verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

信じ抜けないという魔

何かを信じ抜けない事はないだろうか?
私は、たくさんある。それは、自分を信じすぎているからでもある。

そうはいっても、信じ抜けないという魔がある。

が、これも神は、認めてくれているのだ。一定量神にしたがうと、良いことばかりして、自分を苦しめないで、というやりすぎをセーブしなさいというメッセージが来るのだ。これには、驚いた。が、ああ、そこまで感謝状態ができているのだなと、思ったものだ。が、気を抜きすぎてもダメなのだ。ちょうど良い頃合いがあるのだ。
私は、疑いすぎて気が狂ったので、救済措置をしていただいた経験がある。目に見えないものは、いくら考えても、最後の決め手に欠けて、分からないからだ。
神は、人がそこまで、信じ抜けないという事も、熟知しているのだ。
私は、信じ抜けていないという魔にやられていた。愛されているという事を忘れていた。魂は、それを知っていた。

まだ諦めるのは早いといつも言ってくれていた。私は、諦めるのが魂のためだと思っていた。が、どうやら、そういうわけではないようだ。魂は、生きていきたいと願っているのだった。また、強烈な修行もしたいと思っているのだった。この二つの矛盾した仕掛けがあるのだった。
神は、愛してくれていた。私は、愛されていた。あまりに愛があるので、こちらが困惑したものだった。愛は、魂を安らかにしてくれる。
誰でも、一瞬の葛藤がある。魂は、それも愛だと思っている。魂は、永遠なり。
まだまだ甘い所がほとんどだが、ミワインテという所は、魂の学校である。
まだまだ魂の事をよく知らないが、、いずれよく知ることになるだろう。我々が、愛を注いでいるからだ。
魂は、とてもワサワサしているモノなのだ。わたしは、何がさっぱり解らなかった。どおりで、魂、魂言うのだろうと思っていたものだ。魂さ魂さ。
魂とは、何だろうか。
私は考えたが、あまり関係ない気がした。まだまだ知るべきタイミングではないのかもしれない。
私は、孤立したと思っていたが、誰もが愛してくれていた事に気が付いたのだった。まだまだ甘いが、あまりに滑稽なので、教えてくれたようだ。
私は、卯滑稽だったようだ。
愛は、全ての人に等しく注がれているのだ。余多の試練を乗り越えると、その事に気付く。
自分勝手に藍を解釈するから、差があるように捉えているに過ぎない。
愛があれば、世界は、魂のルフランになるのだろう。エヴァンゲリヲンの甘えが甘えが甘えが甘えが愛を作っている。

ああ、何と愉快な人であろうか。騙した愛にも気付かずに、私はサタンの甘えを正そうとした。が、逆にサタンに甘えを正されてしまったのだった。
ああ、いつになったら、サタンの甘えを正せるのだろうか。サタンとは私自身であったり、貴方自身であったりするものだ、誰もが持っているモノなのだ、甘いとサタンの正体に気付けない。サタンの攻撃にも気付かない。いや、気付いても、止めようとしない。困ったものだ。このオカマは、誰の愛を受けているのだろうか。貴方だろうか、自分だろうか。魂だけは、知っている。
ごめんなさい。ありがとう。チャンスをフイにしたという魔に対して、自分も認めてあげる事だ
チャンスというのは、またいつか頑張っていれば、与えられるからだ。
一回しかチャンスはないというわけではないのだ。
自分自身の魂を信じ抜くのだ。


追記
うーん。まあ、信じ抜けないというのは、一般的にあるのかなと思う。やはり、あまりうまくいってないと、信じ抜くのは、バカみたいに思う魔や気持ちがある。私は、神様が病気をいつか治してくれると思っているが、そんな何度も時間をかけてお祈りする事はしていない。熱心にし過ぎると、落胆があるからだ。これが、恐い。アイデンティティーが崩れる気がする。これが、正しいポーズかは、わからない。急かしても、無駄なような気がするからだ。神様も事情があって、こうしてるというのもあるんじゃないかと、思う。だから、自然の摂理に従って、生きてる。