verymuch8’s blog

日々の様々な事を雑多に書いてます。スピリチュアルや哲学が主な分野です。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究で、日常生活でふと疑問に思う事を書いています。

絶対的正義 意味 絶対神 いるのか

絶対的正義はあるのかないのか

絶対神はいるのかいないのか



正義とは、辞書的には、道理にかなって正しいこと。とある。
わかりやすく言えば、ある範囲で、正解とされる主義の事である。これが、人間を悩ませる。私の悟りの仲で、一番に近く悩んだ所だ。「ここのコミュニティではこうしよう」という正義っぽい事はある。が、それなりに反証を考えるとそうとも言えないのだ。また、やはり、正義というのを、正義が正義たらしめる必要がある。それの中で洞察すると、正義を定義しないのが正義というパラドックスの論点がある。一端ある物事のこれが正義だとすると、正義が固定化されると正義の矛盾が発生する。この場合、この正義は、通らないという反証が出てくる。

やはり、正義というのは、固定化させず、、留めるものである。

②正義の考察はするが、絶対的正義自体を決めつけない状態をキープしながら、物事に臨機応変に当たっていくしかないのだ。

これを言葉で伝えると、こうとも言えるし、こうとも言えないとかの表現で、正確なイメージを伝えるのは、不立言語になるのだ。

③イメージ言語の一つの状態をイメージしたものがあるが、それが悟りとも言えるが、物事の微差を変えていくのは、聖人君子だろうが、誰にでも必要な事なのだ。この作業を大人になっていき、物事の分別(微差)を身につけていくのだ。

『どちらとも言えるし、どちらとも言えないよね』という物事への哲学を増やしていくもので、例えば、少しばかり人の物を取らないとかの主義の方向性を作る事は、必要なのだ。犯罪善意論は、ここでは割愛するが、正義のテーマとしては、マイノリティなので、この手のブログでは、ありなのだ。私は窃盗犯の気持ちをわかるために、敢えて窃盗した事がある。何とも言えないかなりビクビクするものだ。私は、窃盗する事はもうないと思うが、このように窃盗犯に対しても、窃盗犯の正義というものを洞察する事もできる。『金がないから、窃盗するんだ、何が悪い。
とか
ちょっとだけやっただけだ。
とか
食料費がお得になる。
』と万引きgメンに言っているようなものだ。
それなりに理屈をこねるのだ。この正義の断定を、社会常識から逸脱すると、犯罪になるケースが多い。

話は飛んで、私は、犯罪とは別に、正義を断定していく作業をしていきたかった。
人間は、ある時に思考がバーストする(神はいるのか、いないのか)と、堂々巡りになるものだ。そのような時に、何かを断定するの一つの選択肢なのだ。俺は、神がいると断定した。が、その後の人生で、神という絶対神的な存在は可能性は薄いが、それより、霊的な存在がいるという人生経路を正直歩んだ。信心が薄かったとも言えないものなのだ。

④そもそも、一つの正義に定義できない場合、絶対神という存在は、可能性としては薄くなるものなのだ。

絶対神が正義を振りかざさないとも言えるし、他の可能性で、地球規模で考えたら、スピリチュアル界隈で言われている地球を守っているとか、判別のしようがないわからないテーマになっていく。宇宙法則や物理法則とかを含んだ絶対神というのは、あまりに偉大というかでかすぎて小さすぎて、個人の人間にタッチし過ぎてないとも言えるのだ。宇宙法則が、変わるかどうかは、まだ不明なのだが、いきなり重力がなくなったりはしないものだ。地球の人口が増えているが、減っている地域もあるわけでは、例えば、絶対神が人口を増やしているという作用しているとも言えない。また、宇宙が広がっているのは、ここは科学データの検証が必要だが、現代科学の観測量とも言えるのかもしれない。現代は良い社会になっていると言われば、江戸時代と現代どちらが、個人によって住みやすいかは、どちらとも言えないわけで、人によるので、その現代はより良い社会になるとも言えないのだ。ただ、マイノリティが強くなったり、多様性的な時代進行は、あるとも言えるのだ。良い時代になっているかは人に依るという事は、絶対的宇宙神の良い時代づくりとも言えないのだ。残るは、その下の層の宇宙霊界の善悪のバトルは長いものとも言えるのだ。これは、長い長い戦いとも言える。俺自身が、取り組み中だが、タチが悪いのだ。悪霊や善霊のようなものだ。私自身が、その上の存在とコンタクトできていない可能性も極薄くあるが、それは、多分ないだろう。

