読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

連絡の魔 スーパー編 金銭感覚の落とし方

私は、連絡する魔によく負けている。
例えば、何か購入するか、誰かに聞いた方がいいとインスピレーションが沸いても、やめようかと思う魔だ。
独りでに購入する魔だ。
これに負けた彼をきつく叱った時があった。今必要な物品は、それじゃないと。
しかし、叱られた彼は、素直だったので、それに気付けたのだ。
ばつが悪い魔に勝ったのだ。
それは、彼の徳になるのだ。
叱られるのを、素直に受け入れるのは、とても良いことなのだ。私は、叱られたい。叱られた時に、自分の怒りが発生しているかどうかが素直かどうかだ。
純粋な怒りと、感情的な怒りを、分別するのだ。
純粋な怒りというのは、お互いのために、怒った方がいいというものだ
確かに、端から見ると、同じ怒りに見えるのだが、魂のカルマのカウントとしては、違うのだ。
ただ、いつまでも感謝する事なのだ。
私は、今まで叱ってくれた人に感謝したい。子供の時に、「いい加減生活観変えなさいと物理の先生と英語の先生に注意されたが、変えなかった。その時は、なんだかなーぐらいにしか思ってなかった。ちょっとマズいかな」ぐらいだ。警告はいつも来ているのだ。ドキッとする自分だった笑
だが、カルマ研究をして、痛い目にあって、わかったのだ。先生、ごめんなさい。
感謝していれば、そのメッセージを素直に受け取れるのだ。
全て自業自得なのだ。
私は、魔という存在を、全ての子供達に知ってもらいたいのだ

例えば、これは、聞いた方が良いかもと浮かんだ時は、必ずするといいのだ。お互いにとってだ。
これは、実は連絡した方が、お互いにとって良い展開なのだ。
相手がでなかったとしても。
が、場合によっては、やっぱり止めた方がいいかもという魔もあるのだ。
どちらがいいかは、魂が知っているのだ。
私は、エコバックで、卵一個と焼きそばだけを買うのだった。
いつも来る場所でも、初心者のようにどこですか?と聞く魔もあるのだ。
そして、自分が必要なものだけを買うかという魔があるのだ。レジに並んでも、やっぱり戻すというのもあるのだ。「レジ並んじゃったし、いっか」というのは、その魔に負けているのだ。私は、何度も返すことも、場合によっては、あるのだ。
勿論、窃盗はしない。これは、教育を受けたお陰だ。
見栄を張ると、余計に購入するのだ。そして、お金がなくなるのだ。
大人になっても、子供の頃に食べたうまい棒売り場に行く魔もあるのだ。
いつまでも、その金銭感覚を持ち続けるのと、感謝するためだ。
食欲と見栄を克服すると、そんなにいらないのだ。
スーパーの店員にも、しっかりお礼を言う魔もある。
晩御飯のやきそばを作るのだった。
やはり、「初心忘れべからず」、なのだ。
自分が会得したモノは、いつまでも続けるのだ。
明日は、5時15分に起きよう。
魂に合わせるだけで、物事は全てうまくいくようになっている。
どれだけ合わせられたかが、幸せを決めるのだ。
その事を気付かせてくれた事に感謝したい。いつも、魂と逆の選択をして、ごめんなさい。それでも気遣ってくれて、ありがとう。
食事を作らないという魔もあるのだ。「今日の晩御飯は抜きよ!」というのも、お互いにとって、必要なときもあるのだ。
ごめんなさい。ありがとう。
まただ、愛だあ愛だあ叫ぶのは、早いようだ。甘えてばかりいて、ごめんなさい。
自分が暗くても、楽しく振る舞う魔というのもあるのだ。 その積み重ねなのだ。
今から少しずつ変わっていくだけなのだ。ごめんなさい、たくさん疑う魔に負けて。
誰かに何かを作ったあげたいという意識は、とても大切なのだ。意識が、愛なのだ。 いつも、意識してくれて、ありがとう。キャッチできずに、ごめんなさい。
が、しっかり感謝していないと、脳でキャッチできないのだ。ごめんなさい。ありがとう。
私は、誤字と脱字を訂正する魔には、ほぼ間違いなく勝てる、
それは、母校のお陰なのだ。
ここにも、自分がいた空間を表現する魔というのもあるのだ。私は、よく負けていた。圧倒的に。だが、それは自分を苦しめるのだ。なぜなら、自分の人生そのものなのだからだ。そこにどれだけの時間いたかということだ。色々な葛藤があったはずだ。
それは、全て魂のためになるのだ。

