verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

プレゼント学 最終結論版

プレゼントを、誰かにあげる際に、どのようなもの選ぶかというのは、色々ある。
私も、様々なプレゼント攻撃をよくしたものだ。
ただ、貰ったものは処理に困る。
手作りのモノだと、余計に困ってしまう。

ということは、
渡す際に「あげたものは、全部捨てて良いから」「誰かにあげてもいいから」と伝えるのだ。これが、究極のあげる側のプレゼント学なのだ。

これは、カルマを作らないのだ。物の管理をしっかりしないと、負のエネルギーが放出されるのは、以前にも書いた。
だから、貰ったもので、使わないものは、捨てるか、あげるか、使うか、どこかしらに循環させなければならないのだ。しなければならないという言葉は、あまり使いたくないが、結局その人のためにならない場合は、しなければならないという語感を使うようにしたい。

貰う方としては、基本的に、モノにも因るが、敬意をもって、捨てるに限るのだ。本人に返すのもいいが、関係によるだろう。

いつまでも、同じものを置いていると、循環にならないからだ。
だから、熊手等は、神社にお返しするのだ。「熊手返すの忘れたと周囲に伝えるのは良いことなのだ。少しバカみたい魔があるが、それはそれでいいのだ。
どの人もこの人には、これを言いたくないという魔がある。
結構負けているのに、私は気付くのだった。まあ言わないのだが笑

必要なものだけ、視覚に入れれば良いのだ。が、公共の場に関しては、皆で決めるものだ。

プレゼントも、悟りのためにある。また、人間関係の構築にあるのだ。


バレンタインのチョコも、うまく色々回すのだ。バレンタインのチョコは、一口食べる。そして、本人や友達に渡すようにする。そうすると、分け合えば、余るのだ。全部食べないといけないという思い込みを解除し、誰かに渡してはいけないという思い込みを解除し、食い意地を張らないという魔に勝ち、失礼をなくすという魔にも勝つ。そうすると、うまくいくのだ。
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