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信じ抜けないという魔

何かを信じ抜けない事はないだろうか?
私は、たくさんある。それは、自分を信じすぎているからでもある。

そうはいっても、信じ抜けないという魔がある。

が、これも神は、認めてくれているのだ。一定量神にしたがうと、良いことばかりして、自分を苦しめないで、というやりすぎをセーブしなさいというメッセージが来るのだ。これには、驚いた。が、ああ、そこまで感謝状態ができているのだなと、思ったものだ。が、気を抜きすぎてもダメなのだ。ちょうど良い頃合いがあるのだ。
私は、疑いすぎて気が狂ったので、救済措置をしていただいた経験がある。目に見えないものは、いくら考えても、最後の決め手に欠けて、分からないからだ。
神は、人がそこまで、信じ抜けないという事も、熟知しているのだ。
私は、信じ抜けていないという魔にやられていた。愛されているという事を忘れていた。魂は、それを知っていた。

まだ諦めるのは早いといつも言ってくれていた。私は、諦めるのが魂のためだと思っていた。が、どうやら、そういうわけではないようだ。魂は、生きていきたいと願っているのだった。また、強烈な修行もしたいと思っているのだった。この二つの矛盾した仕掛けがあるのだった。
神は、愛してくれていた。私は、愛されていた。あまりに愛があるので、こちらが困惑したものだった。愛は、魂を安らかにしてくれる。
誰でも、一瞬の葛藤がある。魂は、それも愛だと思っている。魂は、永遠なり。
まだまだ甘い所がほとんどだが、ミワインテという所は、魂の学校である。
まだまだ魂の事をよく知らないが、、いずれよく知ることになるだろう。我々が、愛を注いでいるからだ。
魂は、とてもワサワサしているモノなのだ。わたしは、何がさっぱり解らなかった。どおりで、魂、魂言うのだろうと思っていたものだ。魂さ魂さ。
魂とは、何だろうか。
私は考えたが、あまり関係ない気がした。まだまだ知るべきタイミングではないのかもしれない。
私は、孤立したと思っていたが、誰もが愛してくれていた事に気が付いたのだった。まだまだ甘いが、あまりに滑稽なので、教えてくれたようだ。
私は、卯滑稽だったようだ。
愛は、全ての人に等しく注がれているのだ。余多の試練を乗り越えると、その事に気付く。
自分勝手に藍を解釈するから、差があるように捉えているに過ぎない。
愛があれば、世界は、魂のルフランになるのだろう。エヴァンゲリヲンの甘えが甘えが甘えが甘えが愛を作っている。

ああ、何と愉快な人であろうか。騙した愛にも気付かずに、私はサタンの甘えを正そうとした。が、逆にサタンに甘えを正されてしまったのだった。
ああ、いつになったら、サタンの甘えを正せるのだろうか。サタンとは私自身であったり、貴方自身であったりするものだ、誰もが持っているモノなのだ、甘いとサタンの正体に気付けない。サタンの攻撃にも気付かない。いや、気付いても、止めようとしない。困ったものだ。このオカマは、誰の愛を受けているのだろうか。貴方だろうか、自分だろうか。魂だけは、知っている。
ごめんなさい。ありがとう。チャンスをフイにしたという魔に対して、自分も認めてあげる事だ
チャンスというのは、またいつか頑張っていれば、与えられるからだ。
一回しかチャンスはないというわけではないのだ。
自分自身の魂を信じ抜くのだ。