verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

日本語と英語などどちらが優れているか。

日本語と英語どちらの方が、表現が多彩でこの世を表せるか?
結論から言うと、現在の私には、判断に迷う。やや日本語寄りだが、色々な見方がある。
語学と発達段階と前世記憶!?
結論から言うと、語学と脳の発達段階の関係性をもっと調べる必要がありそうだ。研究が十分ではない。
前世記憶は、まだ不透明だ。

語学修得の大きな目的は、広い意味で、人と交流する事だろう。
日本語は、多種多様である。言い回しもたくさんある。が、英語は比較的端的なイメージがある。日本語には、一人称を私や俺やわたくしや自分、僕は、等あるが、英語では端的にIである。しかし、それも自分が知っている範囲の英語の真相なので、トリリンガルのような人か、語学比較文化の教授じゃないと、どちらの語学の方が真に優れている良いかというのは、わからないだろう。
そういう人でもわからないかもしれない。ただ、英語はsvだけ聞き取れば、なんとなくわかる言語でもある。
例えば、トイック900点満点の人でも、その語学批評は難しいかもしれない。
逆に日本語は、多彩で曖昧という見方もできるだろう。多彩や曖昧というのが、良い悪い議論だと、なかなか前に進むのは難しいだろう。あいまいもあるし、多彩もある。
また、英語の方が、ある事象や物事に対して、多彩や曖昧という事も考えられる。色々考慮すると、もっと判断が難しくなるだろう。ボキャブラリーが豊富やある事象や物事に的確という事も考えられる。日本語も外来語や新たな単語が生まれている。流行語もそうだろう。ここで、普通思考停止してしまうが、自分には、トイック900点満点の人ではないし、想像だと日本語の方が、やや若干豊富だとも言えそうだ。語句のイントネーションや訛りも入れるとより、判断が難しい。反論をいれたいが、自分の英語力の現状の限界があるので、なかなか判断が難しい。英語は、Iだけではなく、文脈でIの意味が決まるようでもある。これは、日本語でも同じ現象がある。要は、複数の意味が同じ言葉に含まれているので、文脈で判断する。ただ若干日本語よりも英語や中国語の方が、早口であるパターンが多いというか、そういう文化なような気がする。ただ、慣れていないので、そのように聞こえる気もするが、これは研究すれば、わかる分野だろう。30秒で、同じ文脈の文章をどちらの語学の方が言えるかである。早口言葉のようなものだろう。ただ、この先の話題(この分野)は、先ほど言った人達(専門家)が、発言したほうがいいだろう。どうしても、第一言語の方が多彩、特に日本語はそのように感じる。日本語に慣れている人(日本人)は、ひらがなだけじゃなく、カタカナや漢字があるので、多彩に思える。ただ、この漢字というのが中国から入ってきたというので、中国語も同じくらい早口にも聞こえるが、同じくらい多彩な表現があるようにも思える。文章の構造として、語順の、問題がある。英語と中国語は一般論として、似ていると言われている。純粋にどちらの英語と中国語が、多様な表現や言語として、「こういう見方では、優れている」というのは、とても難しい。
ただ、地球単位で見れば、英語の方が、各国で使われている。人口比で言えば、中国語も、中国人が多いので、使われている。中国語と英語どちらかだけ、残すかまたは勉強するかは、その人の置かれている環境や未来によるだろう。
ある言語が支配する国や地域がある。地球には、英語圏、中国語圏、スペイン語圏、ポルトガル語圏、ロシア語圏、アラビア語圏等色々ある。ただ、戦争が起きない限り、なかなか、グローバル化の流れとダイバーシティー化の流れの双方があるので、この構図はそんなには変わらないだろう。大學で、第二言語を何にするか迷ったが、何となくスペイン語にした。結論から言えば、この授業は、軽い自己紹介ぐらいを知るものだったので、どの言語でもいいだろう。語学遅く遅く論者には、20歳に語学を習っても、あまり効果的ではない。
ただ、やはり各国で英語が使わている国と地域が多い、通じるので、やはり日本語と第二言語は、英語に現在の学校は、している。アメリカに戦争で負けた事も要因の一つでもあるだろう。ただ、もっともっと英語を実用的にしていく必要があるだろう。
