verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

どうせ届かないだろうという魔

どうせ届かないだろうという魔
教育の本質とは、何かずっと探究していた。手段は変わる。が、本質は変わらない。例えば、ガンダムモビルスーツのような時代が来れば、服の着用方法は、変わるし、教育内容は、変わる。が、人間が何をしていけばいいかという根本は変わらない。教育の本質は、「良い行いを良心に従い続けましょうという事」なのだ。色々と小難しく言うこともできるが、単純に表現すれば、そうなのだ。が、それでは、なかなか人は、納得しない。だから、あの手この手で、教育の本質を伝えている。また、手段というのは、膨大にあるからだ。だから、色々な情報に溢れている。人間は、色々な考え方があるから、頭に納得させやすい方法も変わるのだ。何かを定められるというのは、それだけ探究したからなのだ。私は、人に依存しなかった。周りからは、依存していると見える人もいるだろう。どれだけ人に依存しないで、考え抜くというのが、難しい事かわかった。たいていの人は、誰かの受け売りを話しているのだ。だから、色々な指摘をされると、ショゲるのだ。また、「ごめんなさいを毎秒言えるかどうかぐらい人間は、誤っている」というイメージを一度でもした事があるかどうかなのだ。それぐらい人間は、誤っている行動をしている。が、神は、同時に、慈愛に溢れている。スピリチュアルを探究すると、よくわかる。が、その分の代償もある。神は、どの人も大切に見続けているという事だ。また、ここは、21世紀の2017年の2月2日の日本なのだ。朝には、布団を出すのが、魔。昼には、布団を入れるのが魔。だからこそ、同じ布団の出し入れでも、魔が違う。私は、体を使う魔に負けることが多かった。が、これからは、しっかり体を使っていく。明日は、朝6時15分に起きるのだ。そのために、早く寝るように努めるのだった。未来にも、少しイメージを向けることだ。私は、6月までに本を書く。今は、2月だ。3月、4月、5月、とあと4ヶ月しかない。急いでやる事だ。私はやっと、時を取り戻したようだ。ごめんなさい。迷宮からまた、一歩抜け出せたようだ。思い上がっていた自分がいただけだ。また、多くの支援をしてくれた家族にごめんなさい。ありがとう。やはり、いつまで経っても、感謝というのは、大切だと気付かせてくれた。忠告はしなければならない。また、発覚させなければならない。が、それは、自業自得なのだ。ただ、私が悪かった。甘えていただけだったのだ。やはり、慈悲の心が大切だ。その時、その時にしているかどうかだ。必ず、警告というのは、一度ならず沢山来ているのだ。私は、その事に気付かなかっただけなのだ。不動産の自転車操業ほど、怖いものはない。不労所得と思い上がっているほど、経営は甘くない。今に寝首をかかれるのだ。だから、寝るというのは、恐ろしい事なのだ。短い時間にするに限る。10代や20代の人に対しては、全部自分の責任だ。という事を伝えたい。また、謝り続けた方が、身のためだとも伝えたい。謝っている時間を省くほど、人生は短くないのだ。周囲の人の支えがなければ、もっと辛い思いをしていたのだ。「有名だから」という事で、乗り切れる程、人生は甘くない。有名の魔に負けたのだ。という事を、私は、30年も診察していた父の主治医に関して、思ったものだ。私が、悪かった。もっと相手の気持ちに寄り添えれば良かった。お見舞いにも、もっと行ければ良かった。ごめんなさい。私は、DNAだからと、鬱病になったのを、人のせいにする魔に負けていた。DNAのおかげで、今生きているという事を忘れていた。知ったかの魔に負けていたのだ。どれだけのDNAが、自分のために働いているか、私には皆目見当がつかない。という少しだけ謙虚になれた気がした。家族の不和というのは、必ず自業自得なのだ。痛みを知ることは、とても良いものだ。私は、とても屁理屈屋だ。いつも、何か疑っている。が、どの人も屁理屈屋だと気が付いた。なぜなら、屁理屈をしないと、世の中の真相がわからないからだ。「これって、本当にあるのかな
