verymuch8’s blog

日々の様々な事を雑多に書いてます。スピリチュアルや哲学が主な分野です。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究で、日常生活でふと疑問に思う事を書いています。

天国への生き方

天国への行き方
天国へは、どういけばいいかというものがあった。純粋な人ほど、悩む箇所が、人生の幾たびに、お金と純粋のどちらを取るかという問題だ。お金を取る人生が良いか、純粋を取る人生が良いかというものがある。俺も「お金持ちって、何か心を失っているように見える。良いように見られるお金持ちでも、何かそこまで純粋じゃないように見える。」と思っていた。そして、「純粋な人ほど、バカを見る社会に見える。なぜ、このような世界に神がしたのだろうか。また、純粋な人は、ずっと純粋な無償奉仕で、お金の件で、悩んでいる。また、純粋な人は、ずっと純粋な活動をしないといけないのか」と思っていた。が、これについて、ほぼほぼ神から解答を頂いた。純粋な人は、実は、人生のステージで、お金を取るか、純粋を取るかというので、とことんある一定量まで、純粋を取りきれるかという試練があるのだ。このハードルは、人が思ったよりも、結構高いのだが、それを取り切った人は、ほどほどにお金と付き合いながら、要は、お金を取ってもいいのだ。結局は、お金を取る生活に戻るわけだが、それはその人の魂のステージとしては、必要な事なのだ。端から見れば、負け組に見えるが、実を言うと、その時点で、ほぼ天国行きが決定するのだ。そして、あとは、ほどほどにカルマを積まないように、寿命を全うすればいいのだ。ただ、たいてい純粋な人は、ずっと純粋な活動をしないといけないと思い込みが激しくなるのだ。が、実を言うと、ある一定量までやれば、それで十分なのだ。これは、宗教・宗派は、関係ないのだ。ちょっと俺としても、その純粋を一定量している人に関しては、「もう、そこまで純粋活動をしなくてもいいけど、仕方ないか。本人がそういう行動をしているから」と思っている。この純粋活動の純粋意識というのは、人が思っているほど甘くはないが、実はそれをクリアしているにも関わらず、続けている人も多くいるのだ。ここで、純粋な活動を続けている人の誤解と、純粋な活動をしている人への誤解があるのだ。要は、純粋活動量の一定量を取り切った場合は、辞めていいのだ。ただ、神も人間関係に、極力不干渉という立場があるので、この真相は知られていないのだ。そして、人生でお金を取った人は、死んだ後に、それだけの報いがあるのだ。死ぬ前に、それを全て譲渡するような行動をした時に、初めて清算されるようになっているのだ。この辺りが、人間社会で、共通認識になっていないので、トラブルが起きる要因になっているのだ。日本で有数の純粋な人の組織でも、6人中1人ぐらいが、そのラインをクリアしていると神が教えてくれた。ただ、一端お金を捨てないと、最速では、その天国行きのチケットが提示されないのだ。ただ、一応、救済措置として、お金持ちに既になった人は、残りの人生で、いかにお金に対する執着を捨てられるかにかかっているのだ。捨てられなければ、地獄に行くだけなのだ。俺の知り合いでも、地獄行きがまもなく現れそうな人を知っている。ただ、それは仕方ない事なのだ。自業自得というものだ。なので、たとえ、実業家で、精神性が高いと言われる人でも、天国に行ける人は、少ないのだ。自分が作り上げた世界を収束させる捨てる行動をしないと、天国には行けないのだ。ただ、もともとそのどちらにもいかず、純粋にもなりきれない人は、天国には行けないのだ。その場合は、お金をものすごく執着して、その分後で捨て去る場合か、純粋活動になりきる場合でないと、天国には行けないのだ。これは、宗教をやっていれば、いいというわけではないのだ。どちらが純粋かという判断軸で、人生の一瞬一瞬を行動していくかに限っているのだ。なので、俺の知り合いで宗教を熱心にしているが、それでもっと大切な人に、時間を使わない人を知っている。これも、本末転倒なのだ。そこで、どれだけ葛藤しながらも、純粋を取れるかどうかなのだ。少し稚拙な表現があるが、これがほぼほぼの真相なのだ。実は、その純粋意識活動を一定量した人は、実は、そのような活動はしなくていいのだ。