⑤宇宙を作って、作用している絶対神的イメージはあるが、それは善悪統合したヒトツのイメージで、それに人が解釈を加えると多様になる(本当にそれが絶対のヒトツのイメージなの?とかである)ので、それを絶対神的なのはいるともいないともいえるが、絶対的に、一個人の生活をよくしてくれるものとも言い難いものだ。これは絶対神の最終回答になるだろう。

⑥結論から言えば、どちらかと言えば、人間個人に取って、絶対神はいない方が正確なイメージに近いのだ。

神様的な声は、誰でも条件が整えば聞こえるものなのだ。数年前より、私自身の無意識マップが進んだから言える事だろう。宇宙規模で見れば、宇宙は完璧という完璧論もあるが、偶然的要素でできた可能性は排除できないし、ここは、まだ判別が難しいテーマだ。宇宙を絶対神的な存在が作ったか、勝手に作られたか、と言えば難しい。若干勝手にとも言えるかもしれないが、反証する要素が難しい。人間や霊的な存在には意思が存在するが、宇宙自体に意思が存在するともいいづらいし、いいやすいともいえなくもない部分なのだ。厳密に言えば、宇宙が広がるのは、絶対神の意思なのか、それとも偶発的な意思ではなく作用なのかというものだ。ここは、やはり思想に依るのかもしれない。宇宙が広がっているという事実があるのだろう。植物に意思があるのか、プランクトンに意思があるかと言われれば、水素に意思があるかと言われれば、難しいところだ。だんだんと、この例えから、人間から動物に離れると意思が減っていくかもしれない。宇宙創世からとてつもなく早いスピードで、ビックバン、細胞分裂と遅くなって、固定化していくと科学的に言われている。


ここからは、観術のノさんの本も読まないとわからないだろうが、割愛する。
正義っぽそうなイメージを作り上げる事はできるものだ。観術のノジェスさんが瞑想で見たイメージは私と同じだろうが、二つの作用がどこでもあるわけだし、ヒトツのイメージ以外の内外反転があるわけだから、それ以外のイメージもあるとも考えられる。理屈上は、ノさんが言っている内外反転はありえる。しかし、その反証の可能性としては、
私が、瞑想状態で見た完全停止状態の虚無や無のイメージとかだ。
まあこれは、恐らくかなり薄過ぎる地獄とも言える。虚無世界も増えるとも減るとも言える。
また、平行宇宙の内外反転映像の恐らく、ノジェスさんが見たのとは、別のイメージもあるものだ。これは、別のイメージなので、似ているものとも言える。
瞑想状態を絶対的イメージに定義すると、それ以外で矛盾が生まれるが、恐らくノジェスさんには、人生経路的に、見えなかったので、そこから宇宙原理をヒトツの法則から二つの作用にしたのだろう。となると、絶対無の世界でヒトツ学から、倍増しないのがあれば、反証になるが、死なないとわからないし、死んでもわからないので、何とも言えないものだ。どんな大犯罪を犯せば、完全無の世界に飛ぶのかは想像がつかない。

