。家がなければ生活できない。衣服がなければ生活できない。というのも、時には思い込みなのだ。探せば、そういう生活をしている人は結構いるものなのだ。探していないだけという事でもあるのだ。が、この日本社会では、納税の義務があるので、その分どうにかする必要があるのだ。よって、やはりお金を獲得する活動も必要なのだ。そして、この回り道に見えるものも、無意識マップ上では、功を奏しているのだ。無意識マップの完成をどの人も実は目指しているからだ。お金に囚われないというマップもあるのだ。が、今の制度では、やはり年金生活ぐらいの年齢か、扶養されている学生時代にしか、お金に拘らない生活ができづらいのだ。勿論、30歳でも40歳でも、そのような活動は、やろうと思えばできる。が、少しばかり、損をしたような気になるのだ。お金という尺度やキャリアという尺度で、捉えているからだ。時には、収入を減らす活動が、自分を救ってくれるのだ。この辺りに、自分勝手に判断し過ぎない事が大切なのだ。私は、この歳で、大失敗した事が、財産になっている。いや、むしろ早めに大失敗した方が、無意識マップの完成になるのだ。失敗させてくれた環境に、感謝の念が絶えない。やはり、若い頃の失敗は、買ってでもしろというのは、その通りなのだろう。大失敗が、大きな視野になれるチャンスなのだ。なかなか人は、自分の作った狭い範囲で、右往左往しているものだ。それを破った時に、新たな自分になれるのだ。この殻を破れるかどうかだ。ただ、破って自分を助ける殻と、破って自分を後々困らす殻がある事に気付く。私は、性欲が抑えられない淫乱な時期があったが、やはり抑えていた方が良かったのだ。その後、抑えるように努めたものだ。私が仕事で苦労しているのも、この淫乱の時期のカルマなのだ。できるだけ刈り取るに限るのだ。勿論、それはセックスをしろという意味ではないのだ。人に依るが、年に1・2回で十分なのだ。これぐらいが丁度良い塩梅なのだ。やはり、私は、もう淫乱になる事はないのだ。どれだけそれが、巡り巡って自分を苦しめるか知っているからだ。性に奔放が良いわけではないのだ。それは、結婚しても同じなのだ。いくら、性欲を我慢して、結婚したとしても、セックスばかりして、周囲の人に愛を注げないのは、辛い事なのだ。新婚生活は、初初しいが、できる限りセックスを自重すると、実は長続きするのだ。私の両親は自重していたので、離婚する事がなかったのだ。この辺りも、やはり、因果応報なのだ。だから、神に選ばれた人だからと言って、セックスばかりしていては、辛くなる運命になってしまうのだ。神というのは、こうしたらこうなるよというのが、わかるゲームの設定者なのだ。なので、人間がどういう事になるかわかるのだ。できれば、ハッピーで居続けてほしいのだが、設定を覆すわけにはいかないのだ。なので、できる限り、カルマを消去するに限るのだ。どれぐらい幸せになれるか想像だにしないくらい幸せになれるのだ。私も、意固地になった場面があり、申し訳ないのだ。ごめんなさい。人生の原理に気付くことが、悟りの第一歩なのだ。私は「因果応報って、どういう事だろう?」と思っていたものだ。が、それがよくわかるようにさせていただいた。そうすると、人が日常生活のどの場面で、カルマを溜めているかだ。ところがどっこい、そこまで実は人は、頑張り過ぎなくてもいいのだ。ただ、冷静に心の中心の声に耳を傾かせながら、生きればいいのだ。ここで、欲張らない事なのだ。止まる動作も大切なのだ。私は、純粋に心の中心に従う事を始めてから、とてもいい気分になれるようになったのだ。例えば、乾電池のメーカーに、乾電池のお礼を電話しようと電話を鳴らしたが、やはり、そこまで純粋に感動したわけでないので、やめたのだ。ちょっとした笑いになったものだ。このちょっとした笑いというも大切なのだ。「なんで乾電池ごときで、お礼するの?」という思い込みに囚われない事なのだ。「じゃあ、何なら、あなたはお客様センターにお礼の電話をするの?」と聞きたいものだ。が、やはり純粋意識がそこまで乗っていないものは、そこまでしか相手を喜ばせられないとも言えるし、冷やかしに思われる事もあるかもしれないので、冷静なジャッジが必要なのだ。お客様センターというのは、クレームばかりでいやなのだ。なので、少し感謝のお礼を言われると、ああやってて良かったなと思えるものなのだ。その辺りは、確かに会社勤めしないとわからないものだ。私は、民間の会社に勤務して良かったと思っている。何となく、自分が使っているものは、自分の立場ばかりで考えすぎてしまうからだ。お礼を言う基準というのを上げすぎると、自分を苦しめるのだ。気軽に、お礼を言えばいいのだ。私は、だいたいの文は、あの時あの人と話したなという記憶があるので、そこが客観性の担保になっているのだ。