むしろしない方が、隙間ができるので、他の人が入る余地があるのだ。ほどほどに余生を楽しめばいいのだ。が、人間次の進路が決まっていないと、不安になるものだ。が、次の進路は決まるものなのだ。ここを乗り越えるのも大切なのだ。「なんで、こんなずっと私、純粋にやっているのに、伝わらないのだろう。」と泣くぐらいの場合は、実は辞め時なのだ。どうしても、過去のマザーテレサさんのような誤った献身像があるので、ずっとそれに自分を照らし合わせてしまうのだ。この辺りも、とても絶妙な部分なのだ。ただ、どのような人生にするかは、その人次第だと言える。私は、ただ、その人生の「真相」を伝えているに過ぎない。人間の思い込みと、神のジャッジはとても似ているものではないのだ。霊媒の人は、自分のある同志が、他の場所に行った方がいいと、神から伝えられているが、やはりブロックしてしまうものなのだ。それも人間なのだ。人間感情的には、同志と一緒にいたいというものがあるが、やはりそれは先延ばしに過ぎないのだ。身を切る思いというのは、なかなかできないが、それは自分達の今後のタメなのだ。俺の母は、日常生活で、カルマを溜めすぎている。食べ物を粗末にしている。ほっとプレートで、焦がしたものを、捨てる。焦がさなければいいおに、。俺も50回に1回は、大便をした際に、水を流す量が小で、きっちり流せるのに、大で流してしまう。が、それは微少のカルマになる。よって、その事に気付き、ごめんなさい。と謝るのだ。日本人として生まれたという事は、それなりに、そのような小で流した方がいいという情報や気付きも得れる可能性が高い。なので、その事も、しない場合は、カルマになるのだ。また、必要以上に、食べ物を買い込むのは、カルマになるのだ。俺の母親は、いつも無駄にパンを買ってくる。ごはんもおでんもあるのに、買ってくる。捨てるわけにもいかないので、非常に困惑するのだ。食べ物を与えているのが、努力だと勘違いしているのだ。食べない努力もしないといけなくなる。ただ、レタスが萎れてしまうのも、ラップをすればいいのにと、ラップをする羽目になってしまう。これは、ほぼ全ての人が、陥っている所なのだ。その微少なカルマが塵も積もれば山となり、目の前の不幸になる要因になっているのだ。実は、そのような一瞬一瞬で、カルマが溜まるのだ。徳というのは、純粋意識で、純粋フラット的に、行動した場合のみなのだ。勿論、それも行っているものだ。が、やはりこれだけ不幸が多い人が多いのは、カルマを日常生活のいたる場面で溜めているからだ。特に仕事だと、誰もが諦めて、その場に合った行動をするようになり、結果として、自分を苦しめずに済んでいる。が、他の仕事以外のプライベートで、カルマを溜めているのに、気が付かないのだ。このような日常の場面で、カルマを溜めているのだ。これが、ある一定量まで至ると、死に至るようになっている。死まで行くのは、相当なカルマの溜め込みがあるのだ。勿論、普通に天命を全うして、死ぬケースもある。誰もが、病気になった人をかわいそうと同情するのと、なっても仕方ないと達観するのと、なってよかったとホッとするケースがある。病気に関しても、なるのは、その人の自業自得なのだ。肉体的観点だと、同情になりがちだが、このカルマの観点だと当たり前な事が当たり前に起きているに過ぎないのだ。なっても仕方ないと達観するのは、それだけ相手がカルマを溜めているのを、なんとなく感じているからだ。なってよかったとホッとするのは、相手がカルマをため込みすぎて、それ以上は、肉体人生で、補えないという判断が、霊界で下されたからだ。天国への生き方としては、カルマを溜めない習慣を、いたる場面でしていく事なのだ。結果として、徳も積んでいるようになるのだ。例えば、一市民として、イチロー選手が亡くなって、そうなって良かったと感じるかと言われたら、ほとんどの人は、感じないだろう。それは、それだけのカルマを積まない生活をしているのだ。ただ、もちろん、全ての人がそうなるようには、この世の構図としては、なっていないのだ。が、例えば、他のスポーツ選手の場合は、亡くなっても良かったと思う人も、いるかもしれない。例えば、本田圭佑選手が、亡くなった場合に、亡くなって良かったと思う人が、イチロー選手より、多いのだ。