さて、文字を間違えている事はあるのだが、発見した時に、必ず訂正するのだ。その学校は、文字や学習というのを大切にしているからだろう。
どこの学校も、大切にしている文化があるのだ。そこに感謝するのだ。
私は、寄り道が好きだったが、普通に誰かが好意で作った道というのは、ありがたいのだった。ごめんなさい。
進学校なのに、適当な勉強しかしなくて、と家族に謝りたいのだった。どの学校も、自分を磨いてくれるためにあるのだ。どの場所も自分を磨いてくれるためにあるのだ。人間は、ダイヤモンドのように、磨き続けるために、生まれてきたのだ。それは、才能の発揮というだけではないのだ。才能探しをし続けるのではなく、自分磨きをしていくのだ
この事を、神から教えていただいた。

やはり、夢というのは、うまく活用すれば、カルマの発見になるのだ。
私は、今日初めて幽体離脱ができたのだ。俯瞰している自分を見れたのだ。前にしていたと思っていたのは、違っていたのだ。途中で怖くなったので、ビビって戻ったのだった。明日から、また面白いものが見れるかもしれない。ありがとう。ごめんなさい。
やはり、しっかりと認めることは、自分を助けるのだった。ああ、エミール君。あなたは、いつまでこの生活を続けるのだ。と問いかけたいのだった。
「窓を拭いて」という相手に対して、「嫌だ」という事をいう魔というのもあるのだ。
そして、「ごめんね。blog見てくれたら」と交換条件を叩きつける魔もあるのだ。優しい彼は、それができなかったのだ。だが、私は、そんな彼も認めたい。なぜなら、私もそうだったからだ。なかなか交換条件を叩きつけるのが、苦手だったのだ。どの人も、交換条件を叩きつけて良いのだ。人間は、お互い様なのだ。私は、「 その代わりに、これやって」と言える人が羨ましかった。「ああ、そうやって言うんだな」と感心したものだ。ありがとう。ごめん。彼のお陰で、私は、「人に交換条件を叩きつけていい」という事を知ったのだった。交換条件を叩きつける魔に負けている相手に対して、「ごめんね、交換条件叩けないよね」と寄り添うのも、大切なのだ。商売でも、交換条件を叩けない人もいる。ごめんねから、入るのだ。
いつも、湯タンポを作ってくれて、代わりにやってくれて、ありがとう。
自分からやらなくて、ごめんなさい。と謝るのだった。
相手の言っていることがわからない場合、素直に聞くという魔があるのだ。
「お母さんの、一番わかってほしい気持ちわかる?」というのに、素直に「わからないです。教えてください」と頭を下げられるかなのだ。つまり、「自分が悪くないと思っている」から、相手の真意を掴めなくて、無意識マップを完成させられないのだ。
つまり、相手の真意がわからない場合は、どんなに自分が間違っていないと思っても、頭を下げられるかどうかなのだ。それができないという事は、頭が固いのだ。できない自分をごめんなさい。ありがとう。なのだ。
どの人もお互い様なのだ。
ここまで謝りのマップを進めている人は、皆無に近いのだ。と神が教えてくれた。だから、それができないということは、そこまで謝りの愛がないのだ。できない場合は、祈りをすることなのだ。そこまで、勇気や愛がなくて、ごめんなさい。ありがとう。なのだ。
これは、感謝と考察が進まないと、わからないのだ。
この人に変わって欲しいという愛があるなら、まず自分から、頭を下げるのだ。それをしないなら、ごめんなさいなのだ。私は、ごめんなさい。と祈り続ける。明日の朝5時15分に謝るのだ。それを有言実行するのだった。どの世界も繋がっているのだ。どの人も、自分が誤っているとは、思わないからだ。
