verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

神通力の正体とは 恋愛発生メカニズム

恋愛の発生メカニズムと純粋フラット
小さく狭まったアイデンティティと、大きく広がったアイデンティティとは、どのようなものだろうか。
小さく狭まったアイデンティティの悪い例というのは、例えば、進学先を決める際に、「私は、今、この偏差値だから、同じぐらいの所にしかいけないな」という発想の積み重ねである。「私は、今この偏差値で、このラインか。一つ一つできる限りやっていこう」というのが小さく狭まったアイデンティティの成功例だ。
一方、大きく広がったアイデンティティの成功例とは、「今は、この偏差値だけど、このぐらい大きな夢があるから、今みたいに超がんばって、これぐらいの所に行こう」とする発想の積み重ねである。失敗例としては、「大きな夢があるけど、これをやり続けたくないけど、大きな夢を実現したいな。」というものだ。
要は、夢と現実だ。
勿論、小さく狭まったアイデンティティも自分を助けてくれるものなのだ。
勿論、努力の積み重ねをしないと、大きく広がったアイデンティティを積み重ねる事ができない。
私は、ドラゴンボールスラムダンクが好き、では、ドラゴンボールでは、ベジータが、「自分をカカロットに勝てるように頑張る」のが大きく広がったアイデンティティで、「もう無理だから、二番手でいい」というのが小さく狭まったアイデンティティだ。ベジータは、いつも苦心していた。どうしたら、自分よりも強いカカロットに勝てるかと、だが、そのアイデンティティを持ち続けたから、ベジータは強くなっていったのだ。小さく狭まったアイデンティティとは、自分が勝てないと観念する事なのだ。自分が勝てる視点を手に入れ、それを発信することなのだ。
これも時として、必要な事なのだ。クリリンも、どうしたら悟空に勝てるかと考えていたが、どうも無理だと観念した小さく狭まったアイデンティティがあったのだ。
あのまま、ドラゴンボールの世界で、あの格闘という分野で、大きく広がったアイデンティティでいたら、たまったものじゃない。
が、勿論、彼なりに、大きく広がったアイデンティティも考えながら、街の警察官になったのだ。この辺りを、このリアル世界とリンクさせると面白い。
が、街の人々の視点からすると、クリリンはスーパーマンの活動をしているのだ。
それは、切り取る視点が違うからだ。ドラゴンボールの世界は、どちらかというと、激突の決闘に重きが置かれているから、格闘技術がモテはやされがちだが、格闘技術という一面の切り取り方をしているのだ。
が、あれが、サラリーマン社会の視点で言えば、働かない悟空とベジータと毎日定時出社するクリリンのどちらが良いかと言われると、だいたい予想がつくのではないだろうか。もしあの世界に登場していない自分が警察の上司だったら、クリリンを採用するだろう。
あの手のマンガは、宇宙規模という大きく広がったアイデンティティばかりが取り出されがちだ。が、クリリンにとっては、大きく広がったアイデンティティが、街のヒーローなのだ。それは、定時出社を繰り返せるのは、クリリンのみなのだ。このように、身の程を弁える作業というのも必要なのだ。年齢と環境により、自分のだいたいの位置がわかるようになるのだ。いつまでも、イチロー選手のような宇宙規模の大きく広がったアイデンティティばかり求めるのではないのだ。いや、その見方自体が、ドラゴンボールの決闘技術のみを見るような偏屈な見方なのだ。私は、ドラゴンボールの戦闘シーンは、どうでもよくて、街の一場面のほのぼのシーンを注意深く見るのが好きなのだ。大きく広がったアイデンティティというのは、その人本来の個性が活きるものを言うのだ。それは、やはり年齢や特徴や技や経験や考え方等によるのだ。要は、宇宙規模に一度広げてみる発想は、とても重要な作業なのだ。
そして、段々と、現実的に考えていく作業も大切なのだ。