?」という事だ。これを、とても長くしなければ、見つからないのだ。全世界のお陰様で、私は、6時15分に起きることが出来た。ぎりぎりだった。昨日の夜に、食べ過ぎない魔に勝って、切り替えたからだ。また、睡眠薬をさっと飲んだことだ。また、エッチな夢を見て、途中目を覚ましたが、、その後に、エッチな事を少しだけしたが、途中で止めたからだ。目を覚ますのと起きるのは、違うのだと気付いた。性欲の魔に勝てたからだ。悪夢も使いようだと気付いた。別にエッチな夢を見ても、その後に、どう動くかなのだ。長い葛藤だった。日常の分別が、きっちりできると、とても良いスタートを切れるのだ。明日は。6時に起きよう。やはり、欲張る魔に負けず、15分間隔で、早くするのがいいのだ。日常生活の魔を見極め、実践すると、とても、楽しくなるのだ。ごめんなさい。と言い、少し自惚れた自分を見直すのだった。明日は、我が身だからだ。アスリートの友達は、毎日こんな魔と戦っているのだと思うと、愛を送りたくなった。ごめんなさい、楽をして。毎朝起きるのは、自分を救ってくれるのだ。セルフチェックというのは、ちょっとした動作を変えられるかどうかだと気付いた。ああ、どの人も行っている日常の動作なのだと気付いた。私も、行っていたのだ。ごめんなさい。夜遅くまで、起きていて。私は、普通に夜早く寝て、朝早く起きていた自分を思い出した。それ以外の、生活をしている人を認めたいと思っていた。私は、「全てを愛す」と決めた。だから、夜中に生活している人の気持ちも、よくわかるようにしたかった。よくわかった。ただ、やはり、自分の同じパターンしか、経験していない人は、思いこみが激しくなるのだと思った。いや、思い込んだのだった。緊急事態の時に、自分の生活リズムが狂わされても、愛を振りまけるかどうかが、大切なのだと気付いた。私は、それがしたかったのだ。それには、睡魔に勝つ訓練をしないと、いけない事に気が付いた。私の母は、とても睡魔に勝っている。家族のために、いつでも動けるのだ。素晴らしいのだ。だが、人の話を全然聞かない。霧吹きの部品が取れて、毎度私が、どうするか迷うのだった。自分で直すか、手順をまた教えるか、手順を教えずに、そのままにしておくか、ということだ。教えても、自分でやろうとしない。ただ、そんな自分もいることに気が付いた。やはり、教えればいいというわけでもないと気が付いた。教えるのが正解と思い過ぎる教育者に、ありがちなトラップに引っかかっていた事に気が付いた。それは、教えて楽をしようとする事だ。一回で、覚えてね、一回でシトメようとする魔であった。これは、自分で、やる動作の準備が足りないのだ。「わかりやすく教えてほしい」という魔に負けていた事に気が付いた。ごめんなさい。記憶力というのは、大切だ。が、同時に記憶力頼りになってしまっていないだろうか。私は、記憶を封じた事で、その事に気が付いた。現代人は、記憶力に拘り過ぎて、記憶力がある事に感謝していないのかもしれない。また、相手が記憶していないと文句を言う魔に負けては、いないだろうか。私は、自分が記憶力がない状態で、自分の脳を悪くないと思った。夜中にテレビを見て、相手に迷惑をかけたくないのだった。私は、新聞を取りに行った。裸足でも、新聞を取りに行くという魔にも勝った。ごめんなさい、私の思い込みだった。この周囲の目を気にし過ぎる魔に負け続けていた。「見られたらどうしよう」という魔に負けたのだ。羞恥心の領域をきっちりと、広げる事なのだ。ごめんなさい。勝手に、自意識過剰だった。「誰も、見ていないのだ」。そう無関心を愛するという視点を、手に入れたからだ。また、人前で、ゴミを拾う旅を、ずっとしたからだ。それを、帰ってきてからも、すればいい。旅の体験を、家でもしっかりやれるかという魔に負けていたのだ。やはり、様々な魔に勝つと、自由になれるのだった。スムーズに事が運ぶのだった。洗濯物を畳むのだった。教育者は、バカなのかもしれないと思ったのだった。相手を変えようとする愚かさに気付いていないのかもしれない。