verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

評論家 法律が先か後か

人の評価
人の評価ほど、当てにならないものはない。私の母は、祖父が、息子の嫁の家の借金を返した事が偉い事だと評価している。が、それは、反対に、自分で返す機会や目に見えないカルマを増幅させる行為に繋がるのだ。だが、ほとんどすべての人が、それを良い行いだと思い込んでいる。貴方が、お金を払う人が善だと、思い込んでいるに過ぎない。誰だって、目先の借金がなくなれば、苦がなくなって嬉しい。目先の借金を帳消しにしてくれた弁護士の人を有り難がる。ただ、その減った分は、更に増幅して、その人に襲いかかるのだ。これは、カルマの法則なのだ。特に、金には、エネルギーが強烈なので、その分を背負うのだ。私にとっては、母の強烈な思い込みが、世間一般のわりと多くの人が思い込んでいるのだと、推察する道具になっているので、有り難いのだ。ネタにして、ごめんなさい。ネタにさせて、ありがとう。お金とエネルギー交換とカルマの法則は、どの人にも伝わってほしいことだ。ただ、瞬時瞬時に変わっていくのだ。良い行いは、とても絶妙なのだ。例えば、私の母は、「植物に寒いからと、タオルをかける」。そこまではいい。が、今日は、ふとんをかけていた。これは、植物の気持ちを感じていないのだ。私は、母が、悪い行いを家や地域でしているので、それを変える役目なので、なかなか外に出れなくて、困っている。ちなみに、私は、27年間は、ずっと我慢してきた。母の行いが合っているのか合っていないのか、判断がつかなかったからだ。「自分が感情的に見ているのかもしれない、理性的に見ていないからかもしれない、」とばかり思っていた。「何かおかしいな」と思っていても、なかなか証拠が出なかったのだ。おかげで、今は頭での多角的な検証を終え、神に聞く事ができて、是非を聞ける事ができるようにさせていただいた。「あれ?なんかこの件あやしいな」と。結局、純粋に感じた気持ちが、合っているのだ、と伝えたい。ずっと、精神の虐待を受けていても、神は救済措置を講じてくれるとだけは、子供達に伝えたい。先ほどの例のように、このような微妙な所で、カルマか徳かが決まるのだ。地域の活動が足りないから、地域から注意される事が起きるのだ。私は、申し訳ないという気持ちのみだ。せめて、ゴミの分別と、ゴミ拾いだけさせていただきたいのだ。掃除機も9時代にかけるようにしている。私の叔母も9時代に起きていたので、それぐらいがちょうどいいと思っている。自分の価値観だけで、物事を判断してはいけないのだ。日本人というのは、精密に微妙なラインを話しているので、それだけことわざがあるのだろう。ただ、私の母は、「苦あれば、楽あり」とばかり強迫観念的自己啓発をしている。これは、目の前の現実の苦が、なぜ起こっていて、どうすれば解消できるかという視点を考えていないからだ。どの人も、現代社会は、人に合わせるばかりで、疲れてしまう。ふと、インドのセンチネル民族が、思い浮かんだ。文明との接触を拒む民族だ。武力衝突も辞さないのだ。が、それはそれでいいのではないだろうか。アメリカや北挑戦のように、核兵器を落とすわけではない。文明側が良いというのもおこがましいものだ。「日本は、法治国家だから、先に法律を整備しないと、自衛隊を派遣できない」という橋下元府知事と、「法律前提よりも、実行力をつけなければ、意味がない。先に、救助能力をつけるべきだ」という苫米地英人さんのやりとりを思い出した。これは、橋下元知事が言っている方が、私には合っていると思う。日本の歴史を鑑みても、法律の整備が、建前上でも、先なのだ。たとえ、裏で、訓練や兵器を作成していたとしても、建前は、必要なのだ。それが、立場の違いなのだ。本音というのは、暴力的でもあるからだ。要は、神人合一まで、心の器がいかないと、お互いにとって、本音でカルマを積んでしまうのだ。建前的な本心というものもあるのだ。例えば、「あの人は嫌い」という本音があったとしても、口に出すとカルマになるのだ。だから、そのような場合は、愛の想念法がいいのだ。これの葛藤量と論理体験がないと、様々な視点に転移できないのだ。私の母は、センチネル部族と同じ性質を持っている。が、それはそれで愛するのだ。私が、長らく怖かった事は、自分の考えが合っているのか、間違っているのかという事なのだ。もしかして、自分では良かれと思っている事でも、間違っているのかもしれないという視点だ。そこで、私を救ってくれたのが、感謝と神なのだ。