私は、宇宙一か日本一か県一位か地域一位か、自分一位か、考えていた。どうしたら、宇宙一になれるのだろうか。いや、どういう状態が宇宙一だろうと、どのような見方が宇宙一なのだろうかと考えてしまった。
そうすると、あれ、色々考え過ぎてしまった。
ある視点では、誰もが宇宙一なのだ。そして、ある視点では地域一なのだ。ある視点では、家族一なのだ。ある視点では、自分一なのだ。あまりに視点転移を繰り返すと、思いこみがどんどん無くなっていくのだ。これが、人間の体の三重性の視点なのだ。
どの人も、何でも取れるわけではないのだ。この辺りに、何かの役にはまった、人生冥利に尽きるというものだ。人間の脳は、一度に一視点なのだ。だから、誰かと話すと、視点が増えて、面白いのだ。会話というのは、視点の応酬なのだ。神人合一状態の人同士というのは、ベストな視点の連続を取れるのだ。いつも一番最適な視点をとり続けられるのだ。そうすると、幸せになっていくのだ。大人になると、おおかたの視点は、手に入れているもので、それがベースになっているのだ。ただ、その時に、ほとんどが自分の取りたい視点を取っているに過ぎないのだ。そこで、コミュニケーションのギャップが生まれ、解消の欲求が強まるのだ。自分が神人合一状態で、相手が神人合一状態でない場合は、相手が自分に合わせてくれるような状態になるのだ。ただ、この自分というのは、好き勝手な願望ではないのだ。
勿論、神人合一状態の人同士だと、無意識マップが切磋琢磨式に進んでいく。が、今の世の中、なかなか怒り愛を発射し合いながら、進めるというのは、なかなかないのだ。頭の中では、この人と戦いたくないというのが一歩リードしていながらも、心で戦うようにし向けられる自分もいるのだ。エネルギーのぶつかり合いにドラマが生まれるのだ。深い葛藤状態は、恋愛にも当てはまるのだ。
強烈な圧縮をすると、ある臨界点で、爆発、膨張するのだ。恋愛のメカニズムも同じなのだが、まだ解ききていないのだ。
人生のあるタームでは、恋愛が起こるようになっているが、あるタームでは、起きないようになっているのだ。
離婚して、夫婦同士になったカップルが、自分達は選ばれた二人組だと思い込みたい心情にも似ている。離婚的な、苦しい圧縮があり、ある時二人はバクバクとした爆発があり、膨張して、再婚というものになるのだ。
この押さえきれない衝動というのを、正当化するために、私たちは、選ばれた同士という選民意識があるのだろう。
宗教というのは、ある一つのドグマを共有して、それを行き来する事で、衝動が高まるようになっているのだ。
要は、どの人もバカップルになるように、神は仕組んでいるのだ。私も、人間としてバカップルでありたい。
なので、結婚するまでセックスをしないという事や、なかなか話をさせないというのは、圧縮作業中なのだ。大きな圧縮があった方が、より恋が長く続くようになっているのだ。「お幸せに」というのは、皮肉でもあるのだ。「心よりお祝い致します。」というポストイットでの、還暦祝いのようだ。
どこに心があるのだろうか。
いや、そういう心なのだ。散々苦しめやがっている心なのだろう。が、本人はわからないだろう。恋というのは、神様からのプレゼントなのだ。恋愛成就をする方法を伝えたい。が、まだ解ききれているわけではないのだ。
まずは、性に関するカルマをできるだけ解消する事なのだ。むやみに、仕事より、異性の事ばかり考えないという事もある。
また、お相手から言われた事で、賦に落としていない事を、落とすように努める事なのだ。
それで、離れそうで離れないような関係を維持するのだ。宗教組織というのは、お金を除いて、うまくできているのだ。お金に関しては、本質的には、変動性を用いるというのは書いた。が、まだまだ時代が追いついていないので、置いておこう。が、真相というのは、人間にとっては、あまり意味がないのかもしれない。私も、幸せであり続けて、死ねればそれでいいのかもしれない。やはり、極みを知ると、その物事の真相を知るが、それはそれで、つまらなくなるのだ。やはり、人間は、ミステリアスにしておくのが面白いのだ。そこに高ぶりが生まれるものなのだ。