個人主義全体主義色々と主義や哲学的倫理的パラダイムはある。ただ、これを人生で決めるのは、貴方次第である。もしくは、集団で適応されるパラダイムもあるのを取っても良い。どの主義も、穴があるものだ。ただ、これが正義と決めつけている者同士は、はかない気持ちになるものだ。決めつけていないが、しっかりと一つ一つを悟っている大人達は、そのような衝突ばかりするわけではない。どこかの集団で、自分の正義観で、矛盾や疑念が生まれるものである。万人が好む正義というものは、ないのだ。私は、自分がブッタやキリストのような悟りを得れば、何か頂点からの悟りのようなものがあって、それがあると思った。それなりの修行と多元的平行宇宙にワープする等の疑似体験をしたものだ。ただ、やはり、言わんとする事は、一つ一つ賢く日常生活を送って生きなさい等の一般的に良い事と、個人や組織に由来する問題を向上させるものだったりする事なのである。現代版の悟りの最高の福音書を作ろうとしたたが、現状では、ほぼ無理な事だと思っている。それは、どの霊界対戦の頂上決戦をしても、善悪戦ってばかりなのである。戦わない選択が難しいのだ。福音書自体に人それぞれ、無意識マップが違うのだ。
一般的に大事な事は、家内安全とか健康第一等ありきたりな事を書いていく事になる。これは、作った事がある。例えば、憲法言論の自由等の正義が良いと言えばいいし、悪いと言えば悪いものなのだ。
しかし、わかりやすくすれば、それとは違う事で、また、伝えきりたい事を言語化できないのである。さらに、正確な中心のイメージから少しズレた言語化したものを伝えようとしても、相手が理解できなければ、伝わらないのである。テレパシーでもなければ、伝わないものなのである。ただ、このテレパシーというものは、たまたま何かカラオケで歌いたい時にその場にいる人が同じ曲を思ったような直感のようなものではないのだ。擬似科学の深層を伝えよう。瞬間移動は、物質上は、無理だが、意識体(魂)を平行宇宙に飛ばす事はできるような体験をする事をした。ブッタの修行の最中に、悪魔と対峙する機会があるが、私は、それに似た疑似体験を長く辛くしたものだ。する必要もなかったとも言える。私自身、もう終わりにしたいものだ。意識が急に飛ぶてんかんもあった。私は、ブッタになりたかったのだろうか。ある団体から、ブッタの愛弟子が過去生と言われた事があるが、確かにそのような悲劇的喜劇的な体験をした。昔は、思考ばかりで、体験をしていなかった。苦行やスピリチュアルの体験に憧れていた。が、体験が増えても、何かしっくりこないのだ。何かの個別事象を見て、瞬間移動がどうだとか、そのような事は、言えるのだ。人生無意味にも有り難いとも思えるものだ。やはり、その時の気分によるものだ。越えられない壁を感じている時は、越えてみたいものだが、登山のように越えてしまうと案外面白くないものとも言えるのだ。私は、名声が欲しかったわけでもない。ただ、世界を救いたかったのかもしれない。そのために、どうするかとモガいたのかもしれない。山頂に上った爽快感と失望感があるものだ。私は、ブッタを越えたのだろうか。現世と当時は状況が違うからだ。いや、それはわからないものだ。小学生の時に、算数の問題を先読みした時の感動は、一塩だっった。が、他は、普通であった。できる方になると、途端に面白くなくなる。が、できない側だと、劣等感を感じるものだ。世界を変えたいと、特別な人間になろうと思っていたのかもしれない。自分を変えたかったのだろう。自分という存在をとにかく変えまくってきたような半生であった。私は、ある人生の時期から、特殊な人から、普通の人になりたいと思ったものだ。普通に生きたいと思ったものだ。有り難い事とも難儀とも言えるが、普通の人と見てくれる人も多く見えるのだ。もう死のうかだらだらと生きるかの問題なのかもしれない。死ぬのは比較的簡単になった。いや、もがきながら生きていくのだ。同じような苦行の時には、あ、同じ苦行の内容なら大丈夫と思えるので、それは苦行の効果だろう。悟りが一定いくと、あまり、その後の人生で、気づきが少なくなっている。気づきを意図的に多くしていく必要があるが、その時々に思うテーマを考えればいいのだ。何か人が自分に不快感を出されて、嫌な場合に誰かに言ってしまうと、問題自体は完全解決しなくても、意外と心はすっきりするものだ。これが、問題を解決し過ぎる思考をすると、問題設定をして、問題解決できない状態が続くと、心はすさんでいく。悟りが続くと、これも昔深くまで気付いた、という事が多くなる。プチ良いことをしたり、プチ良いことを言ってりするだけなのだ。それが周囲にとって、持ち上げられたりする。マトリックスの世界は実在すると言えばあるが、別に霊的主管をされない人にとっては、どうでもいい怪談程度である。私は、気孔波や空中浮遊でも習いたいものだ、おそらくそんなものはないだろうと思っている。俺は、早く世界を知りたかったので、代償と引き替えに、早熟な人生を歩む事になったが、別に必要なかったとも言える。
周りから『人生経験豊富だね』といわれて、尊敬されるぐらいなのだ。
昔は、上の世代や上の役職の人が何を考えているかが気になっていた。宗教の良さも悪さもあるものだ。また、価値観や生活態度を変えると、実行力も変わってくる。魂が、両親を選んで生まれた等の時折、その考えが出るぐらいならいい。が、洗脳状態は怖いものだ。そっちのルートで失敗した人知っているよと助言してくれる、またはそのような価値観を諭してくれる人も必要なのだ。年を取って、それなりに考えが変わるかというと、そうとも言えるし、そうとも言えないのだ。人の一面的な場面しか見てないと、その人のリアルを知らないので、ある一定量長く接しているとわかるものである。聡明な人とは、強く言ったり行動したり、弱く言ったり行動したりを調整できる人とも言える。聡明な人は、自分にできる努力を継続して、人事を尽くして、天命を待つのである。何事も、ちょっとずつ効果を確認しながら、やって見続ける事である。話は変わって、病院にいると、マジでやる事が制限されるのが苦行と言えば苦行であるが、気楽といえば気楽なのだ。死ぬまで、人生で内外反転しない場合もあるが、死後の世界で内外反転するかは微妙な所だが、一応内外反転的カルマの映像体験はした事があって、それが適応されるかは、死なないとわからない。生きているうちに不幸な人は、内外反転をしてほしいものだが、それを早めるのは、あるとも言えるが、ないとも言えるので、なかなか地道な努力しかないのだ。人の認識なんて、変わるものなのだ。厳密に見ると、どちらとも言えるし、ややこちら寄りと言えるかもしれない。どっちでもいいとも言えるものなのだ。