自分勝手に考えたものばかりではないという事だ。この辺りは、とてもありがたいものだ。老若男女と忌憚なく話せれば、わかるものだ。なので、やはり会話というのは、大切なのだ。ただ、重複項目が多くなり過ぎると、とても辛くなるのだ。そういうものなのだ。表現したいものを、顕在意識の記憶から、取り出しているのだ。やはり、そこに記憶がないと、取り出すのが、無理なのだ。無意識的には、こんなものというものになってしまうので、言葉の表現にできないのだ。よって、今まで少しでも、話をしてくれた人に感謝したい。ごめんなさい。ありがとうございます。全ての誤解は、その人がある立場に立ったことないから生まれるものなのだ。その立場になれば、わかるものなのだ。そういうものだと悟る事なのだ。だから、年齢が上がれば、だいたいその事には気付くのだ。ただこの相手が気付いているか気付いていないかは、たいてい人間勝手な判断で、誤ったものになりがちなのだ。なので、神のジャッジメントと悟った人のジャッジメントが必要なのだ。神と悟った人ほど、冷静なのだが、相手にはわからないものなのだ。なので、ゲームの設定を伝えた上で、どうするかしてほしいという時代になってきたのだ。この辺りは、とても有り難いものなのだ。専属の神というのも必要なのかもしれない。人は、リーダーに、一人の人間だからという視点と、多数のガイドだからという視点があるのだ。多数のガイドだからという視点では、矛盾を一切許さないのだ。が、それは本人が矛盾と思っているだけなのだ。この世の真相を知れば、矛盾は一切ないのだ。物理的な行為だけではないのだ。人が入ると入った責任が増える。入らなければ、物理的な量のものが作れない。このジレンマがある。やはり、私は、指導者の視点にばかり、考えていたようだ。それは、やはり先生だからだろう。ただ、今やっている事と、心で感じている事のギャップが誰でもあり、そこで頭を使いながら、たまにグチをいう事になるのだろう。誰でも、純粋フラットだからだ。あまりに、誰もが英語を勉強しろという圧力に負けているようだ。英語力と幸せは、比例しないのだ。この事に気付くことが増えて欲しいものだ。魂に本当に必要な場合は、もの凄い勢いで勉強するものなのだ。馬耳東風というのは、とても心を守る事なのだ。意識で必要な事を入れるのだ。私は、英語をBGMで、無意識の器を使えているかのチェックにしている。ついつい音に気が取られてしまうからだ。そこで、意識の器になりがちなのだ。そうすると、不要な情報を入れる事になるのだ。ただ、たまに意識化に入る必要な情報もあるのだ。が、かけない事も大切なのだ。それは、不要な循環を、あまり起こさないためなのだ。全ての時が満ちるタイミングというものがあるからだ。私は、元々、心の声を聴いていたのだろう。が、いつしか頭の声ばかりに囚われるようになったような気がした。将来が、不安だったからだろう。また、どうにか世界に広げるにはどうしたらいいかと苦心してきたのだ。心の中心の声に従いながら、頭で迅速に行動するというのは、とても難しいものなのだ。私は、心の声を軽視した時期があったが、それはどうしても、なかなか難しい場面だったのだ。やはり、人は身内だけでなく、赤の他人にも発信動作をする最低限の量というものがあるのだ。それがないと、循環がうまく回らないのだ。この量の目安は、その人の状況によるのだ。どのおばあちゃんも、それなりに発信すると人のためになる教訓というものがあるからだ。それは、次世代にとっては、ありがたいものなのだ。
繋がりがあり過ぎると、余計な動作が増えるのだ。この辺りも、うまくフェードアウトとフェードインが必要なのだ。ただ、私は、同じ動作で、一人に伝えるのであれば、1億人に伝えたいものなのだ。その準備をしているのだ。天衣無縫というのは、そういうものなのだ。読んでいると、多種多様な循環を起こせるようにしたいのだ。イヤだと言い合える関係がベストな関係なのだ。私は、温泉に連れて行くのを断った。それでいいのだ。どの人も悟りきるまでが勝負なのだ。名前も顔も知らないリビアの人にも私は、届けたいのだ。そうすると、このような文章にならざるをえないのだ。散文といわれる形式だ。勿論、項目ごとに分ける本の形式も必要だ。やはり、人は、そんなに時間がないからだ。が、愛読者のために、あえて散文形式の総循環用も用意周到にしているのだ。ここまでする人は、いないのだ。どういう結末になるかわからないままいろいろな循環を巻き起こせて、飽きないためには、この散文形式総循環スパイラルアタックが必要なのだ。なぜなら、私が一番飽きっぽいからだ。ただ、どの人も恋のような気持ちであれば、その人の記事を熱心に読み続ける事ができるからだ。恋のメカニズムと最高の霊能力のコラボによって、摩訶不思議なイリュージョンを起こせると信じていながら、疑いながら、生きているのだ。空中浮遊とテレポーテーションを駆使したイエスキリストの空中携挙だ。そうでもしないと、人間の根強い固定観念は、直らないんのだ。ただ、これはやりたくないのだ。それは、人間が自ら作った価値観を自らの行動と深淵な気持ちで直してほしいからだ。言語というものを作って疎通を図ったのだから、言語で疎通を図って欲しいといおうのが、神側としては、あるのだ。確かにその通りなんどあ。誤字を敢えて書くのも、教養のチェックなのだ。ドンドン見つけて、バカにして欲しいのだ。間違い探しゲームだ。そうでもしないと、人は長ったらしい文章は読まないのだ。