私の友達は、恋愛の想念をあげすぎて、ギャップがあり、病気で死ぬ事になったのだ。ごめんなさい、そして、おめでとうと言いたい。やはり、なかなかそこまで一途に死ぬところまで、想念を送り続け、ギャップを生むというのは、なかなか勇敢な戦死なのだ。が、ここにも、うまく恋愛を発生させる方法があるのだ。つまり、自分の記憶層と、相手の記憶層、自分の想念体、相手の想念体、自分の魂体的マップ、相手の魂体的マップというのがある。が、それをうまく活用すると、恋が生まれるようになっているのだ。
自分視点でいけば、恋愛をしたいという想念を上げ続けるのだ。それが、一定数貯まっていく。そして、自分は逆の行為をするのだ。品行方正のような行為だ。そうすると、ギャップが生まれるようになっているのだ。現象界と、想念界と魂体的マップのギャップが生まれると、猛烈に神が、恋を発生させて、そのギャップを埋めようとなるのだ。
ただ、その時に、自分の望んでいる人と、現れた人、の天秤作業で、どうするかは自分次第なのだ。つまり、特定の人だけを思い続けると、そのギャップに人は苦しみ、また楽しむのだ。モテキというのは、意図的に作ることもできるのだ。が、本人はわからないモテキなので、楽しいのだ。絶対を決め込みずっと同じ動作をすると、人間は死ぬようになっているが、それもその人の人生なのだ。だから、何事もほどほどがいいのだとも言える。理性を用いながらも、心で感じながら、歩調を合わせながら、悟りに向かうのが恋愛なのだ。ちなみに、全く会ったこともない人には、恋は発生させることは、できない。それは、私のように修行をした人でないと、その魂の響きを認識できないのだ。そんな人はいないので、却下なのだ。
そして、また、記憶層と想念の往復活動ができないからだ。ある人を認知し合うから、記憶層が積み重ねられるのだ。顕在意識の記憶層に、その人の情報を積める必要があるのだ。なので、定期的に合っている職場で特に恋愛的要素がない職場でも、発生させる事はできなくはないのだ。
このあたりに、なぜ不倫が発生しやすいか、燃えやすいかというものがあるのだ。逆に、「眼中ない」というのは、記憶層のプール場が違うのだ。が、それでも疎通を起こさせる事はできなくはないのだ。が、できれば両思いが良いのが、人の人情なのだ。諦めるのもいいのだ。多大な努力が必要になるからだ。が、多大な努力をして付き合ったカップルは、長く続くのだ。草食系女子や草食系男子や肉食系男子肉食系女子や雑食系男子や雑食系女子というのもあるものだ。本音を話すと、中庸になるようになっているのだ。当事者が、全部日記形式で大量に書いていれば、辻褄が合うようになっているのだ。ただ、そのような暴露会は、当事者の固定観念があるので、難しいだろう。誰々の時系列、誰々の時系列、誰々の時系列を、合わせると、物事の真理がわかるものなのだ。なぜ、作家が物事の道理がわかっているかというと、本音を文章化する作業で、記憶の整理整頓、無化作業を行っているのだ。ただ、情報をまた入れると、固定観念が作られてしまうのだ。できるだけ情報を入れずに、本音を書き出す作業で、より深い層に心の器が、浸透するようになっている。そうすると、心はスッキリするのだ。ボーとする作業中も、実は内部では、記憶の整理整頓作業が行われているのだ。そして、適切な発想が浮かぶようになっているのだ。ある人の人生においては、ある程度社会常識を会得した場合に、同時に無化作業も進めると、気持ちがスッキリするようになっているのだ。会話というのは、とても楽しいのだが、無化には向いていないのだ。なので、一人で向き合う無化作業も必要なのだ。どうしても、人は自分が話す表現で、自分の記憶層の整理やアイデンティティの確認作業をしたいものなのだ。なので、時には、その話したがりを、いじるアイデンティティも必要なのだ。