自分が変わった分だけ、世界が変わるのだ。この事に例外はない。自分が何か違っているかもしれないという視点は、いつまでも持ち続けたい。どんなに、常識的に正しい事も、自分にとって、相手にとって、その瞬間に合っているとは、限らないのだった。顕在意識にごめんなさい。今日は、節分だ。「鬼は外~」をしよう。季節の行事も大切なのだ。いつまでも、こうべを垂れる姿勢を維持できるかどうかなのだとまた、気付かされた。全て、自分が何か一つ違うというのを、いつまで持ったらいいというのは、いつまで持ったらいいの?というのは言い訳で、いつまでも持ったらいいのだ。朝早くから働いている人を、テレビを見た時に、感じれるかどうかというのは、感謝の状態なのだ。インスピレーションの違いがあるのだ。感謝の状態により、浮かんでくるインスピレーションが違うのだ。この事を教えてくれた「全てのもの、、、、、」に感謝をしたい。黙ってというのは、悪い事だとばかり思っていたのだった。私は、愛の形を、一方的に見ていた。黙ってと言わない事が、愛だと思い込んでいた。動くなというのも愛なのだ。なぜ、彼は、その事に気付かないのだろうかと不思議に思った。同じ本を学んでいるのに、なぜだろうと、自分自身で、身を切ろうとしていないからかもしれない。。「モノは試し」なのだ。この無意識の器と意識の器の訓練は、できるだけしていきたい。おっと、また慢心していた。この慢心を気にする動作は、毎日100回するぐらいがちょうどいいのだ。足許を掬われないためだ。無意識マップの発達段階によって、言葉を表現を変えなければならない。が、同じインスピレーションを伝えているのだ。絵で教えるのもいいだろう。文字でもいいのだ。ダンスでもいいのだ。ゲームでもいいのだ。マンガでもいいのだ。私は、父親の抽象的で難解な概念を考えるのが得意な頭を貰って、有り難いと感じた。ふと、「幸子を大事に、、、」というお父さんの声が聞こえた。「ごめんなさい。しっかりするよ」と答えたのだった。どの人も、無意識の器を使っているのだと気付かされた。家庭円満というのは、自分で作るように心がける事だった。家庭不和だと思っていたのは、実は、家庭円満だったのだ。どの情報をひっぱるかという、心の中の真の中心なのだ。「いつまでもあると思うな、親と金なのだ」。「ああ、なんとこの世は美しいのだ」と感じたのだった。やっばり、私は、「素直に生きていこう」と思ったのだった。悟りは、年齢に比例するかというと、一概には言えないのだ。やはり、情報に触れたら、自分で素直に試し続けてみると、真意がわかるのだ。ただ、タイミングがあるので、人のことより、自分の事なのだ。あまり食べない事で、体の調子が、すこぶる良いのだった。やはり、感謝をし続けると、全体と一体化して、良いイメージを持ち続けられるのだった。足もとが冷えている事に気が付いた。靴下に感謝をするのを忘れていた。ごめんなさい。この無生物への感謝は、ずっと続けていきたい。やることがないのではなく、感謝が足りないのだったと気付かされた。物音に対する感謝、街を歩く時は。道路工事に感謝、道路を歩く時は。ニワトリに感謝、卵を食べる時は。やはり、感謝行というのは、どうなのだろうと疑問に思っていたが、全て繋がっている事に気付かされた。感謝をすることが、進路決定だと気付かされた。私は、進路相談をしたが、それは感謝が足りなかったのだった。ごめんなさい。「進路がわからない」とゴネている人に対しては、感謝が足りないというのを知らせてあげればいいのだと気付かされたのだった。私は、理屈屋だったので、その事に気付かせて頂いた。しかし、愛されている事に気が付いた。よし、また勉強しようと思ったのだった。感謝が大切だったのだ。この世界の全てのモノ、、、、、一つ一つに感謝したい。私は、一生ごめんなさいを言い続けたい。その意味をわかる人が、この地球上に増えてほしいからだ。謝ってほしいなら、自分から謝るのだ。だから、私は、人の分まで謝りたい。「自分は悪くない」と一瞬でも思う人は、傲慢なのだ。「あなたが謝るべき所でしょ」と思うのは、すべて、勘違いなのだ。