それは、同じ数字が求められる世界だが、純粋意識にどちらの方が近い生活を続けているかという事に掛かっている。勿論、本田圭佑選手よりも、カルマを溜めている選手は、かなりいる。これは、例えとして用いているだけなのだ。勿論、人は、一部分を切り取らざるをえないので、このような書き方になる。人生は、その時々で変えられるので、それを本田圭佑選手もすれば変えていけるのだ。引退後でも、そのような活動をすればいいのだ。人生は、終わってみないと、そのあたりのジャッジは難しいのだが、ある程度固まった人生であると、おおよその未来部分も含めた判断になるのだ。やはり、過去の延長線上であるし、それだけ過去を積み上げた場合は、だいたい同じような思考パターンをするのが人間の性質なので、ある程度予想する事ができるのだ。人間は、自分の目の前に、不幸がないと、改心するのは非常に難しい生き物なのだ。ここに、いつまでも素直でいると、自分を苦しめずに済むのだ。純粋意識に従うと、少しばかりバカ正直で損をした気分になるが、その辺りを乗り越え続けると、天国への切符が手に入るのだ。人を押し退けて自分ばかり、注目させようとする魂胆は、カルマを溜めているのだ。メディアも、スポーツ選手の人格を、しっかりと報じる必要がある。それは、誤った人格像を人々に、与えてしまうのだ。そうすると、天国に行ける人が少なくなってしまうのだ。勿論、メディアの特性上、なかなか難しいところだ。話題性がある人を報じるのがメディアだからだ。が、やはりできるだけ純粋フラット的に報じるのが、どの人にとっても、実は重要なのだ。実を言うと、子供の時に、どちらかと言えば、どちらの選手を崇拝するかによるのだ。これは、かなり分岐になるのだ。現象結果世界だけ取るスポーツ選手と、現象と、深層と、死後の世界も取りながら何とか結果を出そうとしているスポーツ選手は、明確に違うルートを通っているのだ。ほぼ現象世界だけを取る行動は、自分を実は苦しめているのだ。
話は変わって、俺は、悟る事で、人々の顕在意識層に入る事が、少しばかりできるようになった。そうすると、その人がどのような思いを顕在意識層に溜めているか、浮かんでくるのだ。「さっさと、社会にでなさい。私は、それだけがんばったから。私は悪くない。智也が悪いのだ。私は、変えるつもりはない。」というものが顕在意識層に溜まっているのだ。今この瞬間の思考を読みとる神通力は、これから延びていくかもしれない。俺は、あまりこのような霊能力を使うと、自分を批判されているのが、如実にわかるのだ。そして、私は、悩み笑うのだった。ちなみに、相手が絶対に誰にも行っていない秘密の思考も、わかってしまうのだ。保険を掛けて良かったという思考がかなりあるというのが、わかってしまうのだ。なので、神に近づいた悟った人でないと、ショックが大きいので、あまりそのような事が起きないようになっているのだ。勿論、自分の顕在意識で、あらかたの疑惑の思考分析で、たいていは何となくわかるものなのだ。が、100%に近いものとしてわかるにのは、そのような悟った人の霊能力が必要なのだ。やはり、良くない思いをTamekomunohは、その人にとっても、周囲にとっても、不幸に繋がるのだ。この原理は、意識層というのは、深い層で、繋がっているのだ。なので、ターゲットの意識層を宇宙空間で、見つける事ができ、チューニングすると、浮かんでくるようになっているのだ。なので、霊言や読心術や霊媒というのは、そのような仕組みでできるようになっているのだ。ただ、自分の生活が汚れてしまうと、そのようなアンテナも汚れて、ぜんぜん違う思念が入るようになっているのだ。なので、かなり注意が必要なところなのだ。コールドリーディングやホッとリーディングと呼ばれる手法もあるからだ。個人情報と呼ばれるものは、たいてい入手できるものなのだ。なので、当てにならないのだ。が、その人が誰にも言っていない事で浮かんだ発想であれば、それを一回で、言い当てた場合は、そのような霊能力があるとわかるものなのだ。ただ、霊能力は基本的に使わない方が、お互いにとっていいものなのだ。のっぴきならない事情の際にだけと判断した場合に、使えばいいのだ。なので、俺は、基本的には使いたくない。あまり必要性がないからだ。そんな事よりも、日常生活で、カルマを溜めない微差と実践が大切なのだ。