お供えもの 無意識マップの完成

「お供え物は、いらない。」
「お供え物は、いる。」
この二つの視点がある。
究極的には、「お供え物はいるともいえるし、いらないともいえる。どちらもある。どちらもない、、、、、、、」なのだ。
これが、この世界を文章で表現する最適な表現だ。何の事か、さっぱりわからないだろう。どうすればいいか、私も困っている。自分の視た世界を言葉で表現するのは、非常に難しい。あんな感じというのが、見つからないのだ。映画にでも、あればいいのだが。私には、まだ見つけられていない。不立文字のようだ。誰かと共有したのだが、私には、なんと説明していいか、皆目見当がつかない。よく、説明できるなと、感心感心。イメージ文字なのか。どうなのか。
3D技術で、何となくあんな感じというのは、できるかもしれない。探せば見つかるだろう。探してみよう。
そこまで感謝行ができていない人は、お供え物もいると思って、毎日行う気持ちを持ち続ける。
いらないと思って、毎日祈りを捧げる気持ちを持ち続ける。どちらがいいのか葛藤する。どちらも必要ないと葛藤する。こういう連続なのだ。
人間には、無意識マップの教育段階があるので、どれもありえるのだ。
この人には、「お供え物をしなさい」。この人には、「祈りを捧げなさい」。というものなのだ。
無意識マップを完成させてほしい、完成させたいという気持ちがあるのだ。
表現が違うだけで、真意は同じなのだという気持ちに気付くことなのだ。
私は、今お供え物をした。ごめんなさい。いつもしなくて。今までしなくて。ごめんなさい。代わりに、お婆ちゃんがやってくれて有り難う。気付かなくて、ごめんなさい。食べ物をしっかり噛まないで、ごめんなさい。それでもなお、食べさせてくれてありがとう。紛争地帯の子供は、食べられないのに、しっかり食べててごめんなさい。ありがとう。と毎回思う動作をするかどうかなのだ。この反復動作をきっちり、やれるかどうかなのだ。つい、パッと食べてしまうが、しっかり感謝することである。それは、自分のためなのだ。お互いのためなのだ。そうすると、澄んだ心になっている事に気付くだろう。
やることは多いが、一つ一つの動作をきっちりやることだ。そうすると、ごめんなさいと念じると、内面の声からありがとう。と発してくれるのだ。これが、感謝ができている人なのだ。
私も、ついサボってしまうが、きっちりやっていくのは、自分のためなのだ。私は、毎朝ごめんなさい。と念じる事は約束できる。約束できることから、取り組んでいくのだ。約束を守らなくて、ごめんなさい。魂に謝りたい。ごめんなさい。ありがとう。