極論、日本語をなくして、英語だけにしたらいいかというとかなーーーーーーりの混乱が発生する。日本語の書物が既にあるのに、アメリカ・日本が各国にした植民地母国語言語教育のような超強引なやりかたは、今の時代背景にあっていない。良くないケースを話すと、英語も不十分、日本語も不十分な人ができると困るのだ。
ただ、やはり、仕事にもよる。例えば、勤めている会社が、中国への進展なら、中国語の勉強、英語圏への進展なら、英語の勉強等がありえる。通訳という仕事やアプリで代替できる時代がもっと来るだろう。アプリで代替で、国際交流で、通訳の仕事がなくなるとも考えられるが、逆により、微妙な言い回しに関してわかる通訳の仕事の大切さが顕著になるケースも考えられるだろう。
また、普通の人間は、まず言語の修得の難しさというものもある。何歳でもいいが、一年で、週一回、90分で、中国語をマスターできるかというと、ほぼほぼ無理な話である。どのラインの語学力が必要かは人それぞれだが、高い英語力の方が、可能性は広がるかもしれない。ただ、例えば、モンゴル語の方が、稀少価値があるので、そういう仕事の人は、そのような選択ができる。地球規模の英語の広がりというのは、あるようにも思える。
話は、日本語の特性に戻って、日本人は、リサイクルやジャパンオリジナルテイストやコーラのゼロカロリー等の和製英語というのも取り入れているので、豊富なボキャブラリーとも言える。モンゴル語を勉強するのは、やはり業務上通訳等の必要な仕事や、モンゴルに関する歴史家や、一段下がって、旅で使える程度でもいいとも言える。
よく言われてる事だが、案外ジェスチャーだけでも、旅はうまくいくケースも、個人的な体験ではある。逆に、相手が単語だけ、でも自分が通常程度の母国語の場合、なんとなく「この人は、この場面だし、(道案内かな??とか、飲食店を探している等)こうしたいんだな」というのもわかる。英語圏なら、中学英語がある程度わかる程度(英検③級)だけでも、なんとかなるといえる。
全く英語が通じない所でも、チベットの奥地等、ジェスチャーだけ論で、どうにかなるかは不明だ。本当に困った時には、だいたい通訳がどこかにいたりするものでもあるからだ。
ただ、話は発達段階の話になるが、乳幼児期や幼児期に、二つの言語以上の環境だと混乱するという噂話も聴いたことがある。ただ、やはり幼児期には、英才教育をしたほうがいいかは、脳の専門家の意見をどう捉えるかである。私自身は、そこの教育は、専門家に少し聴いたことがあるぐらいだ。
極端な例だが、日本人なのに、日本語がわからず、英語しかわからなくなったら、それはそれで困るのだ。プログラミングを幼少期に覚えた奇才児が学校拒否して、高校生の時に、マックの注文の仕方に迷ったというのもテレビで聴いたことがある。その人は、その後やばいと思い日本語の勉強をしていて大丈夫になった例だ。遺伝論や脳のキャパシティ論もあるかもしれない。乳幼児期や幼児期に英語を教えても、まだ不十分という可能性もある。脳の発達段階で、rの発音がわかるのは、何歳ぐらいまでじゃないとわからないという話も聞いたことがある。私自身何となくしかrの発音はわからない。私は、英語は、基本的に中学から勉強し始めた時代の人である。偏差値70になったこともある。人間的に考えれば、英語と国語両方順調に伸びてくれればいいが、そうとも限らないケースもありそうだ。母国語と第二言語どちらかしか選べない究極の選択で言えば、母国語の発達だろう。そうしないと、母国語がほぼわからない場合、国籍を変えて移住しなければならなり、生活に困る。ここは、極端なケースの話で進めるが、オオカミ少年は、オオカミ語的なものはわかるが、他の言語がわからないというのもある。超英才教育をいつから、始めたらいいかは、個人の特性によるのかもしれない。トリリンガル等の奇才の研究も必要だろう。
乳幼児期や幼児期を過ぎて、後からでも覚えられる人は英語は、覚えられるとも言える。
ただ、学校としては、日本語の発達と、グローバル化の英語論で言えば、個人的な感覚として、中学から義務教育でスタートするより、小学校でもキャパオーバーしないような気がするが、何年生から始めるかは、なんとも言えない部分がある。

