verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

主のイメージ 次元の違い

次元 認識の違い
次元という言葉に疑問を感じたことはないだろうか?私は、ずっと感じていた。何か、使い方が、人によって、違うのだ。
次元というのは、状況によって、違う表現がある。5次元、11次元、30次元というものだ。どれも、細かく分けているか、大枠で分けているかの違いなのだ。
誰かについて、「あの人は次元が高い。」「次元を上げていきましょう。」というのは、超細かく分けて、考えているのだ。
5次元以上の話をする時には、各方面で伝えるのだ。13仏で、区切るのもあるようで、それを基にカウンセリングをするのもあるのだ。区切らなければ、相手に伝えられないからだ。五次元というのは、相手に伝えやすい最小単位なのだ。まずは、そこから入るのが良いのだ。そして、私は、疑問に思ったのだ。なぜ4次元空間だけでダメなのか?という事だ。なかなかまだ解けきれない。電池とガスで、家のコンロは、火を放つ事に気付かされた。が、まだ腑に落とせていない。なぜか、、、、。まだ、分からない。そもそも、四次元空間というのが、何かわからないからだ。どこまでが、4次元空間なのか、、、、。反粒子というのは、4次元空間なのか、、、。神とは、陽子とも言える。仏とは、電子とも言える。どちらのモノも愛せるのだ。宇宙の中と外があるという視点で言えば、反粒子でできた反人間というも、存在するはずだ。それは、自分の陰のような存在でもある。そして、純粋フラットな動きがある。睡眠中の自分と、起きている自分。どちらも愛すのだ。良想念というのは、陽子と電子。悪想念というのは、反電子と魂だ。全てを愛すという行為は、オリジナルマインドの動きに、意識が合うので、瞬時に構成要素を変えられる。眼鏡のようなものだ。ピントが合えば、目の前に広がる世界は、変わる。ごめんなさい。私は、電子レンジに感謝が足りなかったのだ。だから、電子レンジが、使えない状態を経験させていただいて、電子レンジの有り難みが改めて、感じさせて頂いた。つまり、一般常識の逆の体験をすると、黒と白の世界から、レインボーの世界にひっくり返るのだ。隣のおばあちゃんに、カードをあげるタイミングを見計らっている。ピンポンを押しても、出ないからだ。そうすると、ベランダで、ちょうどぴったりのタイミングでないと、渡せないのだ。変に声をかけても、お互いにとって、最高のムードにならないからだ。私は、タイミングを見計らう時間をたんまりかけている自分を許している。今まで、五月蠅くして、不快にさせていたお詫びなのだ。深い次元では、誰もが愛し合いたいのだ。それも、この世界なのだ。早く仕事を大量にこなさせばいいという魔に取り付かれていた。それが、間違いなのだった。ただ、間違いをした自分も愛してあげるのだ。生きていれば、悟ることができる。無意識マップの完成ができるのだ。共に、みんなで、完成を目指そうではないか。境界線を引いていたのは、自分であった。どんな自分も愛してあげるのだ。私ほど、自分を責めた人も少ないからだ。が、私よりも、責めた人がいた。それは、私の姉だった。ごめんなさい。ありがとう。私は、そこまで自分を責められなかった。結果が物語っている。私は生きていて、彼女は死んだ。だが、神は、どの人にも救済措置を講じている慈愛に満ちあふれているのだ。最大の罰と思ってたモノが、最大の愛なのだとわかる時が来るのだ。それは、いつ来るかは、わからない。それを知っているのは、神だけだ。私は、自分で見た美しいこの世の有り様を、自分自身を見分けるために、自分という存在をわけたのだった。感謝状態というのは、どういうことなのか?それは、例えば、食器洗い一つにしても、「お湯で洗えて、ごめんなさい。ありがとう」「この洗う仕事ができて、ごめんなさい。ありがとう」お玉を触って、「堅い物質があって、時間かかったね、ありがとう」というのが、次々に浮かぶ状態なのだ。私は、このお玉という単語が浮かばなかったが、ずっと記憶を探していると、わかるものだ。ここで、人に聞こうとばかりすると、記憶の感覚が、優れない。やはり、インターネットで、モノを調べると、感性が鈍る傾向があるのだろう。ごめんなさい。いつも、感謝もせずに、調べてばかりいて。これが、オリジナルマインドから見た視点なのだろう。とてつもなく、ありがたい。身震いがする。「こんな素晴らしい所にいるのだ」と気付かされる。人とばかりいると、このような気付きが得れない。人といることが正解とも限らないのだ。自分がやるべき事から、ついつい魔に負けて、離れてしまう。