verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

仕事がなぜ面白くないか お礼の形

仕事がなぜ、面白くないか。
いや、面白いとも言える。
が、今回は面白くないパターンから考えてみよう。やはり、固定化するから、面白くない
のだ。
この手順で、ここまで、このようにすると、絶対固定化するから、面白くないのだ。
が、社会を維持するのには、その物事の大小により、数十年間の絶対的固定状態、北極の氷のような状態は、必要なのだ。私たちは、散々固定解除を訴えているが、結局固定するのも、必要という笑える状態になってしまう。要は、少しずつ変えていけば良いのだというのは、最終結論だ。
行政に、ストライキされたら、困るのだ。

ふと、HYのwhistleというアルバムなのだが、全く損傷がないようなのだが、聞けないのだ。これは、おそらく、私が感謝してなかったからだろう。感謝していないのに、買ったからだ。いや、貰ったからだ。こういうのは、良くないのだ。
だが、感謝したら、聞けるのかというと、私にはわからない。多分、聞けるかもしれない。固定的に見えるものも、固定的ではないのだ。物質を、意識の器で見ると、何も変化していないように、感じるからだ。今の世の中では、普通だ。
したがって、私も意識の器なのだ。
まだまだ、鍛練が足りないのだ。ただ、盲信というわけではない。が、盲信すると、先に進めるとも言える。やはり、仕事には、自分達の意識で、変化を加えるしかないのかもしれない。
ご褒美をあげることだ。嗅覚というのを、食事の前に、しっかり使うと元気になる。食事は、気が抜けない。私は、思い浮かんだことを書くのが好きなのだ。これも、内外反転の原理がある。昔から、そうだった。やはり、人間は、現出化させる事に、快を覚える存在なのだ。この世は、痛みがあるギャグなのだ。どれも楽しい体験なのだ。私は、優秀な作家になるために、どうしたらいいか考えた。①家事を徹底する。②朝五時に起きる
シンプルに言えば、これなのだ。隣のおばあちゃんは、一人でも、きっちり徹底している。これが、自立というものだろう。私は、自立したくないと思った。やはり、匠の技というのには、憧れたほうが良さそうだ。頓珍漢に見えることも、繋がっている。有用ばかり求めたいた自分だったが、無用のものも、面白いと感じたものだ。
究極の実在が、一つの動きであるらしい。かなり確信してきたが、もう少しなのだ。このもう少しというのは、感覚のもので、目に見えないものに対して、様々な角度の検証が済んだ場合、本当に最後の決め手は、信じるというものなのだ。最初に盲信する場合もあるが、ぶつかりながら、確信になるのだ。ただ、私は、最後の一歩まで、そこまでいけてない。どうしたら、腑に落とせるのか、考えている。魂の修行を進めることだろう。なかなかしぶといのだ。今、全力で当たっている。数多の人が、そこに挑戦している。まだまだなのだ。物理現象の考察と、魂の修行のセットのようだ。かなりヒントをいつも、頂いている。が、なかなか、ハードルが高いのだ。この死闘に勝てるのだろうか。たゆまぬ追究次第だろう。
一つの動きなのだ。ということは、究極の真理としては、何をしても良いということなのだ。自分の人生なのだ。それにより、良いことも、嫌なことも、全て起こるだけなのだ。これは、びっくら仰天だ。笑って生きようと思ったものだった。昨日の自分と、明日の自分どちらが好きだろうか。今の自分だった。
楽をしようという魔がある。どうせ、家族だから、見ていないというのは、伝わるのだ。ご飯を30分寝かせるかという事について、負けずに寝かせた。こういうのが、有り難いのだ。日本では、飲食店の価値が、金額的に落ちてしまっているので、そこでカルマを溜める人が多い。店員と客の、疎通がスッキリ行われないような仕組みが増えたからだろう。これは、意外に恐ろしいのだ。牛丼屋さん、ごめんなさい。ありがとう。私は、牛丼屋さんに、チップを払ったことがある。友人を寝かせてあげたいというのと、ある時に起こしてほしいのと、少し情報交換をしたからだ。とても、喜んでいた。日本でも、チップを渡してはいけないというのは、思い込みなのだ。が、あまり多用するものでもない。
お礼の形というのは、色々あるのだ。
自分が成長した姿を見せるのが、一番なのかもしれない。楽をして、簡易なものにした分は、どこかで苦として、帰ってくるものである。