宗教家 オチ 何かの拍子

私は、宗教家というのは、調べきっているわけではないと思うのだ。
確かに、あらゆる視点を調べている。
が、あと一歩違う気がするのだ。
ここは、まだまだ解けないのだ。
何かわからないが、何でもそうなのだが、何か一つの拍子で、一気にオチがある気がしてならないのだ。
見えない世界というのは、調べれば、調べるほど、ほぼ全てが、そういう解釈ね。確かにね。というのがあるのだ。
が、何か最後の一歩が、どうも怪しいのだ。ここが、甘えなのかもしれない。やはり、かなり甘えているのだ。ごめんなさい。ありがとう。それは、自分で決めることなのかもしれない。そうすると、私はなぜ、こんな頭でばかり考えていたのだろうかと、頭が痛くなるのだ。甘えてしまっている。明日は、5時30分に起きよう。
この妙な最後の怪しさが、情報化社会の現代人には怖いのだろう。私も、そうだからだ。
最後の一歩を自分で決断しきらない魔だろう。私もおおいに悩むのだった。
ああ、あまり調べなければ良かった。いや、調べたお陰で、助かることが多くなった。そうこうやって、すぐにプラスに持ってけるようになったのだった。これが、波長が上がった状態なのだ。魂は、わかっているのだ。私は、自分の中心の中心を信じたいのだ。ただ、まだ確証がないのだ。それが、怖いのだ。
選択肢が増えると、どうしたものかと甘える魔にやられるのだった。決断したものしか、覚悟ではないのだ。私は、一生感謝し続けようと決めた。そう、こういうのも決断なのだ。ただ、やはり思いきった分だけ、花が開くという法則があるのだ。私は、思いきりたいのだ。が、ここに来て、また長考するのだった。結婚相手も、思いきりたいのだった。今まで検証した視点か、はたまた逆なのか、最後のオチは、どちらか。ただ、考えても、やはりわからないのだ。いや、まだ検証が甘いのかもしれない。メキメキ近づいているのだ。どちらなのか。だ。私自身でわかるのか、死相家としての限界なのか。まだまだ、もっと甘えをとりきれば、わかるかもしれない。どちらでもいいのか。
罰は、必ず下る
ただ、それも慈愛なのだ。 結婚したいなと思うのであった。