なかなか表現手段というのも、色々あるが、やはり会話が主なのだ。ただ、奥深くまで入り込むと、話が通じる人が少なくなってしまい、面白くなくなるのだ。なので、相手の会話が楽しくないのを、笑いに変えるアイデンティティの自由自在が必要なのだ。グチというのをなぜ言うのか。なぜ言われるのかというのは、この辺りにあるのだ。嫌われるアイデンティティの確立も自分を苦しめずに済むのだ。嫌うアイデンティティというのは、自分も苦しめるのだ。敵を愛しなさいなのだ。アドラーの嫌われる流儀というのは、たいていの人が、嫌われるアイデンティティを確保していないので、純粋フラットになりきれていないからだ。世相を表すものが、ベストセラーになるのだ。それは、思ったより簡単な所にヒントがあるものなのだ。どの人も、純粋フラットの一つの原理が働いているのだ。話のスルースキルというのも必要なのだ。過敏に相手の話を聞き過ぎようとすると自分を苦しめるのだ。教育しようとすると、相手は離れるものなのだ。ほどほどでいいのだ。私も、相手がこの記事を読んで、教育されるかは、気にする自分と気にしない自分どちらも持ちたいのだ。どうしたら、全世界の人に私の声を届けられるだろうか苦心するのだった。私は、神が好きなのだ。自分にぴったりな人が類友の法則で、合うようになっているのだ。この世は、「私」を見つけるゲームなのだ。膨大な意識層の中で、「私」という存在を見つけだすものなのだ。全世界の人が、「私」という存在を見つけだす事ができることを願っている。これが、いわゆる、聖書の
そして、要は、敵というものに対して、愛を送ると、プラスマイナスエネルギーではなく、+エネルギーのみになるので、結果として、自分を苦しめないのだ。ある意味、鷹派という人達や、右翼や左翼と呼ばれる人は、そのような使命だから、そのような行動をしているのだが、本人はなかなか気付かないのだ。それも、いつかは変わるものなのだ。どこかで、苦しむのだ。ただ、人は誰でも一定の苦しみがあるものなのだ。鷹派の人も、70歳になったら、ただのおじいちゃんなのだ。だから、どの人も愛する事なのだ。私は、誤解していた。なぜ、鷹派になったのかという思考をさぼってしまったからだ。どの人も、それなりになる事情があるのだ。だから、そこを考えてあげる事なのだ。どの人も、今以上に純粋フラット(複雑系フラット)、純粋意識というので、神人合一できるのだ。その鷹派というのは、レッテルなのだ。無意識マップの通り道が、違うだけなのだ。そして、そのある人生の一時期を取ると、そのように見えるのだ。みんな戦っているのだ。遠くの戦線で戦う気持ちに寄り添い愛たいのだ。どの人も、実は、心では、一瞬一瞬、人が変わっているからだ。そのように毎回肉体のある人を見れば、新鮮な気持ちになれるのだ。が、なかなか人は、論理とイメージ双方で捉えないと、腑に落ちないのだ。マンネリはどうして起こるのかという疑問を持っていた。起きるべくして起こるのだ。が、いんせん長く続けばいいと思う人間の気持ちもある。そのためには、一瞬一瞬視点を転移し合う事が大切なのだ。相手にレッテルを張らない事なのだ。一瞬一瞬心は変わっているからだ。また、視覚で捉えたものも、実は一瞬一瞬変わっているのだが、脳内で同じ現象に捉える機能があるのだ。それが、人間の宿命でもあるのだ。自己の意識というのも、わずかながら一定量ある状態で、神の意識もある一定量ある状態で、物事を運んでいくのだ。それが、最も運気を上げる方法だったのだ。私は、知らなかった。どの人も感動してほしいのだ。だから、どの人も、究極の実在の動きを捉えてほしいのだ。そうすると、まるで変わった世界になるからだ。よって、イエスキリストも、小さいアイデンティティと、主のアイデンティティを双方持っていたのだろう。イエスキリストは、あなたでもあり、わたしでもあるのだ。
無化作業というのはどういうものかまとめた
①ぼーとする
②自分が思っていた事を吐き出す(ジャンル的に吐き出せないと辛い)
