verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

情熱を出し続ける事

情熱を出し続ける事と、抑える事
情熱がないと悩むことはないだろうか?私もよくある。なかなか難しいのだ。
なかなか情熱を出し続けるメカニズムというのは、私にはわからない。ここは、長年の弱点なのだ。周囲にある情熱を求められる場所にいると、誰しも情熱を出しやすいのだ。が、やはり情熱というのは、自分でコントロールするのが、一番なのだ。情熱というのは、何かと繋がっている状態なのだ。ある深くまで、到達すると、感動するのだ。
高慢と情熱は違うのだ。
自分に酔いしれる高慢と、「やってやる」という情熱は違うのだ。これの見分けがついていない友人を知っている。それは、「自分の過去生が、偉人だから」と酔いしれている人なのだ。神が、奮起させるために、用意したインスピレーションなのであって、酔いしれるワインを飲むようなものではないのだ。私も、尊大と尊厳がいまいちわかっていなかった。
しかし、場所を選ばないというのもあるので、私は車の中で、このブログをタイプしている。この場所を選ばず、やり続ける魔というのは、克服したのだ。克服すると、どの場所でも、メンドクサくないのだ。ただ、自分がそのタイプしている姿を見せられる魔に勝った場合は、引っ込めてもいいのだ。それは、時と状況によるのだ。例えば、「洋服なんかという」のと、「洋服に感謝して、洋服を使い分けろ」というのがあるのだ。
ティーブジョブスが、同じ服を着るが、洋服に愛情があるのだ。が、それよりも、重要な事に専念するのと、堀江貴文さんが、洋服なんてどれでもいいでしょという意識で、他の事に専念するのとの違いなのだ。が、私は、決してスティーブジョブスの方が、堀江貴文さんより、優れていると思っているわけではない。あるテーマの時に、一部分だけくり抜いて、表現せざるをえないからだ。重要な箇所で、意固地になるのと、軽視する姿勢というのは、違うのだ。同じ労働生産性でも、愛着の有無は違うのだ。それが、いつか内外反転するのだ。私も、洋服を軽視して、周囲から脅された経験があるので、わかるのだ。自分のアイデンティティというのは、「洋服はどうでもいいでしょう」というアイデンティティだと自分の脳では、そのように思い込んでいても、本来のアイデンティティは、そのような自分ではないのだ。このギャップが、現象化するのだ。本来の堀江さんは、洋服を大事にするアイデンティティなのだ。ここが、ミソなのだ。「もしかして、俺、洋服なんてどうでもいいと思うタイプだと思い込んでたけど、実は、洋服好きなアイデンティティが欲しいんだ」という事に気付く事なのだ。状況により、変わっていいのだ。私の家族も、化粧をしなかったが、するようになった。それでいいのだ。そうすると、異性を意識させる事ができて、アイデンティティを変えた自分を見せられるのだ。
ニューヨークでも同じようにタイプできるのだ。誰かが、リラックスしていたり、遊んでいるのを羨ましいと思う気持ちもなくなってきた。理想としては、私も、遊びながら、仕事したいのだ。日本社会では、やはりお金が剰余のベースなのだ。私も、お金にたらふく変えていきたいのだ。お金がないと、自他共に、気を使わせるのだ。ある人がお金がないと、他の人に新たなアイデンティティを獲得させづらいという責任があるのだ。要は、奢り続けた人が、奢られるというアイデンティティだ。私はシマったと思った。これは、問題なのだ。視点転移の中で、できるだけ同じパターンにならないように努めるのが、私たちの希望なのだ。
お金に変えるには、その分の価値を気付かせる必要があるのだ。「お金のためにやっているわけではない」と「お金を剰余し続けるために、動かす仕組みを作る」は違うのだ。
どの人も、実は、お金のために、やっているわけではないのだ。剰余を発生させたいだけなのだ。
私に関しては、「お金のためにやっているわけではない」というのは十分なのだ。これからは「お金を剰余し続けるために、やっていくのだ。」
まだここは全クリしていないのだ。ただ、情熱というのは、ある立場で、長らくいられるから、生まれるものなのだろう。ある立場でいられないと、情熱を基に、行動し続けられないのだ。金正恩さんも、同じ立場でいられるから、情熱が湧くのだ。私は、そのために、今こうして時間を捻出している。しかし、どうしても、「この延長線上でいいのか」という問いが来るのだ。切り替えるということもあるからだ。一度固定したものを、無化すると鈍るのだ。私は、教育改革を断行したかった。が、いつもこの自問自答がある。「それは、自分がしたいだけなのではないか。鬱憤なのではないか。自分を変えればいいのではないか。」というものだ。どれだけ、自問しても、最終的に、「変えた方がいい」という結論になるのだ。理想を言えば、「今すぐにだ。」この事をわかる必要がある。一番深い哲学問答をしても、結局変えた方がいいのだ。変えようと決意した。大幅な改革は、血が出るイメージがあるが、それぐらいやる覚悟がなければ、変わらないのだ。やられてもいいという覚悟が必要なのだ。どこまで、何をやられてもいいかというのを整理整頓する事なのだ。が、準備が必要なのだ。猛烈な純粋意識しかないのだ。ただ、手段は変わるのだ。疎通させきるのだ。制度を変えるのだ。現実化させるのだ。どうも弱気になる魔に負けるのだ。私は、先生側の視点というのはあるのは熟知している。が、教育制度を変える人は、そこに囚われすぎると、時代に取り残されるのだ。これは、経営者思考を繰り返した人は、わかる所だ。現場が困るからといって、断行しないと、時間が経つと、みんなで沈没するのだ。徹頭徹尾やり抜くのだ。それが、信頼になるのだ。私は、全ての人の気づきの最大化を狙い続けている。何事も相手が初めて見たとして、記述するように心掛けるのだ。合わせる中心が社会なのか、魂なのかなのだ。
表現する手段というものを、持ち続ける事なのだ。それは、技術にもなるだろう。
演奏でも、作詞でも、テクノロジーでも、不動産でも、ブログでも、出演でも、講演でも、なんでもいいから、表現し続ける手段を得る事なのだ。時間との勝負の作家なのだ。20分以内で、200円以上の表現をする必要があるのだ。これは、どの人も同じなのだ。どうにか、それ以上を作り続けるのだ。