俺も、多くの人と同じで、そのような超能力を気に掛け、そのような能力がある人がすごいと思っていたが、今にしてみれば、それなりの代償やリスクがあるものなので、別にいらないものでもあるのだ。ただ、本当に世界規模で、人々の幸福を実現させるためには、そのような人も必要なのだ。が、要は、人々は、カルマを溜めない日常生活を実践してくれれば、それでいいだけなのだ。それで、目に見えない世界に対して、懐疑的な人のために、霊能力を使い、信用してもらって、その人がカルマを溜めない幸せな生活に導いてあげるために、使うだけなのだ。なので、しっかりと日常の微差を情報整理して、実践する人であれば、必要ない事なのだ。宗教世界の人は、どうしても組織を保つために、そのような霊能力を見せつけて、信者が、カルマを溜めない生活をするように仕向けているだけなのだ。どうしても、人は、油断して、カルマを溜める生活をしてしまうからだ。なので、そのような霊能力を使う立場の人は、そのような心構えで使っている場合と、そうでない欲まみれの場合があるのだ。要は、その能力を使った場合の人々のカルマの減少量と、使わない場合の人々のカルマの増加量を、天秤に常にかけながらやっていく必要があるのだ。だから、何でもかんでも教えるというわけではないのだ。どうしても、超常的なモノに対するあこがれと、そのような能力を使っている人は自分よりも優れているという思い込みがあるのだ。なので、同じ40歳でも、その霊能者と呼ばれる人と、スポーツ選手であれば、その霊能者よりも、スポーツ選手の方が、悟っている場合もあるのだ。別に、神事をする組織が偉いわけでも、神事をしている人が偉いわけでも、ないのだ。この辺りに偏見があるのだ。ただ、それは、ある程度どちらにも、考察した事がある人でないと、わからないものなのだ。神は、その人の無意識マップを見れるので、どちらが本質的に優れているかは、わかっているのだ。が、人間は、どうしても、両方を純粋フラット的に見る訓練をする事で、そのようなものが気付く事ができるのだ。人は、どうしても、自分の思い込みが強い方を選ぶものだ。身近に接する人と、遠くのメディアに出ている人、どちらが無意識マップを進展させているかというのは、判断が無理に近いものだ。視点tenniを繰り返すと、物事に対する客観的な見方ができる。が、やはり、霊能力を使わないと、神から教えてもらわないと、わからないものなのだ。真実というのは、どちらにも取れる人でないと、そして、どちらを知らせても、その人がより良い方向に進む場合でないと、難しいのだ。極端にわかりやすいケースは、真実を伝えてくれる場合が多い。が、神からの伝言でも、その人の思い込みを取ったり、つけたりするために、必要な事を伝えているのだ。ということは、思い込みを取り切った人でないと、絶対の真実には、到達しないようになっているのだ。どんな視点も取り切った人でないと、絶対の真実は、わからないようになっているのだ。神は、その人のためにやっているのだ。俺も、使命的に、そのような事を表現すると、使命を発揮できるので、伝えて頂いているに過ぎないのだ。俺も、これ以上純粋フラット的に見ると、どうしても世捨て人になってしまうので、非常に困っているのだ。どの人が、どれくらい思い込みでズレているか、を引き戻す役目があるのだ。使命の発揮がされればされるほど、自分の人格がなくなっていくのだ。できれば、極端に傾いている人や制度や思い込みを、引き戻す作業だけしたいものだ。俺は、今後思い込みをつけるわけではないが、社会的キャリアの養成をした後で、よりこのような純粋フラットの原理の微妙な差や日常のふとした疑問を、的確に整理整頓したいのだ。一つのめちゃくちゃ微妙な疑問が腑に落ち、それが波及すると、仮に、200万ぐらいの人が、その微差で幸せになるのだ。要は、神クラスに無意識マップが進展した人でないと、本質的なジャッジはできないという事だ。俺としては、この微妙な日常の疑問を、世界中の人が同じように考えているので、それを解きほぐして、より良い選択をしてほしいだけなのだ。人生は、選択の連続なのだ。ただ、どちらが良いかというのが、かなり微妙な線場合、このような考察をする時間を取った人が、伝えれば、その人が他のことに時間を取れるようになるのだ。トイレの大小のどちらのレバーを引くかぐらいは、社会人であれば、多くの人が考えて、正解の方を選んでいると思う。