私は、日常生活がいかに素晴らしいかをどの人にも体感して、いつでも幸せになってほしい。感謝だけでも、ずっと幸せになれる。道具がなくても、幸せになれる。「なんでそこで謝るの?」という人は、感謝が足りない人の特徴だ。自分が、どれだけ壮大な空間にいるのかという事に気付けば、謝るばかりなのだ。まずは、形式だけの謝りでもいいのだ。そこから、段階を上げていけばいい。太陽は、いつも降り注いでくれているのだ。怒りあったら、仲直りをして、ご飯を食べるのだ。怠けたい気持ちはよくわかる。私も、こうして、横になりたいのを我慢している。この我慢とやせ我慢は違うのだ。拠点というのは、大切だ。私は、睡魔を我慢した。が、いつのまにか寝てしまった。ごめんなさい。いつもちゃんとした生活をしていなかったのもあるだろう。また、数学の時間に寝ていたのもごめんなさいだ。やはり、自分で頑張らなかった分は、自分を苦しめるのだ。自分で頑張った分は、自分を助けるのだ。私は、家にいる。それは、家で頑張ったからだ。やはり、その頑張ったものは、世間では通用しないからだ。そこまで、世間は、悟っていないからだ。悟っていない人同士では、いざこざが増えるのだ。それは、愛なのだ。私は、楽をしたかった。が、楽をすると、辛くなるのだ。人間は、楽ができない生き物なのだろう。ただ、生きているだけで、素晴らしいのだ。生きているだけで、素晴らしいのだ。生きているだけで素晴らしいのだ。私は、意識体だけの世界も体験させていただいた。が、それは素晴らしいが、面白くもないとも思った。こうやって、現実があるのは、とても有り難いのだ。私は、死人を愛すが、どの人も、この有り難さに気付いてほしい。謝罪のごめんなさい。と感謝のごめんなさいは、波長が違うのだと気付かされた。ただ、感謝は、ありがとうだけではないのだ、ごめんなさい。なのだ。漢字が、このあたりの微妙な波長のニュアンスを捉えているというのは、それだけ体感して、実践していたからだろう。私は、今にして初めて、感謝の言葉の意味を腑に落とせたようだ。いや、まだまだだろう。そこまで、この感謝というのは、奥が深い。ただ、理屈屋だったのだろう。感謝ができていれば、今頃ここにはいなかっただろう。ごめんなさいの言い方も、千差万別なのだ。私は、母が、食べ物が余っているのに、どんどん買ってきて、捨てるのが、許せないのだ。ごめんなさいとの葛藤なのだ。「何度注意しても直らない」というのは、貴方が変わってないからなのだ。これは、お互い様なのだ。食べる食べないは手段であって、感謝して・愛したいだけなのだ。やはり、朝早く起きてないと、感謝状態まで、戻すのに、時間がかかる。朝の土下座からしっかりやるのだ。人は、「ごめんなさい。赦してください。」という。この「赦してください」は余計なのだ。「ごめんなさい。これします。」だけなのだ。「ごめんなさい。明日は、必ず五時に起きます」なのだ。「絶対起きます」は、連呼するものではないのだ。終いには、自暴自棄や固定観念に繋がって、自分を苦しめるのだ。私は、この検証に長らく時間を使った。確か「絶対」という言葉の強さにより、物事が見た目上は、進むのだ。が、内外反転がどこかで起こるのだ。私は、この言葉の怖さをマジマジと体験したので、たまにしか「絶対」を使わない。だから、必ずという言葉を使う。絶対というのは、絶対というのは、悪魔主義に繋がるのだ。対を絶やしては、後で、しっぺ返しがくるのだ。そして、必ずという言葉は、99.999%なのだ。必ずやりますって言ったでしょ。と絶対やりますって言ったでしょ。というのは違うのだ。絶対というのは、この世界をバカにしているのだ。絶対という言葉を使って人に対して、どれだけ神が応援していると思っているのか。この事を知っている人は、おそらく私と貴方ぐらいだ。絶対の場合、状況を整えないといけなくなるからだ。これは、申し訳ないのだ。だから、見栄で絶対を多用した人は、後で痛い目に合うのだ。だから、必ずやり抜きますなのだ。その日のうちの仕事というのは、朝次第なのだ。自然と決まるものなのだ。ただ、ごめんなさいなのだ。絶対という言葉を使って、それが実現していたとしても、それを誓ってはならないのだ。これは、マタイによる福音書の5節33にも書いてある。誓ってはならないというものだ。人はみな、「主」という像を自分勝手に解釈しているのだ。私は、今で自分の「主」像は、間違っていた事に気付かされた。いや、今も完璧ではないのだ。ただ、ごめんなさいなのだ。

 

追記

なかなか次元がわからなくなった。異次元に来てしまったようだ。元の次元に戻れるのだろうか。