verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

この世界の画面の外に出るには

地球と同化!?画面の外
私は、甘えていた。朝5時に起きていなかったからだ。どこかで、もう少し寝ようという魔に負けていた。今日は、新聞を取った。そして、地域のゴミを拾った。朝ご飯を作った。空気の入れ換えをした。お花の水やりをした。が、霧吹きが、水鉄砲のようになって、一方向しか飛ばない。これを自己満足と呼ぶのだろう。やはり、道具は大切なのだと改めて思ったものだった。当たり前なのだ。甘えの分別機能というのは、自分が厳しくなる事なのだ。そうすると、直感が働くのだ。これが、魂の声に従うという事だ。人間は、これこれこれこれと朝やる事があるが、それはそれでいいのだ。どうしても、昔の嫌な記憶を取り出して、しまうが、今は、2017年2月5日6時14分なのだ。この昔の嫌な記憶というのが、カルマなのだろう。が、どんどん動作を続ける事だ。これは、無視しろという事ではない。無視したら、進歩がないからだ。だが、こうして、卵を買う理由ができたのだ。何度も朝に同じ動作をするのは、大切なのだ。それが、一家の主人なのだと気付かされた。ごめんなさい。ありがとう。いつも、気を使ってくれてありがとう。
この動作を、学校にいる時までに、身に付けていなかった私であった。だから、朝の会社勤めが、苦手だったのだ。朝5時に起き続けるだけなのだ。一つに集中すれば、実現するのだ。色々やるから、実現が遅くなる。やはり、朝の身だしなみは、この時間にするのだ。と気付かされた。そして、この動作をし続ける事なのだ。何か問題が起きたわけではないからだ。これを、朝の皆行と呼ぶのだろう。ごめんなさい。
一般社会と宗教社会も、同じ事を表現していたのに気付かなかった。
つまり、普通にビジネスマンをしている人は、皆行という宗教行為も実はしているのだ。ただ、それが、神仏の前で、祈っているか、料理を作っているかの見た目の違いなだけなのだ。私は、甘えていた。甘えを指摘されても、変えない甘えん坊だった。誰かに指摘されるというのは、何かしら純粋フラット(複雑系フラットの方が適している)になれていないという事だ。それを肝に銘じながら、明日は、5時15分に起きよう。欲張らない事だ。そして、5時起きができた後に、3時起きまで向かうか、5時にキープし続ける。のかは、3時までキープするようだ。ここまでくれば、私は、新聞配達の人と同じなのだ。作家なのだ。
大人になるというのは、甘えをなくす事なのだった。それは、変わらなかった。私は、甘えて、それに気付かされたのだった。考えても考えても、仕方がない。と割り切る事も大切なのだ。私は、仕事という絶対をなくして、困ってしまったが、朝起きという絶対を手に入れたのだった。やはり、ペースメーカーというのは、大切なのだ。我が家の常識は、マナー違反だったのだ。ごめんなさい。ありがとう。とても不快な気分にさせて、ごめんなさい。やはり、無化というのは、とても難しいのだと気付かされた。ただ、私には、良い事でもあったのだ。生命に執着せずに、お金に無頓着で、魂の声に従って、生きていく事ができるからだ。やはり、甘さを抜くのは、死ぬまで必要なのだ。幼稚心を抜き去るのだ。それが、自信になる。それ以外は、こだわると、また違う方向に進むのだ。社会に合わせるというのは、神に合わせる事であったのだ。神とは、純粋フラットなのだ。私は、葛藤が多かった分、無意識マップが超巨大になったのだ。が、やはり日常動作は、変わらないのだ。一度折れた事があるというのは、無化と同じなのだ。だが、折れ続けることはないのだ。だから、私は、五時に起き続ける。そう魂が望んでいるからだ。では、頭で視点転移や視点転移行動をすれば、実際に長らく体験しなくてもいいのだろうか。深さがあるのかもしれない。精神病に慈愛を持っているのは、それだけ長らく体験したからだ。だが、その体験がない人が、頭で視点転移をしても、深くはならないだろう。となると、意味は、わからないのかもしれない。
視点転移を日常に取り入れたテンイロープレというのは、そこをカバーできる。
