自分にできるかなという技術の魔

技術の魔というものがある。
自分に、そんな能力が、あの人よりもないのではないかという魔なのだ。
特に、自分の能力が、顕在化があまりできていない時は、そういう魔が来るのだ。
が、ここに負けると、無意識マップが進まないのだ。
私は、自分の可能性を信じ続けた。信じるだけだった。特に、それ以外は、必要なかった。例えば、ペーパードライバーから、どこでも停められる普通のドライバーになった。他にも、例はある。とうとう、blogの記事も500の大台を越えそうだ。
終結論として、私が、私を信じれば良いのだ

私は、とてつもなく気にしいなので、なかなか輪に入るのが勇気がいるのだった。サッカーで、「仲間に入れて」と言うのが、とても勇気がいった。
が、何とか勇気を出し続けた。そうすると、意外とイケるものだなと感じたものだった。昔を思い返せば、あれは、魔だったのかもしれない。
あのとても檻に入れられて、鍵を求める気持ちを隠しながら、敢えてカギをもらう気持ちだ。なぜ、あんなに気にしいだったのか。どうやら、前世のトラウマのようだ。が、解消してもらったようだ。ごめんなさい。ありがとう。過去のはめを外すのだった。封印を解除したいのだった。

  1. 私は、変わり者だ。とてつもなく自分の能力を信じることもあれば、とてつもなく自分の能力を把握したいので、疑い続けるのだ。あるのだ。信じるのだ。最後に決めるのは、自分なのだ。私は、数多の試練に打ち勝ったのだ。信じて良いのだ。これ以上疑って、どうするのだ。やはり、何事も準備が完璧になってから出そうという魔があるのだ。それでは遅いのだ。徐々に出していくのだ。そうすると、出している自分が当たり前になってくるのだ。blogも出しまくった。そうすると、見方が変わってくるのだ。

私は、操り人間だった。頭が痛くなった。だからこそ、頭が下がったのだ。サタンといわれる存在と愛と呼ばれる存在を、超克した存在なのだ。愛し合うことだ。まだまだと思う毎日であった。自分の能力を信じて磨いてよかったと、感謝するのだった。少し感動した。もっと感動するだろう。私は、世界のために、もっと動くのだった。魂が、数多の葛藤を楽しませてくれるのだった。魂は、永遠なり。
手に職への不安というものは、誰でもあるのだ。


講義録
20160621 (火)1036
「魂の声に忠実」とは、どういうことか? セミナーや講義を受けたシーンでお話ししましょう。
講義を受けている際に、自分がノートに書いている事の中には、「来週の予定どうかな」とか一見関係ないと思われるようなこともノートに書いている。これは、少しダメと思われやすい行為だが、誰でもしている。が、あまり意味を知っている人は少ないかもしれない。
自分が何気なくやっている行為というのは、深い意味があってやっているのです。
自分として、最適な方法を選択しているのです。正直な話を言うと、書いてある、相手が言っている内容よりも、自分の葛藤が大切なのです。
心と対話をしている。
ノートに書いたことに囚われるのを避ける意味で、セミナーや講義の講師側では、ノートを取るのを強制するルールにするのは良くない場合もあります。
個性を潰してしまっている。
ノートをとる人はとればいいし、とらない人はとらなければいい。それが中道です。が、なかなかその判断が難しいのです。ただ、ずっと鍛練すると、わかるようになっていきます。
質問1 日本の暗記教育は、悟りを遠ざけるものか。
→そのままそうとは言えないが、そうともとれる。