謝っている人は、正しい行いをしているのだ。謝らなくて、ごめんなさい。気付かせてくれてありがとう。やはり、表現している事は、自分に言っているのだった。やはり、本で伝えている事と、実態というのは、離れているような気がするが、言行一致する。有言実行が大切なのだろう。約束を守るのだ。約束は今の約束を守ることなのだ。今しかないからだ。自分が、辛くなくても、謝ると決めたのだった。人は、なぜ宗教に頼るのか、それは、弱い生き物だからだ。顕在意識をモノに、入れてくれるのもありがたいと思った。私は、顕在意識がなくなってもいいと言っていたが、自分のエゴ意識がなくなってほしいの、間違えであった。ごめんなさい。こうして、自分で作った思い込みを、
また無化するのであった。一度離れると、意味合いがわかるのだ。無意識マップの、完成に近づくのだ。だから、いつまで経っても、自分がただ思い込んでいるだけという自覚は、自分を助けてくれるのだ。意識を入れてくれている、モノにばかり、、、、。いや、エゴ意識というのは、自分が勝手に思っているだけなのではないかと、、、、。あくま主義だけなのだと。無意識マップというのは、思い込みを作っても進むし、思いこみを無くしても、進むようだ。が、進みたいという自分がいるだけなのかもしれない。私の母は、ベランダで絶対話しちゃいけないと思い込んでいる、私は、絶対話しちゃいけないというのはないと思い込んでいる。のだった。確かにあれ?そうかもしれないと思う気持ちもあるのだった。そろそろ王手に近づいたようだ。私は、そろそろわかりそうである。自分と相手どちらに合わせるのか。宇宙は、圧縮したいのか、膨張したいのか、どちらなのか。この問いに、どう答えるか、、、答えないか、、、、。心臓の鼓動が聞こえる。私たちとお主達は、繋がっている。そうなのだ。繋がっているのだった。私は、気付かされた。現代人は、やる事が多くて、意識ばかり使うのに、慣れてしまっているのだ。そのように、社会が要請するからだ。ごめんなさい。おかあさん。あまり手伝わなくて。物理的に、普通の意識を使った方が、早く物事が進むように見えるからだ。遅れるという恐れの魔があるのだ。ちゃちゃっと意識で、やった方が早いように見えるからだ。私は、公教育で、無意識を鍛えるのが、どこまでされているか気になった。が、芸術分野だけのような気がする。私は、子供に伝えたい。貴方が、感動した作品というのは、何があっても貴方の才能なのだと。それが、たとえコンクールに入選していなくても。当たり前だが、コンクールに入選するのは、限られている。が、貴方にとっては、どの出来事も、才能なのだと伝えたい。私は、小学3年生か4年生の時に、まだ習っていない分数の約分について、インスピレーションが来て、とてもワクワクしたのを覚えている。歴史上の誰かが、分数の約分という概念を発見したのを、似たような気分だった。が、理性的に、既に誰かが、発見した事か、、、という気持ちも同時に存在したような気がする。が、何かの発見というのは、嬉しいのだ。それは、大人になっても、変わらない。が、冷める気持ちが、強くなるのだ。確かに、この世界で、自分が偶然発見したという事は、ほぼ例外なく、既に誰かが発見しているのだ。が、知らないから、おもしろいというのもあるのだ。上を見れば、きりがないのだ。私は、今ここスッキリなのだ。やはり、自分で探っていくから、面白いのだ。行き着く先は、同じだったとしても。やはり、技術というのは、誰かが既に、作っているのだ。私は、今すっきりかどうかなのだ。三次関数の人から見れば、分数の約分は、幼稚に見えるかもしれない。が、自分で、そう感じた気持ちというのは、とても大切なのだ。「お、これは何だ?もしかして、あの人が表現してた事か」と。宇宙の神秘を見せて貰った。とても、美しい世界だった。そう、何事も、求めれば、与えられるのだった。私は、エゴ意識のエゴの判断とは、誰がするのか、どういう事なのか、気になった。人間がするものではない気がする。それは、同じような動作でも、全然違う意味があるからだ。