verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

見知らぬ人への魔 温泉、コーヒー店の例

温泉施設には、どんな魔があるだろうか?
温泉に行った。
ここでは、様々な魔がある。
温泉のお掃除のおばちゃんに、マッパで、トイレはどこか聞く魔があった。
ちっちゃい女の子と目を合わせる魔もあった。
人の落とし物を、すぐ渡す魔もあった。
警備員の人に話しかける魔、正直に、違う場所に止めているから、困るというのを話す魔。
アンケート用紙に答える魔
自分がタバコを吸わなくても、喫煙所にいく魔。
正直に受付の人に、事情を説明する魔。
すぐ他の人にサウナを譲る魔もある。
温泉では、ほぼ魔と戦うものがなくなってしまった。
ごみ拾いをして、帰るのだった。
可愛い子を見つめる魔もある。
どの状態にも、自分を転移できるかどうかなのだ。

人は、なかなか悪口を受け入れられないが、受け入れる心の広さが、自分を苦しめないのだ。

やはり、クラリネットの音が、私は好き
だ。真面目に言葉で表現しても、面白くないのだ。
究極の実在を、音楽で表せたら、素晴らしいのかもしれない。モーツアルトの曲のように、聴覚だ。
ただ、よく言われる高い波長の楽譜だけでは、なかなか難しいのかもしれない。
やはり、誰もが私のように、目で、瞑想で、見たいのかもしれない。

が、味覚で伝えるのも、究極の実在のイメージの一部を、究極の頭だけじゃないのかもしれない。

ウィローという植物エキスのように、嗅覚もいいのかもしれない。触覚もあるかもしれない。
最高結晶体のイメージだ。魂が喜ぶものだろう
無意識マップなら、できるはずだ。究極の実在のイメージを、味やらで伝えることも。
コメダコーヒーのアイスミルクコーヒーで、何か見付けられないか苦労するのだった。リラックスしきるというのも、また必要なのだ。
私は、本が成功するまで、人に会わないというの魔も、圧迫のためだが、結構きついものなのだ。

魔というのは、それぞれの人が見つければ良いのかも知れないとも思うのだった。
誰かの何かを守るために、人は生きるのが幸せなのだろう。
私は、昼になかなか歩くのが大変なおばあちゃんに、声をかける魔があった。
そう、なかなか人は声をかけないのだ。かけてもらうと、とても嬉しいのだ。
そして、過去の楽しい思い出を話してもらうのだ。
誰もが、自分の人生を認めたいのだ。おばあちゃん孝行は、こういう地域の人にも、していければいいと思うのだ。
ビジネスライクの思考だと、売り上げに繋がるかというものばかりだが、それでは、声をかけないのだ。
私も、一切声をかけなかったビジネスマン時代がある。が、声をかけた方がいいと思った時は、かけてもいいのだ。

さて、音楽にリズムを刻めば、楽しい躍動になる。ただ、楽しい顔が見たいだけなのだった。いや、自分も楽しくなるからだろう。
魂の時間調整は、バッチリなのだ
やはり、思考哲学をずっとやってよかったかも知れない。バック走をしながら、自然を見るというのもあるのだ、これは、躍りなのだ。やはり、家族といるのが自然体なのだ。家族で出せるものが、自然体なのだ。
一人の生活を極めれば、全ての人ともうまくいくのだ
私は、色々な人の事を考えてしまう癖があった。すごく辛いのだ。
だが、どうすればそれができるか、魂を磨きあげれば良いのだ。そうすると、自然と、普通の時間軸でも、うまくいくようになっているのだ。
私は、ずっと葛藤した。愛し合いたいだけなのだ。別の側面では、魂に誰もが忠実なのだ。が、誰もが、愛し合うことができるのだ。
コメダコーヒーに、ごみ拾いをしたごみを店員に申告する魔にも勝てた。この一瞬のやりとりの連続なのだ。ちゃんと周りを見ておくことだ。ごめんなさい。ありがとう。
ただ、私はお寺の住職に、昔のような純粋な気持ちを持ってほしかっただけなのだ。だから、相手が言っている準備というのも、必要だという視点は、重々承知なのだ。ごめんなさい。ありがとう。ただ、自己防衛には走って、他を疎かにしては、自分を苦しめるだけなのだ。今は、スマホで大概調べられるが、逆に現地の人との対話がなくなったり、遅くなったりするのだ。自分でいる時間に、どれだけ楽しめるかなのだ。
一瞬でも、大黒摩季さんの歌が聞けるかどうかなのだ。人間は、色々気を配ることが動物との違いなのだろう。繊細で広い心を持っていたい。自分のコミュニケーションの失敗も反省して、頭で変えていくのだ。
状況、状況で立場を転移するのが、必要なのだ。どの人の気持ちにも転移すると面白い。
家族四人だと、面白いのだ。どの人も個性を活かしている。時折、素直になることだ。やはり、何事も楽しむことなのだ。一つ一つの動作で、お返しをするのだ。どの人も、活かし合えるのだ。ちょうどいいバランスになるのだ。時たま、神に感謝するのだ。焼き肉でも、ケーキでも、楽しめるのだ、ありがとう。ごめんなさい。私は、いつもわがままだった。活動が大切なのだ。マナーが大切なのだ。
テンイドライブは、どこでも近場でもできるのだ。
自分が、どこでも受け身が取れるようにするのだ。何か嫌な気持ちになった時には、神に聞けば良いのだ。
魂は、愛し合いたいのだ。
やはり、味覚で、伝えるのは、難しいかもしれないと思ったものだ。聴覚も、難しそうだ。触覚も難しそうだ。嗅覚も難しそうだ。視覚なのかもしれない。
やはり、同じような魂で、感じるものなのかもしれない。私は、天衣無縫の術とは、もっと力強く荘厳なイメージだったが、もっと柔らかなものであったのだ。頭で頭でばかり行動してると、見失うのだ。だが、やはり頭も大切なのだ。笑い会いたいのだ。私の家族に、笑いが絶えなくなったのは、魂のお陰なのだ。みんなが、困難に打ち勝っているからだ。どの人も、支え合っているのだ。普通が一番なのだ。普通でいられることは、とても有り難いのだ。私は、その事を教えてもらった。決めなければ、うまくいくのだ。私は、考えてしまった。考えなくてもいいのだ。それが、家族なのだ。だから、いがみ合ってもいいのだ。どれでもいいのだ。私は、今日も楽しく生きられている。それは、有り難いのだ。ごめんなさい。手伝わなくて。弱核力も、極みまでいけば、面白いのだ。
歩調を合わせるのも、大切なトレーニングなのだ。
家族間の魔がどのように、あるか色々と伝えたいのだが、いかんせん自分も当事者だと、内容を整理するのは、難しいのだ。
わかりやすいラインとしては、誰もが、笑い合えていれば、それでいいのだ
が、どこかで、当事者になりながらも、俯瞰した中継ができる日が来てほしいと思うのだった。焼肉屋でも、色々な楽しみ方があるのだ。