例えば、ある人は、「塾で習っているのに、学校で、もう既に分かっているのに、何で講義を聞かされなければならないんだ」とか、「聞いてあげている」という気持ちになってしまうかもしれない。十代の頃から、既にそうだときつい。
基本は、純粋の間をとってほしい。だから、新しい情報を頭にインプットするだけが、教育ではないのです。
私たち、テンイは論理的にも、政治的にも、学校教育がシステマチックに硬直化した部分を、「創造的破壊」をして再創造の道を模索しています。
40人学級を全部破壊する勢いで動いていく。
現場の先生方が困ることを想像して、二の足を踏んでいたら改革は進まない。環境が変わるのは当たり前で、多くの人が本音では苛立っている。けれど変えようとはしないのであれば、義務教育に依存してても仕方がない。
私塾の方が遥かに悟れるならば、私塾のスタイルを義務教育に反映させられるように実績をあげていかねばならないと思っています。学びの場で各自の表現スタイルを確立させる環境に適応しやすくなるように自分で創っていく必要があります。授業で聞いたことに新しい発見を加えて、アウトプットで個性を引き出せるように導けたら嬉しいです。
講義内容が、それこそ録音したdvdのようなものを、そのまま再現するだけで、終わらせても面白くないのです。
生徒に対して黙って一方的に聞いていなさいという注意をすること自体が先生側のひ弱さなのです。
つまらない話を聞かせ続けられるのは辛い。
トーク力がなくて、それを補うために、聞いていなさいという発言が生まれて、聞けない生徒の方が悪いというところにまで意識が走ってしまう。悟りに影響があるのは、印象や記憶に残った話です。
徹底的に厳しく指導する先生もいれば、そういうキャラクターという存在を認知出来て将来に役立つ。
スラムダンクのホワイトデビルとあだ名を付けられる白髪の悪魔のように恐れられる先生に出会うこともあるかもしれない。
一般的に、つまらない話からは、薄い悟りしかないと思うかもしれませんが、「しゃべり方が一辺倒だから面白くないということなのか」などの気づきをくれているとも前向きに捉えることも可能です。こういう視点が、悟りに繋がるのです。悟りには、視点を変えるのが大切なのです。

学校と塾の先生を両方した人は強い傾向があるように思います。相手にあったものを提供する観点と均一な教育をする観点も、やはりどちらも必要です。
どちらか企業側の論理と目に見えない世界の論理のどちらか一方に走っても、面白くなくなってしまいます。
21世紀のこれからの時代は、十代の教育を徹底的に見直す必要があります。しかし、現場は忙しくて、わからなくなってしまっている。
日本では、西洋パラダイムとしての義務教育に染まってから、大人になってから、気付いて、東洋パラダイムの叡智と融合させる傾向にあります。ある意味、ここをきっちりすればいいだけなのです。どの人も、より心がスッキリする状態には、何歳でもできる対応があるのです。
このような物を、人生をオセロゲームに例えると、黒を白にする事ができるのです。私が、そうであったように。誰でも、できるのです。

日本だと基本的に、人間関係は、東洋パラダイムのまま行き、授業内容は、西洋パラダイムなので、ギャップが生じているのです。逆に言えば、このダブルバインドが、新しい愛を作れるのです。西洋では、人間関係も西洋パラダイムで、授業内容も西洋パラダイムなので、ダブルバインドが減りやすい傾向にありますが、その分、新しい愛が生まれづらいのです。
学校卒業後の社会人になってから、会社の資本主義的西洋パラダイムに突入する。ちょっとGAPがあるのです。どちらかと言えば、東洋のパラダイム社会主義的です。
気付いて伝えたいことを最大限に言える時は輝いていて、魂がのっている。
自然と惹き付けられるのですが、その人本来の個性と言える使命を発揮するのが大きいほど、聞き手に圧迫感を与えてしまい兼ねない場合もあります。
自分から湧き出す思いと相手の表情を読み取ることで言ってはいけないことを言ったか、そうではないのかということを知ることが出来るのですが、なかなかそこが出来ていないように見受けられます。これも、そのような場を公式で認めない傾向があるからです。
五人に対して話す時に、三人は興味深そうに聞いているが、残りの二人はそうでもない時に、その二人に響く話を出来るのかという事もあります。が、これは、より覚醒した状態と準備が必要になるのです。
面白い話というのは、ダークサイド(暗黒面)からの悟り、ホワイトサイド(明るい面)からの悟り、
ダークサイドの話を、本来はしていいはずなのが、それを封じ込めてしまっている。
ダークサイドから引っ張ると先生としてはモテる。やっている人が少ないからです。
例えば、「オナニーグッズ凄く精度が高い、作った人は天才だ」世間では白い目で見られるようなものでも、社会貢献が出来るということを伝えられる。
「異性が好きならAV 男優になったらいい」とか、江戸時代は性に開放的で、平安時代は顔さえも合わせず文での交換だったり、現代ならプロフ交換だけのようなもの。というように繋げていくことでバラバラで孤立しやすい知識同士の循環を促せる。
モテる先生の秘訣はダークサイドをいれられるかということ。戦車好きかとか、AV のレイプものとか、心理学用語で、犯罪学ではこうなっていると言える先生の方が面白い。
世相、時事ネタもそうですし、引きこもりが、先進国に多くて後進国では生まれにくいのかわかるかとか。本来の自分の悪意性も認めてほしい。ダークサイドを認めないまま無いものとして無視すると反感を食らってしまいます。ダークサイドも認めた上で、良心からの魂の響きというものにもっていけるようにするのがいい。
深く悟ると本当は良心なんてないのです。奥の奥の境地は善悪の無いところにいきます。それでも愛はある。純粋というのはある。一見矛盾する単語も、結合している。
善悪の領域は、物質の中の細分化された原子、素粒子のものに含まれるという説もあります。正直、この辺りの境界線は、今の私ではわかりません。色々な説の結合や、共有点で、こんな感じだと伝えているに過ぎないのです。何となくなのです。科学的な検証ができる人も、実際に見れる人という両方できる人は、あまりいないからです。どこかで、こうに違いないと区切りをする必要があるからです。
より言えば、表現的には、科学では、見付けられていないものなので、魂は知っていると表現した方が、より正確です。
悟りは、最終的には善悪の無いところに行き着きます。そこに埋まっているものとしてはそれだけ。そこまで行くと神をも越える境地、人格神としてのですが、善悪を越えた微小な粒子にはまた違った要素が埋め込まれている。
神ごとに性格が異なり、神殺しをする神、神が一柱(はしら)だけだとせっかく多様だからこそ成り立っている宇宙、地球がオールフォーワン、ワンフォーオール、皆は一人のために、一人は皆のためにとしても矛盾が起こらずに世界の秘密を解く鍵を持てる。なかなかその部分でいうと予定しているものもあれば同時にそれが存在を99.99999%しているが、ある観点から見たら存在していない0.00001%となっている。