「あたし、あの本の文章で、これだけの誤字見つけた。あなたはどう?」というのも面白いものなのだ。なぜお堅い文章は、お堅い人しか読まないか、どうすれば読むかというのは、頭の良い人はあまりわかっていないのだ。つまり、まじめな文章を読むと、自然と脳内に反発の遊び心が発生するようになっているのだ。これは、そういう原理なのだ。誤字も脱字もOK系なブログもあっていいのだ。この方が、完全循環して、読んだ後にスッキリするのだ。まじめなものを取り入れると、どうしてもまじめな頭になりがちだ。たまには、牛乳の一気飲みをするのもいいのだ。なぜなら、誰にも迷惑をかけていないからだ。このような誰にも迷惑をかけていない遊び心を持ちながら、悟っていってほしいのだ。私は、どうしたら、一人でいる時に完全循環を起こして、最高の幸せ状態にいる事ができるか苦心してきたのだ。自虐とギャグを極める事なのだ。人は、一人でいると鬱になると言われるが、実はこの自虐とギャグを駆使すると、心がスッキリするようになっているのだ。私は、これに気付くまでに、28年かかった。なかなかこれは難しいものだ。なので、このノリノリ観をキープしてほしいのだ。神も笑っているあなたが好きなのだ。どんな場所でも笑える時がくるのだ。冬を越えれば、春になるのだ。どんなまじめな人も笑って欲しいのだ。笑い愛たいのだ。たとえ、血が流れる戦場でも、ペニスの大きさの話をして笑い愛たいのだ。私は、英語ハートローカーで、気付いたのだ。「一瞬、戦場で笑いあえるのか」と疑問に思ったものだった。だが、笑い合うのは、愛なのだ。しっかりと神という笑いの聴衆がいるからだ。いつでも笑ってくれるのだ。いやいつも小馬鹿にしているのかもしれない。ただ、誤字脱字ばかりだと、海外版翻訳に困るだろう。翻訳泣かせもいいところだ。「日本語勉強しとけばよかった」と言わせたいところだ。本当の純粋フラットは、一年の笑いの量も、うまい具合にキープするのだ。笑わなすぎても、心に疲弊する。笑いすぎても、循環が進みすぎて、快楽主義に陥いて、カルマを溜めるのだ。この辺りも絶妙なのだ。笑いに魂を売ったサンマ支障は、確かに笑いで成功したが、他の所に魔が行ってしまったのだ。それを刈り取る必要があるのだ。笑えるのだった。ごめんなさい。ありがとうございました。人生は、純粋フラットなのだ。なので、あまり心配する事もないのだ。私のこの状態が、中道なのだとも言える。中道というのも、状態の事なのだ。それで居続けると、人生は楽しいだけなのだ。本質を見抜くととても有意義なのだ。が、同時にとてつもなく愛の葛藤があるものなのだ。愛があるから、葛藤するのだ。神人合一というのは、心の中心の主人と、頭の中心の主人が、同時に存在している状態なのだ。不要な考えが、極端に浮かびづらくなり、必要な考えが極端に浮かぶ状態なのだ。この状態が、人間の理想の状態なのだ。が、旗からは、よくわからないようになっているのだ。どの人もわかるような時代になるだろう。その時、この物事の本質に気付くのだ。とっても素敵な世界なのだ。どの意識層かで考える事が違うのだ。寝起きは深刻で、徐々に気軽になるのと似ている。私は、深い層で、お掃除していたので、とても深刻に考えてばかりいた。が、それが済むと、とても穏やかになるのだ。日本語はとても、微細な単語が多い。だから、日本人は、微細な発想がしやすいのだ。ただ、巨視的な発想が抜けやすいとも言えるl。同じ事ばかり繰り返してはわからないのだ。徹底的に微細に拘ると、巨視的な発想も浮かぶのだ。私も日本文化で育ったので、この微細の部分が抜けて、巨視的な事を言われても、何か嫌気がさしていたのだ。なので、日本人は、もっと微細に見ていけいけば、内外反転っして、巨視的な像を理解できるのだ。この辺りが、無意識マップの埋まりになるのだ。内部の無意識マップの循環というのは、本人が知らず知らずに渦巻いているものなのだ。そして、時に現象界に現れるものなのだ。無意識マップが完成すると、どの会話もありがたいものなのだ。怒られた会話も怒った会話も感謝なのだ。すべての人がお互い様という意識で思える人が増えて、連帯していってほしいものだ。