未知の体験は、面白いものだ。私は、今肉体改造にはまっている。筋トレでストレッチでダイエットで食事制限で、どこまで自分が変われるかだ。肉体改造をするようになって、自信がついたものだ。菜食主義も最初は抵抗が少しあったが、やってみれば、肉と魚を食わないのも工夫次第で、できるわけだし、炭水化物抜きも同時にやっているが、食べない事もできるものだ。ただ、栄養失調にならないように、何かしらの栄養素が足りなさすぎないように工夫するのだ。外食が少しめんどくさいかもしれないが、残して食わなければいいのかもしれない。

人生長い目で見る事が大切なのだ。ただ、私の人生は複雑かつ不明瞭で、尖った部分は、あまりに周囲にわからず、失敗だったとも
成功だったとも言えるのだ。色々と研究し過ぎる事もなかったとも言える。哲学の繰り返しも、必要なかった普通の人生でも良いものだ。また、ノーベル物理学賞の研究とか、結果が認定される分野ではないからだ。ごく僅かに、信じるか、わかる人に伝える話が、本当にしたい話だからだ。わからない人に、かみ砕いて説明するのも、なかなか難儀なものだと感じている。しなくても良い話を、できる限りするようにしている。このブログも、完全はほとんどないが、霊が書きたいものを書いている自動書記のようなものだ。ぶっちゃけると、世界を知ると、未知の部分があってもいいという気持ちが強くなり、『どうせこういうぐらいでしょう』という予測も出てくるものだ。死ぬまでにやっておきたい事という思いが多かったが、いつ死んでもいいとなると、あまりできなくても、死んでも悔いはないものなのだ。水だけで生活しているアジアの人と同じになりたい、その人の境地を知りたい、知り合いたいというのがあったが、私自身今は、実際に知り合っているわけではないが、どうでもいいと言えばどうでもよくなるものだ。擬似科学系を知りたかったのだろう。水だけ生活している人の苦労やその次の断水行もあるし、どれくらい一日で水を飲んで、どのような生活をしているかというのも、体格という事や人種や文化というのも少し気になるものだ。『意外と慣れれば、平気だよ』となるのかもしれない。修行内容ができたからどうとかあるものだ。あまり考えないように努めるというのも大切なものなのだ。考えすぎというのもあるものだし、実践も必要だし、考えないのも大切なのだ。

自分が生きているうちに、宇宙一や世界一を体験したかったのかもしれない。擬似科学の世界一になっても、大したこ\とないとも言えるし、ちょっと不幸で良い経験したぐらいで、あるプロ選手のようにキープする必要性もないし、少しばかり擬似科学に興味があるぐらいなのだ。
超人や偉人の理想論や理論に興味が昔あったが、あまり特別視しない事が大切だ。集団行動では、社会常識のうような、ある一定の正義っぽい事が必要になるのだ。そうしないと、集団が機能しないからだ。サッカーのように、集団の機能と個人の機能は、永遠のハイブリッドになれるか、挑戦し続ける事になるだろう。

話題は変わって、やはり人はある場面ばかり見ていると、固定観念が生まれるのだ。ある人のがんばってない生活シーンばかり見てると、がんばっていないようだが、ある時、がんばっているシーンを見ると、認識が少し変わるものだ。どれくらい努力するかは自然体で、周囲に求められている範囲で、無理のない範囲で努力すればいい。ただ、意外と本人と周囲は無理だと思っても、無理じゃない場合もあるので、無謀はしないが、若干無理めな事にも努力してみる事だ。
例えば、筋トレも、若干無理っぽい負荷が強い筋トレをし続けるのがポイントだ。負荷が軽すぎたりすると、筋肉が全然つかないし、負荷が重すぎると気分的に嫌になり、続かないものだ。体の体型が変わり始めると、やる気も出るものだ。筋トレは、体に乳酸が溜まってもう嫌だなと感じた時からが勝負なのだ。

話は、元に戻して、気と呼ばれるプラーナをエネルギーに変換して、水だけで生活できるかと言えば、かなり怪しいと思っている。やりすぎの菜食主義で、不健康になって、病気になる人もいるからだ。体内の脂肪が、エネルギーに変わるのは、普通である。気をエネルギーに変換は、オカルトに近いものに感じてしまう。


神はどこにいるの?「天上」「心のなか」「上」説の論争とは│NEWSポストセブン

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