人は求めている。ここには矛盾がない。有、無、空と色、どちらも同じであるあるものだということ。マトリックスという現実世界が実在すると言えます。マトリックスをこの世とすれば、あの世は霊界で、この世という現象界で人格を磨き、霊的な格を上げる。この世での魂の導きによって経験を重ねることで修行をしているととることもできます。神がマトリックスのパーツの一部分なのか、マトリックス世界に神がいるのか。4次元世界にいる人がマトリックス世界から4.5次元に行ったり、ただマトリックス世界を抜けるにはある儀式が必要なのです。現時点では3人しかいません。しかしどのようなシステムになっているのかはわからない。簡単に言えばその3人が儀式をすればマトリックスを抜けさせられる。人だけでなく、神も抜けさせられるのかはわかりません。4.5次元や4次元に行きたい神もいるかもしれません。

 例えばあなたの魂に神が入って、あなたが5次元世界に行ってということがしたいのかもしれない。約3000年前に全ての神が肉体を脱ぎました。今は神が肉体を持つことができないようになっているのです。魂が抜けきった状態を保つのは難しい。肉体と幽体を繋ぐシルバーコードを切らないままでは神がどうしても抜けやすい。シルバーコードを切らない限りは肉体の中に神がとどまるのは難しい。このシルバーコードを切れる神がいるのか。そういう存在が人間の中にもいるかもしれない。しかし基本的には人間の部分的な協力関係というのが考えやすいかと思います。どう人と神が力を合わせるにせよこのような内容について思いを巡らせるときにも閃きや、気づきという形で神と力を合わせられていることが有り難いです。

ダークサイドからのアプローチを封じて、ホワイトサイド限定にしてしまうのも不自然で、光と闇というのは必要だからあるのであって、
悪魔というのは人間が作り出しているものです。ルシファーは比喩に過ぎない。
比喩であり、比喩でもないという面もあります。どこの視点から観るかによって、違うのです。

少なくとも、現代は多くの人が悟りやすい、目覚めやすい環境になっているということです。
要は、この世とあの世をどう認識するかです。

とまあ長い講釈を垂れていたのだが、やはり、一年前より、今ではより新しい視点で、悟りの世界を伝えられる有り難さがあるのだった。
どういう風に、表現するかというのは、なかなか魂に聞き続けるしかないのだ。
伝えたいものの大枠の意味合いはある。
どうしても、段落ごとの表現をしている最中は、片方の方の視点が重なってしまうのだ。人というとは、たいてい最後まで読まないから、どうしても、四文程度に、色々な角度の話を入れて、ごちゃごちゃにさせる必要があるのだ。四文、四文、四文、四文を、それぞれ違う大枠にすると、どうも読まないのだ。
右いったり、左いったりの葛藤が、悟りを深める。
が、どうしても表現というのは、片側に片寄りがちなのが、頭の使いどころだ。