verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

魔を作る想念 キリストを語る

睡眠時に何をしているか
睡眠時というのは、どうやら勉強をしているようだ。そして、私は、神から、「その日、その時刻、その時間帯じゃないと、ズレるのだ」と教えれいただいた。ズレるというのは、ベストにならないという事だ。人生は、壮大な無意識マップの完成を目指しているという事は、実は起きている時も、寝ている時も、等しく進めているのだ。そして、寝た方が進めやすい事もあるのだ。では、寝ている時に、何をしているかというと、そこは一概には表現できないのだ。どこかに飛んでいる場合もあるのだ。起きた時に、覚えていないというのも、有り難い事なのだ。
人間には自我があるから、例えば、自我で、嫌いな人同士だが、魂で合わせるようなセッティングをしている場合もあるのだ。それが、もし事前に発覚すると、それが起きない未来になってしまうのだ。ただ、魂にとっては、お互いの成長のために、必要なのだ。だから、事前に打ち合わせをする必要があるのだ。
では、私は、「夜寝る睡眠だけでいいのではないですか?」という疑問が出る。時間という感覚に囚われているから、起きている時に色々できるからだ。起きている時に色々しようというのもまた、欲なのだ。
昼に寝るというのも、必要なケースがあるようだ。私のケースで言えば、肉体が疲労しているわけではないが、急に猛烈な睡魔が襲う。それは、どうやら、打ち勝つ試練ではないのだ。寝た方が、捗る事があるようだ。これは、今まで普及している常識とは、違うのだ。ただ、私も何をしているのかというのは、チラッとこのように考察するだけなのだ。だから、その時刻に寝るのが必要であれば、寝るように努力しているのだ。寝る努力というのは、奇妙であろうが、努力なのだ。自分としては、起きていたいが、どうもそれだと捗らないようなのだ。これは、魔に負けているわけではないケースが大半だ。もちろん、睡魔に負けているケースもある。が、いつでも日中起きていなければならないというのは、世間で作った思いこみなのだ。
私は、自分の中の神と対話するのに、だいぶエネルギーを使うのだ。これの補充というケースもある。どうやら、人間は四六時中起きていると、何かが進まないようなのだ。その何かは、私はまだ掴み切れていない。が、寝た事で、自分を責める魔が多かったが、それは止めにしようと思うのだ。
意外にも、起きている時にする行為で、意味深いものというのは、少ないのかもしれない。いや、どちらも素晴らしいのだろう。睡魔を恐れている人に愛のエネルギーを送るのだった。だが、まだこの程度の情報では、腑に落ちない人もいるだろうから、より探求が必要な分野であろう。
忙しい人は、極端に睡眠を恐れているのだ。その恐れの想念が、究極の実在から離れる原因なのだろう。
人間の想念が、反粒子を宇宙の外に、粒子を宇宙の中に、形成し、反粒子が、ある臨界点に達すると、何やら、爆発、内外反転して、現実として猛威を振るうのだろう。
それを止めるには、霊体と呼ばれる存在で、くい止めにかかる「寝る事」が一番なのだろう。
それに関連して、悪想念は、おそらく、粒子の中の、中性子が、形を変えているのではないかと思われる。良想念も、おそらく、粒子の中の、中性子が、形を変えているのではないかと思われる。純粋な良想念だけを送るのと、魔を作成するような人間勝手な「良想念」は、雲泥の差のようだ。
純粋な良想念というのは、嫌な気分にされる人に対して、極上の幸せになってほしいという想念だ。脅威と感じた相手の成功を祈ることなのだ。
魔を作成するような人間勝手な「良想念」というのは、「敵を減らしてください」や「自分の夢を実現させてください」や「生活が豊かになりますように」や「楽ができますように」等である。
聖書で伝えている事の微妙な波長のニュアンスを取りきれるかどうかである。純粋な「良想念」というのは、内外反転の猛威というのはないのだ。だが、少しでも、魔を作る想念というのがあるのだ。そこに気付くかどうかである。人前で、祈る行為というのも、見栄っ張りの想念で、しっぺ返しが来るのだ。
また、どの人もキリストを語ってはいけないのだ。それは、大きな罪を作ることになる。ごめんなさい。「自分が王かもしれないというのは、自尊心の肥大化なのだ。」どの人も、王なのだ。王であり、奴隷なのだ。その事を履き違えては、ならない。ただ、それを相手にどうしても説き伏せる場合には、キリストというイメージを持ってもいいのだが、本人は、自分だけがキリストではないと、自覚する必要がある。それは、野蛮な人に対しては、キリストというものを使わないと、その人のためにならないからだ。と教えていただいた。私は、二回キリストを語った事がある。一回目は、自分のため。二回目は、相手のためだ。私は、真実を知らなかった。だから、本当に申し訳ないのだ。本当にごめんなさいなのだ。自分のためにキリストを語るのは、二度としないようにしよう。大きな罪を作ることになるからだ。たとえ、周りの人に、その事が認められても、それは大いなる罪を作ることになる。誰しも、一瞬「自分がキリストかもしれない」と思う事はあるだろう。それは、それでいいのだ。が、「自分がキリスト」というのは、恐れ多いものなのだ。ごめんなさいなのだ。誰しも、神の子である事は、間違いないのだ。が、うぬぼれてはいけないのだ。ただ、それは自分のアイデンティティを強固にしたい気持ちの現れなのだと気付く事なのだ。それでも、傲慢な私を許してくださった主に感謝なのだ。ただ、自尊心を持つ事は、大切なのだ。同じ買い物をするという動作でも、何かから逃げる魔に負けて、外に行くのと、勝って家にいるのとは、違うのだ。私は、教会に行けば、キリストに出会えるのかと思ったが、そんな事はなかったのだ。どの宇宙空間でも出会えるのだ。私は、父なる神と愛し合いたいのだ。私は、ずっと、父なる神像を誤解していた。それは、この世界の全てであった。この世界のシステムという見方をしている時期もあった。が、もっと深遠なモノなのである。表現するのも、邪推を呼び、畏れ多いのだ。やはり自分勝手な父なる神像を作っているのだ。私は、イエスキリストに付き従わなければ、父なる神に到達できないのかと、気になっていた。聖書を知らない原住民の人はどうなるのかという視点もあったからだ。また、仏教徒は、どうなるのかと思ったからだ。創造神だ。だが、私は、まだよくわからないという所に留めている。その事よりも、純粋であり続けるほうが、もっと大切なのだと教えて頂いたからだ。どちらなのかは、とても微妙なのだ。