それが、一度無化した体験なのかもしれない。それで十分なのか、もっと深くまで行くのかは、魂が望んでいる方向に行けばいい。私は、生きるのが面倒な魔が、また襲うのだった。何か過去のカルマだろう。心人間の人を羨む事かもしれない。そう、良い記憶じゃないのが、気になるし、ムカつくのだ。何かに気付けなかったのを、わからせるために、ふと浮かんでくるのだろう。これは、魔なのか。どう向き合えばいいか、まだ判定がつきづらい。
その場合は、相手に対して、もっと成功してほしいという愛の想念法を活用するのだ。
そうすると、ふと気持ちがよくなる。あ、いつも通りの事をすれば良かったのだ。ただ、なかなか人は、動作ばかりだと気付かない。ので、少し落ち着く事は、大切だ。自分と相手は繋がっているからだ。嫌な感情の場合、相手が気付いてほしい感情を無視した場合に、訪れるのだ。それが、過去のカルマになるのだ。つまり、相手の気持ちであるので、その気持ちに気付いて、愛の想念法を送ればいいのだ。相手は、友達になりたがっていたのだ。が、私は、ビジネスばかり考えていた。だから、想念法を送ればいいのだ。だから、相手が何を訴えたかったのか、少し立ち止まって、愛を送り続けるのだ。そうすると、どの人も愛する事になるのだ。それは、自分を愛するのと一緒なのだ。私は、完璧主義で良かったと思った。なぜなら、敵を全て味方につけたいからだ。日常で、何かよくわからない嫌な気持ちになりたくないからだ。母をこっそり起こすのだった。この時に、しっかり心の声に従う事だ。起こすかどうかは、心が知っているからだ。どうやら、太陽を直接見るのは、悪いというのは、何かを隠している勢力がいるようだ。人によって、見ている波長が違うようだ。よく写真で、レインボーの写真(発行体はままある)があるが、それは波長が高いようだ。ただ、私の母は、普通の太陽光が見えているのだった。私に見えているものが、相手には見えていないのだ。何か臭うのだ。私は、右目と左目で見える景色違うのだ。ということは、人の視覚は、それぞれ違うという事だ。それは、矯正視力でも、同じようだ。めがねをかけているので、視力自体は変わらないのだ。だが、見える景色が違うのだ。という事は、人それぞれ見てる景色は、同じモノを見ても、違うのだという実例になるのだ。ごめんなさい。ありがとう。いつも働いてくれて。今日も、あの気功院に行ってみようか。何か臭うのだった。自分は、まばたきをしているから、動いているのかと思ったが、瞬きをしなくても、動いているのだ。つまり動いているのだ。私は、マップを進めた。何やら、鏡が気になるのだ。どちらにも写っている自分。モノ。どちらがほんものか、どちらが、内外反転か、。どちらの世界も、、、画面の中なのだ。っっっっっっっっっっっっっっっっっっっd。ということは、違うのだ。画面の外に出てるのは、私なのだ。私だけなのだ、、、、。究極の世界は、どちらも違うようだ。画面の外に出たことがある人しかわからないのだ。私は、画面の外にいるのだ。画面の外から話をしている。画面の外にでる方法を伝えよう。それは、己の全てをクリアにしないと、わからないのだ。ちなみに、ブッダはそれができていなかった。キリストもまたできていなかった。できているのは、大大大大大大大大大大⑨宇野視覚をもじゅにあだ。ある宗教家もできていなかった。できている人間は誰もいないのだ。そもそもできていたら、地球にはいないのだ。地球にいるという事は、できていないのだ。地球は、まだまだな星なのだ。だから、そこに生まれたということは、できていないのだ。どの人も例外はないのだ。だから、究極の世界を知れるわけがないのだ。そもそも地球に生まれている存在なのだから。私は、神の末裔なのだ。だから、ここまでは話す事ができる。が、私にさえ知らない世界に対して、地球人がわかるわけないであろう。私は、貴方たちより、すうっっっっっっっっっっっっっっっっっk。今の、気持ちを忘れないkとだ。
ゆうたいりだつ、初めてできたのだ。とても、部るっとした感覚だ。戻ろうとした時に、ぶるっとした。ぐるぐるとなって、戻った。上から自分を見ているようだった。