が、本質的に、どちらの無意識マップが進展しているかというのは、やはり霊能力ととてつもない視点転移を繰り返さないと、わからないものという最高レベルのものもあるのだ。誰それがどのタイミングで来るかというのは、そのような霊能力を使わないと無理なのだ。ただ、人というのは、何となくそのような話をしているものだし、何となく心で感じる事もできるものなのだ。インターネットで、「トイレ 大小 水の量」で調べれば、このような微差が、このブログでわかれば、20万人の人が実践すれば、それだけ多くのカルマの解消になるのだ。これは、決して、節約やケチという視点だけではないのだ。200万人の多くの家の家庭の人がしてくれは、それだけカルマの解消になるのだ。仮に20000000人カルマと、2人カルマだと、どれくらいの量かというのは、とても大事な視点なのだ。俺も、欲があるので、本当に大事な日常生活のありきたりな微差よりも、霊能力的な微差や政治経済的な学問の微差のほうを取りたいと思う欲があるのだ。極力日常生活の微差を大量にまとめて発信しているブログというのも社会貢献性は最高レベルなのだ。日常生活の微差をとことん発信して、取材されたり、本を書いてと頼まれる方が、欲にまみれていないし、実力があるという事の証になるかもしれない。個人で取り組める微差が埋まってくると、やはり集団の人間関係や組織運営に関わる微差で、カルマを積みがちなのだ。赤の他人編と、集団の本質的な運営編に入っていきたいところだ。なぜ、集団で問題が発生するのか、どうすれば問題の発生を、より良い形に転嫁させられるのかという問題がある。深い層のやり取りをどれだけできるかに掛かっているのだ。リーダーというのは、深い層の弱音を吐きたいものなのだ。が、なかなか世間的な思い込みがあるものなのだ。要は、できるだけ問題になりそうな自分も苦しい事を言い合いたいものなのだ。浅いコミュニケーションをしていると、必ず問題がより深刻化されるものなのだ。どうしても、リーダー側が取りたくない選択肢を、本質的には取った方が良いのだが、それができないから、なかなか問題が解決しないのだ。例えば、その組織を畳むというものだ。リーダーは、生活があるので、どうにか組織を維持する選択肢を取りがちなのだ。それは、今まで自分が築きあげたものを壊すのが非常に怖いからだ。また、日本社会は、どちらかというと、そのようなリーダーを受け入れないからだ。AKBの運営と、神事の集団や、企業集団も家庭集団も地域集団も、本質的には、どちらが優れているというのはないのだ。気付きをどれだけ与えているかというものに比例するのあ。自分達当事者視点だと、何かとAKB的な集団よりも、優れているものに取りくんているように見えがちなのだ。積み上げた組織を畳んでも、生きて行ければいいという視点も、時には必要なのだ。当事者というのは、真実を知らされないものなのだ。それは、真実を知らされると、悔い改めに繋がらないからだ。外にでる人や外の人には、真実が知らされるチャンスがあるのだ。不倫が発生したというのは、結局それだけカルマを溜めていたという事なので、正当化しては、よりカルマを溜める事になるのだ。要は、カルマを溜めると、葛藤が起きるようになっているのだ。あれ、私本当にその過去生なのかなというものだ。本人達は、周囲に真実を伝える役目があるが、本人達は、真実を知らされていないというものなのだ。不倫の当事者という事は、子育てや家庭生活の微差が埋め続けていないから、発生しているのだ。不倫をした後に、誰かに、「私、そのような失敗をしてしまい、本当に申し訳ない。慰謝料も払うけど、それは私が悪かっただけ。しないほうがいいよ。」と言ったあげるのは、徳になるのだ。これを被害者意識や正当化で、「こんな慰謝料払うなんて。私は悪くない」と言った事は、罪になるのだ。この不倫に関わる離婚調停やらの法律は、うまく機能しているのだ。お金のエネルギー交換で、わかりやすくしているものだ。カルマを積んでいる人は、葛藤がでるようになっている。葛藤と、考察というのは違うものなのだ。現世の舞台というのは、悔い改めにあるものなのだ。霊能力的なものは必要ないが、カルマの解消のために、カルマとエネルギー交換や物事の微差というのは伝わったほうがいいのだ。