verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

道州制導入

非現実的道州制という視点
非現実的道州制を真剣に考えてみよう。私は、「非現実的だ」と思って一度も、道州制に対して、考えた事がなかった。正直一度もないのだ。それは、なぜだろうか。やはり、現実味がないのと、日常生活に関連づけづらいからだろう。国家体制というのは、そういうものだ。道州制で、5の州と一つの国としよう。
①北海道、東北、北陸、関東。
②中部(北陸のぞく)、近畿、中国、四国。
③九州、沖縄だ。そうすると、困ったことに3の州+1の国家になってしまう。となると、5にならない。ここで、「3でも良くないか?」という意見がある。ごもっともだ。よし終わり。と思った時、
ふと、「さすがに北海道から、関東までは遠くない?」という疑問も浮かぶ。
アメリカですら、あの広大な領土に、51州あるのだ。となると、「次は、アメリカの平均的な州の大きさは、どうなのかと、前例を確認しようとなる。」だいたいの勘を使う時だ。
「日本が38万平方メートルと聞いたような記憶があるから、アメリカは、日本の12倍ぐらいだったかな?。470万平方メートルぐらいかな。400万平方メートルかな?じゃあそれを51州で割ると、アメリカの1州あたりの土地の広さは、8万~9万平方メートルか。じゃあ、日本が、アメリカ様と同じにする場合、9万平方メートルにするには、38万割る9万で、4.2州程度だ。
となると、3州だと少ないかもしれない。となる。4州にするには、5州にするには、となる。今の区分けでは、8地方か9地方程度+1国家だ。
4州にするには、東北6県から、1州で12県あたりか。北海道東北関東連合州(A州)なのだ。
できるだけ、グーグルを使うのは、よそう。根性だ。
では、約12県のA州は、カリフォルニア州ぐらいの広さなのだろうか?と疑問に思う。
そして、次に、州の権限と、県の権限の違いと、アメリカ政府の権限と、日本政府の権限は、日本国家の権限と、アメリカ政府の権限は、どうなのかとなる。
正直めんどくさくなる。これが、B層の一般市民だ。そんなの調べると、日が暮れてしまうのだ。今の生活より良くなればそれでいいのだ。そういう政治家が出てほしいという他力本願だけなのだ。となると、このような検討を逐一している人は、よっぽどの暇人か、よっぽどな仕事をしているに違いない。
まとめるのは、それだけ大変な作業だと気付かされる。
複雑に検討すると、余計にわかりづらくなるのだ。
だが、現実問題として、決まってい
ないと現場が混乱するのだ。縦割りは、混乱を避けるためなのだ。秩序の提示だ。おかげで、行政サービスをあちこちで受ける事ができる。これは有り難い事だ。となると、こんな作業を検討している政治家はとても大変なのだと気付かされる。いつも、失言をネタにして、ごめんなさい。気付かせてくれて、ありがとう。なのだ。
国家体制を考える人というのは、大変な作業をしているのだなと感心する。
やはり、触れなくて良かったと思ったものだ。
納税だけはしっかりする一般市民でありたい。
ただ、このような思考過程を残している政治家は、どれほどいるのだろうか。
結果だけ渡されても、あまり面白くないし、ピンと来ないのだ。膨大な思考過程を残せば、納得いくのではないだろうか。が、そんなもんを読むのは、変人なのだろう。ただ、ある方向性を持たせようという思惑で、書かれたものよりも、素直な疑問からの思考過程の連続の方が、好かれるのには、間違いない。
どの人の思考過程も意味があるのだ。
偉人の思考過程だけではないのだ。
周囲がピンとしないので、啓発運動をする人は、過激にならざるをえないのだろう。だって、ぜんぜん無関心だからだ。なぜ、あんなに過激に物事を言うのだろうと思っていたが、やはり人々の無関心なのだ。が、その過激派も、他の事には、無関心なのだ。だから、変わらないのだ。
やはり、政治というのは、なるようにしかならないのだ。という事に気が付かせてくれるのだった。やる意味あるの?なのだ。
①州の権限
②州の区分け、広さ
③行政の単位
④行政の実務
なのだろう。まあ正直これぐらいの作業で、ギブアップなのだ。やはり、お金をもらわないと、このような活動はできない。と気付かされるのだった。