本当のチェンジ・リーダーというのは、世間で言われている品行方正のリーダーではないのだ。
①アマったれたとても甘いように他人に見られる可能性が高いアイデンティティを見せながらも、とてもストイックに一つ一つの動作をやっているリーダーなのだ。要は、堅すぎても、柔らかすぎでも、ダメなのだ。どの大人も頑張っている。凄く耐えながら、紳士的に子供に寄り添っている。が、それは自分が作った記憶層と戦っているだけなのだ。一瞬でアイデンティティを子供化できる人にとっては、その動作(その無化動作)をその人がしていないだけなのだ。あの子供だった時を心で探して、その後大人の自分の心で、世界を見渡すのだ。
私は、子供時代に色々な事を子供なりに思ったものだが、大人というのは、凄いように思っていた自分と、そうでもないと思う自分、どちらもいた。が、結局、それは本質に到達しても、変わらなかった。つまり、頭で考えてばかりだと、本質に到達できないのだ。そして、結局その当時には最適な事が起きていたのだ。この当時はというのは、どの人も顕在意識の中に、ある一定の範囲の記憶を入れる必要があるのだ。簡単に言えば、魂は絶大なのだ。無口な幼児の方が使命を発揮している。が、過去生で経験した記憶というのを、思い出せないように封印しているのだ。それは、この世のためなのだ。つまり、幼児に見える人も、実は、何度も生まれ変わっている大人なのだ。が、それでは、社会体制の維持にならないのだ。赤ちゃんの過去生を信じる所では、この無化作業で、封印を解こうとして、能力を発揮させようとしているのだ。ただ、やはり日本ぐらいの大きな所では、その過去生の記憶や能力は、弊害の方が大きいのだ。なので、制度としては、今の方が良いのだ。私は、教育制度や社会制度を作った人が、それだけの事を知っているのか気になった。神から、知らないと教えていただいた。私は、教育改革をしたかった。が、問題設定と問題提起をする必要があるのだ。が、あまりにも視点転移を繰り返すと、ああ、そういう理由でそうだったのか、それならそのままのほうが結局いいじゃんという項目と、大幅に変えるべきだという項目に分かれるのだった。その社会に応じた多種多様なテーマの気付きを顕在意識に入れて、相互交流を図ると、結局お互い幸せなのだ。無意識イメージ自体を相互交換できる技術が今の所ないからだ。言語化する事で、疎通するしか、多くの人と共有できるようにならないのだ。幼児の時に、無化作業で、魂の能力と記憶を取り出してから、有化作業をしたらいいじゃんと思うこともあるが、今の社会基盤を考えると、それはあまり適さないだろう。結局その社会基盤に応じて、顕在意識で情報を取捨選択する時期が必要なのだ。確かに、この過去生の記憶を取り出す作業を、現代日本に入れるというのは大きな変化だが、それは親世代の認知が高まらないと無理だろう。なので、結局変えるのは、子供ではなくて、親世代なのだ。が、取り組む人が少なくなってしまった。「教育改革!教育改革!」と言われる昨今だが、それは子供に対してではなく、親世代に対しての方が効果的なのだ。それは、親世代は、固定観念をたっぷり作って、人を責め合って、時に優しくして、生きているからだ。これは、社会全体と連動して、動いているのだ。昔よりも、情報が溢れる時代で、魂で動くというのはとても難しい時代になった。ただ、やはり社会がそれを認めないので、問題が発生しているだけなのだ。暗記教育というのは、社会体制の維持のためなのだ。今まで溜めたものを無化するのは、