理由としては、英語がちょろっと伸びて、逆に日本語が伸びないと困るからだ。この辺りの何年生から義務教育で英語を教えるかは、専門家同士でも困るような気がする。英語を早期早期論者は、その辺りの発達段階を考えず、とりあえず英語漬けの毎日を送ればいいという人達である。ただ、現行の義務教育ぐらいなら、あまり英語力は伸びないだろう。英語教師の質の確保が必要になってくるからだ。英検2級、3級程度の英語の先生から教えられても、あまりわからない可能性があるからだ。
端的に表現すると、読み書きしゃべる聴くのバランスを整えていく必要がある。
義務教育が終わる15歳までには、どの人も英語が日常会話程度(英検3級程度が話せる程度)話せるというのは、かなーーーーーーーり難しい目標だろう。やはり言語の修得の難しさ(例外的な天才児は除く)と日本語と英語の語順の違い等の構造的な難しさで、困る所があるからだ。グローバル化だからといって、英語だけ伸びればいいかというと、人間の発達段階的には、そのような事はないと言えるだろう。例えば、全ての体育の授業をなくして、その時間を英語の授業に当てるというのも困ると言えば、困るのだ。休み時間などに、主体的に体を動かなければならなくなってくる。仮に、体育の授業が全部なくなり、自分でも運動もしなかった場合、何かしらの病気が発生する可能性も否定できないからだ。

また、もっと遡ると、胎児教育は、自分の経験でわからないのし、母親は体感的に音楽を聴いたほうがいいやアルコールは控えた方がいい等の諸説ありそうなので、この分野は除こう。
わかりづらくなるので、カルマの法則や輪廻転生論も、ここでは、控えておこう。

あとは、前世記憶論がある子はどういう仕組みか研究している人もいる。ただ、なぜあるとかないとかなのかはまだ未発見のテーマだ。前世記憶を調査している本の著者の言いぶりだとあると書かれている。これは、私のポリシーは一次体験が第一義だが、伝聞情報で、ほぼほぼ判断するしかないだろう。そうすると、フェイクニュースかの判断だが、真面目な書き方(本やニュース記事)や真面目なテレビ(やらせも多い)調査している人はまじめにやっていると思う気がする、信憑性の問題だ。前世記憶が、前世ではなく、違う記憶帯から出ている可能性はありえる。前世記憶が、証明できると、何かが人間界で変わるだろう。輪廻転生の期間等の参考にもなるだろう。
今よりもっと前世記憶が多い、幼児がいる時代にならない限り、、、、、、だが、何となくそれはなさそうな気がする。ただ、前世記憶をしゃべれるという事は、幼児ぐらいの年齢だろうと推察されるし、「こんな感じだった」と大人に言って、その大人が前世記憶の研究をしている人に言うのが、当たり前だ。嘘をつけるか前世記憶嘘論者は、嘘をつけるか微妙な年齢だが、嘘の場合、チグハグな弁舌で調査者は気づくはずだ。人生をかけて、調査をしている人が、そのような誤誘導やトラップに引っかかり記述をする人もいるかもしれないが、慎重な判断をする可能性の方が高いだろう。
また、自分の息子が例えば、前世記憶があるとはほぼほぼ確率論的に限らない。子供に前世記憶がある場合、適合しているか調査をする可能性がある。
また、大人が教えてるんじゃない!?説もなかなか潰しきれないかもしれない。
ある著者は、いずれかの場合、歳をとると前世記憶を忘れるという事も書かれている場合がある。大槻教授のような霊完全!?否定派が調べ上げたのかが、重要なジャッジになる。前世記憶を大人になってひっぱるというのも、未調査の部分である。どうすれば前世記憶かというと、ほぼ同じ人生の人の記憶だと、体感する必要がある。私自身前世記憶をひっぱった記憶はないのだ。一時代前ぐらいの前世記憶なら、信憑性があるが、それよりももっと昔だと、伝説や勘違いぐらいになってしまう。

