ブッタの欺瞞!?について
悟りとは
在る個人の悟りについて添削した記事である。→が私たちの悟りの解説
自我がもちたるすべての迷い事を乗り越えた彼岸。→修行によって、色々な悩み事は減らす事ができるが、他の事で悩むように人間は、設定されている。
どこまで追求しても、自我がもちたるすべての迷い事は消えないので、これは、空想の産物の可能性の方が圧倒的に高いのだ。例えば、性欲について、悩まなくなるようなジャンルを設定して、悩まなくなるように到達できるが、他の事で悩むように人間は作られているので、それはブッダのような悟り人がいった欺瞞なのだ。例外として、自我を完全に近く消滅させるのは、外法であるし、それに近い方法でも、ほぼ違う存在が悩ませにくるので、あまり意味がない。外法はここでは取り扱わない。
つまり、どの境地になろうが、迷い事をすべて乗り越える事はできないのだ。そもそもすべては、テーマ的に、多すぎて、考察できないというのが、ほとんどなのだし、ブッダがいた時代よりも、現代は複雑化していて、シンプルに物事を言えないのだ。色々な微差の考察経験をすると、悩むというより、考えるに近くなるという傾向はあるだろう。どの人だろうが、今トイレにいくかどうか迷うものだからだ。ただ、修行により、たとえば、子どもに、自分が食べたいものを「食欲よりも、大切なもの」として、譲る事はできるのだ。
所詮は人が決めているすべての価値のあるものが本来は自我が決めているにすぎない。→これは、自我が決めているとも言えるが、社会通念や常識を埋め込まれているとも言えるし、そのおかげで先述の自我の悩みが減るというメリットがある。ここはもう少し、説明が必用だろうが、敢えて自分で考えてほしい。自我自体がどこまでかという定義も欲しいものだ。とても強制的にされているものを、「自我だ選択しているという」と、はなはだ疑問である。強制収容所にいる人が自我で決めているとも言えないのだ。
善悪の概念の崩壊および一元性の獲得。→善悪の崩壊と一元性の獲得はあるが、若干善が勝つのが、偉人に近いものなのだ。また、例として正しいか不明だが、たとえば、食事のシーンで、御飯を残すのが悪だとしても、御飯を残せないというもったいない主義が善だとしても、ほぼ同じイーブンの善悪で食事をする自体ができるものではないのだ。そもそも、完全に残すのが善で、完全に食べるのが善、完全に残すのが悪というのも、どちらとも言えないのだ。
悟り自体には周囲の何かを解決する力はない。→悟っている人は、周囲を解決する力が人よりも強いものだ。
また、これの獲得には必ずしも瞑想を必要としない。→瞑想が大事なジャンルもあるので、何とも言えないものだ。
いまに在り、自然であること。先々のことをくよくよ悩まない。→これも、自然ではなく、人工的要素により、幸せになっていくのもあるので、何ともいえない。くよくよ悩む時も全くないわけでないし、くよくよ悩む事のメリットも少しばかりはあるものだ。
いま、ここに在る状態。本来(本来というのは自然な状態だ)やるべき事は、何もないのだが、架空のそれを設定することによって俄然人間体験は面白くなる。しかし、重ねて言うがやるべき事は本来何もない。
→人間本来やるべきことはないという視点は大事だが、話は少しずれるが、無人島に行こうが、食べ物をとる等の動作は必要だ。どの環境でも、やるべき事は、生きていく以上発生するものだ。また、カルマ論ではなくても、人間固有でやるべき事は発生するというか、やらない状態がほぼすべてでは人間にとって辛くなるものだ。
目標設定で、楽しくなるのは自然的な心理状態である。
ガーテー、ガーテー、パーラーガーテー、パーラサンガーテー、ヴォーディ、スヴァーハー。
往く人よ、往く人よ、彼岸の岸に着きたる人よ、すべてに幸あれ。(だったかな?)
神に命令できる状態。神に頼みごとをする。神を親としてではなく、友人として迎え入れる。そうできることで人生の困難を打開できる可能性があり、それによって更に自然な状態に近づく。
→神に命令できたとしても、悟っている人は神に命令することは、ほとんどないのだ。どちらでもない、どちらでもあるという状態なので、ほぼ神に頼みごともしないのだ。神のアドバイスも、何かの願望の実現までの逐一聞いたりしないのだ。それは、すでに師弟関係なのだ。人間上どうやっても、わかりえない事をきく事はあっても、それも参考程度にするか留めるものだ。神に聞かないで、自分で考えるのが主なのだ。神に聞きたいというのも依頼心なのだ。
神にもレベルによって、人間界で叶えられるものがあるようなのだ。
神とも、何かの縁者として、接するまでなのだ。人生の困難は、人間本来の力でも解決していく必要があるものなのだ。「人間にとって、自然な状態とは、何か?」の定義が必要だが、自然な状態は、その人にとってどうあるかなので、人それぞれ違うものだ。
と解釈を垂れるのはあまり好きではないし、自分自身で獲得してほしいものでもあるのだ。私自身が合っているとも限らないし、自分で信じるか信じないかのものなのだ。わからない所は、自分でも探って欲しいものだ。言葉の共通理解も人間同士うまくいかないものもあるし、これ以上文章で伝えるのも難しいものものある。