結局ゼロベースで考えると言いながら、アメリカ様との比較で、前例を気にするのだった。いや、比較は別に、ゼロベースだも言える。そうすると、やはり、「州にすると、高速料金が下がります!!とか、州にすると、行政サービスが更に広範囲で受けれます!州にすると、税金が減ります!州にすると、困る事が減ります!州にすると、、、、」単純なプロパガンタに陥るのだ。
そんなもの嘘だと誰もが気付いているのだ。いや、当の本人も薄々気付いているのだ。
物事は、書く等の表現をすると更にわかるという法則がある。まあ誰でも知っているがやっているかどうかだ。なぜ、税収が増えないのかというテーマも書ける時がくるのかもしれない。が、何事もまずやってみることだ。この新しいものを作ろうという表現活動をあまりしていないのが、日本人の教育内容なのだ。だから、道州制で、生活が豊かになるという妄想はさておき、道州制導入の是非という社会人小論文も、書けばいいのだ。物事を難しくしているのは、あなたの脳内記憶なのだ。作り上げた脳内記憶にやられているのだ。適当に驚異を感じているだけなのだ。人を繋げて、結集するのが、大事だと気付かされる。一人の人間が、表現できる量というのは、限界があるのだ。変えるのは制度でなくて、自分なのだと気付かされる。私は、小論文が嫌いなのだ。なぜだろうか、そう二項対立的に物事を書くのが型だからだ。それが嫌なのだと気付かされた。反証しても、反証しても、反証したくなる自分もいるのだ。視点というのは、沢山あるからだ。さも、わかっていますという書き方が嫌いなのだ。では、多前提的思考の悟りの小論文の書き方というのが、浸透してくれればいい。小論文の言葉遣いは、偉そうで嫌なのだ。めんどくさいというのが、私を救ってくれていたのだろう。型どおりに書いた方が楽だからだ。そうまるで、お手をするワンちゃんのようなのだ。こういう回答書いた方が、受けが良いというものに合わせていくあの感じだ。大人になったら、世界がわかると思っていた。また、大人は世界を知っていると思っていた。が、それは見当違いだった。論理や言葉で、難しくしている。子供の方が、世界を知っているのかもしれないという視点だ。記憶層が増えると、知った気になるのだ。これには、困ったものだ。小論文というのは、思考遊びなのだ。思考遊びをさも説得力がありそうな表現技法に変えているだけだ。「みんな仲良くしようよ」でいいはずなのだ。が大人になるとプライドが肥大化しているだけなのだ。私も、そうなのだ。恥ずかしいのだ。が、良い経験をさせてもらった。とっても恥ずかしいけど、価値ある経験だ。ごめんなさい。ありがとうございます。これが、原因なのだ。大人が子供になれない社会の雰囲気なのだ。どの人も、偉そうな事をしているだけなのだ。なぜ人は、記憶の奴隷になっている事に気がつかないのだろうか。私には、少しだけわかる。無意識の器を使えていないのだ。ただ、それだけなのだ。必要でない記憶の吸い上げがなくなるのだ。例えば、ユニバーサルスタジオジャパンの半券を見たときに、通常なら、そのキャラクターの記憶や、行った時の記憶や、将来行こうとしている人の記憶等が、吸い上げられるのだ。そうすると、それの繰り返しになるのだ。が、無意識の器というのは、今一番重要なイメージが浮かぶのだ。それだけしか浮かばないのだ。勿論、誰もが、意識の器にも浮上するとなるのだが、無意識の器は、「テニスの王子様のゾーン」なのだ。その人の無意識マップで、今一番何が必要かというイメージしか浮かばないのだ。「私は、朝早く起きること」なのだ。カルマを消去しないと、次にいけないのだ。次に行ったふりをする事はできるが、それは行ったふりなのだ。
□追記(2024年3月)
13道州制という区分けは、
北海道、北東北、南東北、北関東、南関東、北陸、東海、近畿、中国、四国、北九州、南九州、沖縄、である。
要は、面積である程度同じにしようという感じで、わりと道州制では13という数の多い区分けだが、分断に繋がらないだろうか?南関東の人から見たら、北関東の人は、田舎だろうが、同じ関東という括りでなんとか同郷的な同地方意識があり、維持できてる感はあるかもしれない。別に今のままで、そこまで問題じゃないでしょうという日本国民の保守性だろうし、確かに今のままで、まあいいという風潮の方が強いだろう。意識高い系の人や煩雑な労力がかかる一部の特定の人は、変えたいのだろう。ただ、革新的な事を考えると、何かしら分かることもある。