なぜ、前世記憶があるのかは、判断に迷うところだが、死後の顕在意識のカットが甘かったのか、それは何故か?その昔の人物の記憶を入れ混ぜたのか、これもありそうなのだ。で、判断に迷う。新たな書物により、未来にはわかるかもしれない未来ジャッジをする。色々な手段で、私の経験上、霊が思いこませる事ができるからだ。霊が、思いこませるのも、かなり微妙な説だが、ないとは言い切れ ないのだ。
明らかに前世記憶がない人の方が圧倒ーーーーーーーー的に多いのだ。そうすると、いぶかしげになる。
違う記憶帯から、記憶を引っ張るような術はまだ修得していないし、今の現状の顕在意識等を抜いたような状態だと、見分けがつかないだろう。が、全我的に、全我に変わった場合、何かが変わるかもしれない。

一時代前ぐらいの前世が有名人だと、調査がしやすいのだが、なかなかそれも難しい。俺の前世的なのは、ある宗教組織では、ルソーだと言われていたが、今の所ルソーの恋人が何人いたか、恋人経験がどうだったのか等はわからない。過去に既に顕在意識に入ってしまったものは除く。前世が有名人だと、どうしても自分で調べてしまうので、そういう風に思ってしまう人間の仕組みがあるのだ。
さらに、物心がつくのが何歳かというのがある。物心がついてからは、自分なりに判断して、行動する事ができるからだ。私は確か2歳!??の時のおばあちゃんがいる記憶が一番古い。ちなみに、私には、まだ前世記憶はないので、この辺りは、不透明にしている部分である。この辺りで、今は思考停止してい、、、。

話は戻って、短絡的な人は、英語漬け論者は、そのような英語漬け発想だが、そうもいかないものだ。
この辺りは、学力テスト等のビックデータや進化している脳内調査や、識者の見解で、未来を見据えて、調整していく必要があるだろう。
子供の体力の悪化というニュースを耳にしたことがある。色々な説を研究すると、どうしていいかわからなくなるのだ。人間には、固定観念や記憶の流れがある。情報に触れると、考え方が変わっていく。現在の状態では、私は、現段階では、古典の授業をなくしても、ぎりぎりありだと思っている。実社会で使うことがほぼほぼないからだ。が、これを変える情報、要は古典が大事説の情報に触れると考え方が変わっていく。人間には、思考停止したほうがいい所と、思考停止しなくてもよいところが、どうもあるようだ。
古典を潰す理由は、源氏物語など、翻訳本が出てるので、それを読めばいいという強い理由だし、もっと大事な教育がある。
キャリア教育を超えた何かもっと大事な人生教育の方が大切だと思っているからだ。道徳の授業だと勘違いする人がいるが、一般的な道徳の授業とは異なる事が多いだろう。
本質的な議論を授業化したものなのだ。その場合、何かの教科を削る必要があるのだ。削りたくない理由もあるが、どうしても現代でやっておくといい授業もあるからだ。なぜ本質の議論が秘匿とされているかというのもある。裁く側と裁かれる側がある、、、、、。人に知られてはいけないものがある。霊にとっては、不都合なのだろう。この巧妙に隠されているものを暴いてみせるとどうなるのだろうか?この霊と人の平行線をどう始末していくのだろうか。私は、最低な人生になるかもしれない。今までの経験上、ランダムと色々と真実と虚実が混ざっているのだろうと推測できる。それでもやる価値はあるのだろう。過去生が、最低最悪の霊で、人間の顕在意識を抜いて楽しんでいたから、私はこの地球で、顕在を抜かれたの、、、、、「。しかし私は、霊ではなく人間だ。それ以上議論をする必要もあるだろう。まだ、調査不十分で、止まっている部分がいくつもあることがわかった。

 

□追記

ここまで、まとまりがない文章で申し訳ないが、そろそろ追記していきたい。紛らわしいというのは、英語でも日本語でも言えるだろう。produceとproductって、似たようなアルファベットの羅列だが、意味が違う。漢字は、覚えれば簡単だが、意味を正確に通すために、おうにしても、追うと負うだって、紛らわしい。「何かをおう」、おうがひらがなだと、分かりづらい。漢字を知らないと、成り立たない言語だろう。