洗濯物をこまめに洗った方がいいか、大量に洗うのがいいか。
「どちらでもいい。」よりも、「洗濯物を、時と場合により、こまめにも、大量にもどちらにも使い分けて、洗えば良い」
なのだ。
「どちらでもいい」というのは、やはりどっち付かずの表現に聞こえてしまうのだ。「どちらにも使い分けろ」が、最適なのだ。
大自由の心は、強い自制心と表裏一体なのだ。
ここは、誤解しない方がいいのだ。私は、誤解していた。常に自制心を持つことなのだ。アイデンティティを、状況に応じて、自由自在に変化させるのだ。
私は、母に毎朝怒鳴るのだ。夕方に私は、怒鳴られるのだ。これが大切なのだ。怒鳴られるアイデンティティと、怒鳴るアイデンティティの変幻自在なのだ。
これが、うまくいく秘訣なのだ。家族の中で、誰か一人だけが怒らないキャラというのは、作るのはカルマなのだと伝えたい。
感謝は、動作中に、「ごめんなさい」一点に念じて、集中するのだ。神に、言葉数はいらないのだ。神は、人間の思考を全て、読み取れるのだ。
これも、マタイの、祈り方に載っているのだ。
今日の聖句
https://www.bible.or.jp/ai/cal/aidoku2016-09-11.html
360度のアイデンティティを獲得してないから、圧力が来るのだ。
タバコを吸う。その動作の時に、つい感謝を忘れる。愛のエネルギーを、タバコを吸っている人に祈るのだ。ごめんなさい。ありがとう。ご近所に気を使って、タバコをベランダで吸わない時もあるのだ。思い直すことは、悔い改めになるのだ。ベランダの手すりに布団を干して、近所からクレームが入った。なので、ごめんなさいと共に、思い直すのだ。
旅館まきやまさんの四名様から、休憩パックは、1名から2名では、難しいと電話をしてわかった。この電話で確認を取る魔も勝利することだ。
自分の革靴を点検して、拭く。相手の革靴までやってあげるか、考える。教育者の場合、相手にその訓練を与える必要があるか気にするのだ。相手が獲得済みの場合は、遠慮なくやるのだ。私は、革靴の掃除をした。あまりやったことがないからだ。ごめんなさい。ありがとう。
大自由の心というのは、好き勝手やるという意味に誤解されやすい。私も誤解していた。そうではないのだ。
無意識マップの完成のために、進みたくても、自分の思い込みで進めないモノだけを、進めるためにあるのだ。
人生には、テレビゲームをしていい時間が決まっているのだ。私は、テレビゲームはしないのだ。やらなくていいのだ。そんな事よりも、やることはあるからだ。ただ、やってもいい自分も同時に認める事だ。その気分を感じる事は、大切なのだ。
大自由の心というのは、無意識マップの完成のためにあるのだ。完成を妨げる行動は、カルマになるのだ。