誰かが見てくれるわけでもないしという魔 物質社会

「どうせ、文字をノートに書いても、誰かが見てくれるはずもないし」という魔がある。
これに私は長年やられていた。どうせ自分が書いても、あまり意味ないという魔だ。
だが、これは魔なのだ。書きたいなら、書けば良いのだ。積み重なると、変わってくるのだ。また、ノートというのは、残るからいいのだ。①見返せる②誰かが見る③やった結果が資格化できる
見てくれる見てくれないというのは、魂に依るのだ。だから、自分がやった行為が、無下にされたとしても、自分が、努力して、やった行為自身は、無くならないのだ。まず、神はそれも見ているのだ。だから、やった行為が、無くなるという事はないのだ。伝わらなかったから、なくなるというわけではないのだ。どの行為も、自分のためになっているのだ。どんなに親身にやっても伝わらなかったと感じたとしても、魂はわかっているのだ。私は、長年自分がやった行為が、無駄になったと思う事があったし、何か得になることばかり、考えていた。が、やった行為は、無下にならないのだ。私は、誰かが見てくれているのだ。長い期間をかけることなのだと気付かせていただいたのだった。
私は、特殊能力に憧れていた。だが、今特殊能力があると、感謝できないのではないかと、思ったのだった。特殊能力がある自分、特殊能力がない自分、どちらの自分も愛したいのだった。
特殊能力があると、目の前の色に感謝できないのではないかと思ったのだった。今、見えている景色も素晴らしいのだ。何でもわかるのつまらないのだ。私は、別次元のものを見たいとばかり思っていた。が、今の次元のものも、魂は好きなのだ。
今こうして、国民の家具を見ていて、渋さに気づくのだった。あれ、こんな茶色のかと。この世界も素晴らしいのだ。それは、作り上げた物質の世界だからだ。
物質世界は物質世界なのだ。偏ったときに、物質社会というのだ。物質は、有り難い存在なのだ。私は、ここを誤解していた。長年かけて丹精込めた作品なのだ。物質さん、ごめんなさい。