食事一つしても、感謝している人と、感謝していない人は、大きく違いがあるからだ。が、自分が変わればいいのだ。私は、悪魔主義かどうかの判断は、神に任せている。まあついうっかり、自分でしてしまう事もあるが、、、。悪魔主義だと、思い込んだ時から、何かがズレるからだ。だから、まだまだ色々調べていきたいと思ったものだ。やはり、自分以外の人が、多くのモノを循環させてくれているという感謝は、いつまでも忘れたくないと思ったものだった。私は、茶色のコートを自分のだと思ったが、それは母のだった。笑いしかなかった。やはり、天然というのは、面白いと思ったものだ。私は、また教えていただいた。私が、単に魔に負けていたのだった。人の書いた本に、書き込むを加えるか迷う魔だ。書き込めた。なんだ、誰でも普通の人なんだ。私は、現代人は忙し過ぎるから、時間のゆとりがある私が、代わりに魔の正体を伝えさせて頂いているのだという気持ちで居続けたいと思った。この人の本には、書いちゃいけないというのは、ないのだ。身近な人に崇拝されている人の本には書き込みづらさがある。つぶやき四郎さんのツイッターのようだ。その些細な気付きも同じくらい大切なのだ。ここまでくるのにだいぶ時間がかかった。何か、真面目な人が書いている事が、一番正しいかのように思い込む魔に負けていた。つぶやき四郎さんに感謝だ。私は、真面目や深刻②見えるモノを、笑顔に変えていきたい。どうしたら、この深刻そうに見えるテーマを、無意識マップを進めさせながら、笑顔に変えていけるかどうか、考え抜いていきたい。私ほど、深刻に考えた人間は、いないと自負できるからだ。オチは、大切だ。神も必死に努力している。深刻に考えた分、気楽に生きていけるのだった。これも純粋フラットの原理だ。ああ、明日は6時ジャストに起きるぞと、構えるのだった。5時起きまで、2月8日には、できるかもしれない。あれ、これももしかして魔なのか?と考える自分であった。こういうのを職業病と言うのだろう。ああ、だいぶお陰様で、大自由になれた。私は、ベランダでたばこに火をつけた。が、隣人に、たばこの煙が嫌じゃないかと気にかけた。そう、これが隣人愛かと思った。結局家の火事場で、たばこを吸うのであった。隣人に、申し訳ないという気持ちが出てきた。ああ、私は何と気を使う人なのだろうか。私は、隣人愛というわりには、隣人に気を使ってなかったのだった。ごめんなさい。壁を作っているのは、自分の思い込みだと、また気付かされたのだった。隣人のベランダの花は綺麗だ。これを隣の芝生は青いというのだろうか。いつもネタを提供してくれて、ありがとうございます。と感謝するのだった。今度は話しかけてみようか、いや迷惑かとまた悩むのだった。大自由の心なんて、と思う自分だった。「日本は、良い国だなー」と思う自分であった。これを1人語りというのだろう。「こういうのあるよね」というつぶやき四郎さんの表現に変えようか迷うところだった。ごめんなさい。ああ、なんと没頭できる環境を頂いていたのかと、思うのだった。環境にごめんなさい。環境のせいにする魔に負けていたのだった。「置かれた所で咲きなさい」という渡辺和子さんの文章を思い出すのだった。ごめんなさい。忘れてました。「忘れるのも大事だよね」と。あれ、みんな無意識的に動いているじゃんというのを考えるのであった。私は、大自由になろうと思った。が、大自由にならなくていい思うことが、大自由なのだという事に気が付かされた。束縛を受け入れることが、大自由なのかはわからない。やはり、相手と同じ動作をしてみると、わかるのだと、ベランダの植物にタオルをかけてわかったのだった。相手にとって、不可解な行動も、何かしら意味や意図があるのだ。何かしら意識しているからだ。このようにして、私は、どの人も愛せる境地になっていくのだった。そろそろ日常生活の感謝というのを、家から、会社や地域に変えていきたいと思うのだった。感謝とは、何かがしてくれている事に気付くことなのだ。やることがあるのは、有り難いのだ。360度検証すると、あれ、また戻って来ちゃったというのがあるのである。そんなグルグルの繰り返しなのだ。