まじめな人ほど、暗記を沢山するようになっているのだ。が、魂は反発しているが、暗記を沢山した分、鈍るのだ。が、魂が発揮されている人は、暗記がとても嫌で反発するのだ。が、入れないと安定しないのだ。よって、中庸というのは、やはり社会基盤とも連携しているものなのだ。自分の将来と合わせて、必要な情報を出し入れすればいいのだ。私は、この記事を書いている時に、様々な人が思い浮かぶが、やはりその人に対するメッセージと、自分に対するメッセージで、純粋フラットの視点を取りたいのだ。どの人も、無意識マップの整理整頓が進めば、社会はより楽しいものになるだろう。その方向に進まない場合に、暗記というのは必要ないのだ。が、逆に必要ないのであれば、適当にすればいいのだ。要は、悟りをする事が目的なのだ。その一定の時間を、その場でいる事で、自分の進路を考えるという作業が必要なのだ。ゼロ化という概念がすっぽり抜け落ちてしまったのだ。が、少しずつ情報が出るようになった。何事も、社会機運と連動しているのだ。焦らない事なのだ。私は、本質を先に提示していたよという自分も認めたい。わかってくれよという自分も認めたい。ただ、自分がどこまで関与して良いか考えた。全てなのだ。自分の全てを変えた人が、後世の歴史に大きな足跡を残しているのだ。キリストや釈尊空海やルソーや。
顕在意識に一定量の知識を入れると、神側もインスピレーションを起こしやすいのだ。繋げやすいのだ。人が大好きな自分も認めたい。私が、なぜこの○○を認めるというのをわざわざ書くかというと、それが自分を苦しめないためなのだ。そして、見た人も、苦しませないためなのだ。
ある親友は夢に出ない。なぜだろうか。
起きている時の圧迫で、十分なのだろう。ネガティブイメージが、頭をよぎるが、ほとんど信じる事ができている。が、異性の意中の人の場合は、もしかすると、ある程度、夢の中や、起きている時に、ネガティブイメージが強くないと、恋愛感情が続かないのだろう。「なんであんな夢を見るのだろうか?」と葛藤する事で、考えるからかもしれない。恋愛感情が沸かない異性でも、よく夢にネガティブイメージとして出る場合は、意外と協力してくれているのだ。その協力してくれている分、ネガティブイメージが、夢に出てくるのだろう。ごめんなさい。ありがとうございます。ある認識を獲得した方が、今の自分にとって大事なのかどうかは、なかなか判断がつかないものだ。だから、主に聞くしかないのだ。異性的にお互い見ているわけではないが、何かしら思い合っているカップルというのもあるのだ。出会いの場の時にも、あれこれ思う悟りが大切なのだ。恩返しだ。相手の無意識マップの詰まりを取って上げる行為も営業で、取られるのも営業なのだ。私の夢に出てくる異性の友人に対しては、両親に対する思いこみをなくすといいというメッセージを送りたい。恋と家庭生活の充実に繋がると神に教えていただいた。結局最短の手というのは、意味合いを信じるのがそうなのだ。私は、疑ってしまった。つい嫌な事があったからだ。勿論、一定数嫌な事は発生するようになっているのだ。それは、そのようにできているのだ。が、私は、もっと疑いを減らしていくのが、自分を苦しめないラインなのだ。信じるのと疑う事の微妙なラインがあるのだ。私は、疑いきったので、あとは信じることを増やしていこうと思う。信じるものは、救われるというのは、言葉の通りだ。なんでか考えることは、大切だ。これは疑いではないのだ。自分を苦しめる疑いと自分を苦しめない疑いがあるのだ。徹底的に疑いきれてないと、なかなか自分を救う所までいかないものだ。やるなら、徹底的に極みまで、疑いきりなさいという事が言える。信じるなら、徹底的に極みまで、信じ抜きなさいという事が言える。そうすると、予想以上に良い事が起こるようになっているのだ。ただ、この徹底というのは、人間が考えるよりも、徹底なのだ。つまり、信じている状態の方が、その時の状態としては、良いものなのだ。私は、自己啓発本をよく見たが、色々偏在していて、整理整頓に困ったものだ。ただ、下山的な思考が、少ないのだ。人間には、登山ばかりではなく、下山した方がいい時もあるのだ。好き勝手な信じ方をすればいいのではないのだ。相手の顕在意識への介入は、ある究極的な悟りの人にはできるものなのだ。神と同じぐらいに成長した人なのだ。そうでなければ、問題が発生するので、あまりよろしくないのだ。これが、神通力というものの正体だ。