怒る時も、相手に対して、純粋な気持ちで怒るのだ。理性的な自分を俯瞰しながら、怒る自分を演じられるのだ。これは、しっかり教育を受けた人にしかわからないのだ。教育を受けさせてくれて、ありがとうございます。ごめんなさい。
例えば、自分が優位な立場で、相手が、説得できていないという時は、できる限り、下手に出る行為もするのだ。やってくれている事に気付かされるのだ。それが、視点転移なのだ。やはり、素晴らしい人だった。
ごめんなさい。ありがとう。自分の無意識マップが進んでいる箇所があろうが、相手の無意識マップが進んでいない箇所を見つけたとしても、ごめんなさい。ありがとうなのだ。うまく伝えられなくてごめんなさい。いつまでも、感謝すれば、色々と悟れるのだ。
ここまで、教えてくれて、ありがとうございます。ある人に対して、何かインスピレーションが浮かぶというのは、有り難いことなのだ。
私は、誰よりも謙虚だった、自虐だった、だから応援してくれるのだ。ただ、いつまでもごめんなさい。ありがとう。と思いたいのだ。魂は繋がっているからだ。魂魂、言うなら、神神言うなら、お互い信じていくのが、純粋なのではないだろうか。ごめんなさい。ありがとう。
やはり、全ては全てのために、全ては一人のために、一人は全てのために、あるのだと思うのだった。ごめんなさい。
自分が文字を書けるというのは、有り難いのだ。「世界には、文字が書けない人もいるのだ。」というのが、浮かんでくるのが、無意識マップに王手がかかっている感謝状態なのだ。それが、多種多様なモノに対して思えるかどうかなのだ。私は、きれいに文字を書く魔に負け続けている。少しきれいに書いていこう。何度も注意してくれた沢山の人にごめんなさい。ありがとう。なのだ。
一つの動きのイメージから、感謝するのもいいが、普段目に見えるものから感謝するのも、また素晴らしいのだ。私は、昔から意固地で、「感謝って何だよ」と思っていた。だからこそ、どういう状態か伝えたい。あまり、寄り道して、苦しんでほしくないからだ。自分が、多数の人の共感を得たとしても、「やっぱり自分が間違っていたかも」とインスピレーションが浮かぶのが、純粋な感謝状態なのだ。ごめんなさい。彼女は、そんな状態だったのだ。誰もが、お互い様なのだ。ごめんなさい。ありがとう。と思い直すのだ。調子に乗って、ごめんなさい。誰にとっても、得しか実は起きてないのだと気付くことなのだ。魂は、甘えも許しているのだった。ごめんなさい。ありがとう。「自分が悪くない」と、誰かに共感を求めたり、自分勝手に解釈するのは、全て甘えなのだ。どんな時も、「ひょっとしたら、自分が悪いかも」と思う事が、大切なのだ。
今、仲が良くない、喋らなかったとしても、ある人が浮かんだら、愛のエネルギーを送るのだ。甘えていた。ごめんなさい。ありがとう。人それぞれ使命があるから、エネルギーを送り合えるのだ。やるかやらないかは、自分次第なのだ。魂は、繋がっているからだ。どれだけ、昔喋ったことがなくても、今連絡先を知らなくても、今浮かんだということは、愛のエネルギーを送れるのだ。ごめんなさい。いつも、無視して。ありがとう。どんなに気弱な人でも、できるのが祈りなのだ。必要がなければ、カットされるのだ。私は、もう一度その人に送ろうとしたが、思考をカットされた。それ以上は、不要だったのだ。こういうのが、魂に従うという事だ。これを、どこまでもやらないといけないとなると、途端にやらなくなってしまうのだ。だからこそ、魂に従うと、目に見えない世界での、いらない行為もわかるようになるのだ。見える世界でのいるいらないは、普通に常識に従えばいいのだ。明日は、カットにいこう。コストカットだ。